第15話 アンズの毒
第15話 めぐりめぐり
黒塗りの引き戸の前に立つ。
自分の部屋の前に立って緊張するなんて初めてだ。そう思いながら、からりと軽い音を立てて開く。すると目の前が黒く覆われて――
「イ、リ」
イリに、子どものようにしがみつかれている。
「ごめんね……」
肩と首のあいだに顔を押しつけられていた。イリの髪をなでる。彼の髪は想像するより柔らかくて、そんなことに驚く。
「なんで……」
発せられたイリの声は低く、掠れていた。それ以上続かなくて、ユアの腕にかかる手に力がこめられる。
そっと覚悟を決める。決めていたはずだけど、決めなければならなかった。
「話をしよう。イリ」
イリの髪をなでる。やわらかく、細い髪だ。
「ユア……」
イリがユアを抱く手に力を入れる。
抱きしめるとわかる、華奢な身体。すこし震えている。
肩が薄くて、小さくて、いまにも壊れそうなほど。
ユアの部屋には簡易のキッチンがある。小型だが冷蔵庫も完備されていて、ユアはそこから小さな薬瓶を取り出した。薬瓶は陶器製で冷蔵庫の中でひえて冷たかった。
ソファのスプリングをきしませて、イリの横に座る。
薬瓶の蓋を開き、ひと指し指を中のクリームにひたす。その指でイリがキリュに殴られた箇所をなぞる。イリは触れられた瞬間ぴくりと頬を震えさせた。
ユアは何ごともなかったかのようにイリの頬に薬を塗りこんでいった。そうしないとうろたえてしまいそうだった。
「わたしはアンズが嫌いなの」
唐突に、言う。
イリに薬を塗り終わって、薬瓶はローテーブルに置いた。こつり、と音が鈍く響く。
「食べれるけどね」
すこし笑って言う。
「なんで……」
イリが訝しげに呟く。
「むかし、小さかったころ、食べたらすごく酸っぱくて」
そう言いながら、ローテーブルを睨む。あのときはここにアンズ酒が置かれていた、と思いながら。今は、薬瓶。
「ああ……。そうだったかもしれない」
イリは懐かしそうに同意した。口の中に、アンズの、あの甘いような、酸っぱいような味を思い出す。
「今はもちろん食べれるわ。口に入れる前は躊躇うけど、食べてしまったら、おいしいとも思うの。でもね、母さまとか、みんなはわたしがアンズを嫌いだと思ってるのよ」
ユアはこの話をするのが恥ずかしかった。自分の弱さを見せるようだったから。けれど同時に、話してしまえば、イリにすがることができる、という甘い毒が口内に注がれた気がした。
「今は平気なの。けどね、嫌いなものを残しておけば、そこに逃げ道ができる。イリもその中のひとつだった」
イリは黙って聞いた。イリの前で、ユアがこんなに雄弁なことは今までなかった。
不思議な色の虹彩は、伏し目がちに。くちびるは、言葉を紡ぐ為にそっと開く。
イリがユアの身を抱くと、ユアはおずおずと身体を預けた。そのまま、話し続ける。ふたりがこんなふうに重なり合うことは初めてだった。身をつつむ人のぬくもりに安心する。声がすこしくぐもった。
「だって、イリはあたしをいじめてたんだもの。だから、イリに傾いていく自分が信じられなくて、絶対認めたくなかった。あなたなんか大嫌い……って。そうじゃないと、あの頃のあたしはどうなるの? ほんとうに苦しかったのに。いじめが終わっても、学校であなたを見るといつも身がすくんだ。あたしは、あのときから、あなたにいじめられたときから、ずっとあなたに囚われてるんだ」
イリの左肩の衣服が、ゆるやかに湿っていく。
「あなたなんか好きになりたくなかった……!」
イリの肩にかかる指に力がこめられて、そこには憎悪が垣間見えた。
「好き? 俺のことが、好きなのか?」
イリが信じられないというように、ユアに訊ねる。
「……あなたがいないと、不安になる」
知らず、イリがユアを抱く手に力が入った。
愛しいと思う。欲しいと思って、皮膚さえも邪魔。溶けてしまいたいと思った。
「好きなのは俺だけだと思ってた……」
低くかすれた声は、安心感のようなものとわずかな甘みをもっていた。甘くて、あの毒のような、アンズの。