Ⅰ レイの存在 後編
春と秋が気温的に最も過ごしやすいということは多くの人が思うことだろうが、最近この期間が妙に狭まってきている気がする。四季の区分はあっても、温度変化がそこから抜け出していこうとしているような。普通の格好をしていれば暑くも寒くもない、それがなんだか貴重であるような感覚がある。
ともあれ、そういう快い空気を押し分けて、僕は大学構内をうろついていた。これという目的地はないので、端から見れば散歩と解されそうだが、目的の対象なら存在しているので、単純にあてがないわけではない。
三か所ほど予想をつけて回っていたのだが、二か所目で発見した。
構内にいくつかある図書館のうち、最も大きいものの裏、誰が利用するのか、と突っ込まれるような位置に置いてあるベンチ。
そこに、あの人は座っていた。
いつもの光景だが、今日はこうも思う──今年もここにいるんだ。
「お久しぶりです」
小さく声をかけると、物思いに耽っているように俯いていた彼女が顔を上げて僕を見た。
「やあ。久しぶりだね」
彼女──立入理穂と名乗っていて、僕は普段理穂さんと呼んでいる──は嬉しそうに笑ったが、決して僕の目を見ることはない。他人の目を見て話せないらしいのだ。僕もそれは分かっているので、ベンチの横に腰掛けて、顔を向かい合わせにしないようにする。
「卒業されたかな、とも思っていたんですけどね」
「ふん。わたしの能力をもってすれば、君と同時に卒業できるかどうかも危ういね」
どこか尊大な口調だが、その言い分は非常に情けない。僕はため息を漏らしてから、今年は卒業してくださいよ、と呟いた。
理穂さんというパーソナリティは、大変謎にあふれている。今時そんなには見ない、黒髪の三つ編みに眼鏡という委員長スタイル。明らかに数本を履き回していると見られるジーンズと余り気を使っているとは思えない上着。今日はいつもよりも胸部の膨らみがよく分かるセーターだが、去年の今頃もこれを見た記憶がある。
いや、外見なんてものは些細だ。こういう女学生はうちにはごまんといる(玲だってそうだろう)。大事なのは中身だ。ミステリアスな話し方から読み取れる個人情報はほとんどない。出身地、自宅の場所などは一切知らない。大学でしか会わないからだ。サークル活動は僕と同じくやっていないようだが、どう見ても留年生なので当たり前とも言える。学年も知らないが、本人は法学部生だと言っており、うちは八年まで在学できるから、今七年生なのかなあ、と勝手に当たりをつけている。謎が多すぎて、法学部ということ、ひいては立入理穂という名前までもが本当かどうか自信がないが、ともかくそういう人だ。
一言で言い切ったら変人。
そもそも、理穂さん自身も自らを変人と断言している。
やけに口調が尊大だったり、そのくせ人と目を合わせられなかったり、それでも頭の回転は異常に速かったり──本当、よく分からない人だ。
なぜ僕がそんな人と知り合いなのかというと、これまた奇妙な話で、僕が一年生の頃の秋、一人でご飯を食べているときに、君面白いね、と話しかけられたのだ。どこがだ、と思って問い返すと、堂々と一人で飯が食えるなんて面白いなどという答えが返ってくる。変な人だなあ、別に一人飯なんてありふれているだろうとも感じたのだが、その日は何となくお話することになり、それがずるずると今の関係になったというわけだ。
うーん、自分で説明してみても、なんでこうなったのかが納得できていない。
あのとき理穂さんが僕に話しかけたわけ。それは今でも謎のままだ。
別に、気にならないんだけどさ。僕だって彼女を好ましく思っているし、この関係は全然悪くない。
「成績開示、どうだったんですか」
「そんなものは知らないね。君こそどうなんだい」
「比較的無事でした。優もいくつかもらえましたし」
大方、今年も単位を取り損ねたのだろう。僕にはこれが不思議でならない。
なにせ、理穂さんはやたらと頭が切れるのだ。
話しているとわかる。成績上はそれなりに優秀な僕なんかよりも、遥かに頭の回転が速い。いつも一人でいるが、語り口はとても怜悧で、不愉快になるようなことはしない。だから僕は理穂さんが結構好きなのであるが、同時にやっぱり変人だ、とも思う。
むしろ、彼女はここに留まりたがっているタイプだろうか。卒業したくなくて留年を繰り返す学生は、少なからずいる。
「理穂さん、今年の前期、なんか講義出ます?」
「履修する、という意味ならば出るかもしれないな。出席は金積まれなきゃあしない」
「……ホント単位取ってくださいよ。将来どうするんですか」
「そのときは、そのときだね」
華麗に、しかし不憫に言葉を切って、話題を一気に変えるように、
「そうだ君、春休み中は会わなかったわけだが、その間面白いことはあったかい?」
「そうですねえ……」
理穂さんのいう「面白いこと」とは、笑える話というよりは、怖い話や考えさせられる話のことである。僕はざっと記憶をたどったが、ついさっきのことを鮮明に思い出して、
「そうだ。僕の友人の知り合いの話なんですけど」
と前置き、先ほど見たフリーペーパーの記事の話をした。多少は理穂さんに怖がってもらおうと、精一杯工夫して語ったつもりだが、
「……へえ。あの話の語り手、君の微妙な知り合いなのか」
反応は淡泊。これしきではやはり、動じないか。僕は結構怖かったんだけどな。というか。
「あれ? この話、知ってました?」
「フリーペーパーに書いてあったやつだろう? ここの学生をやってれば、目にする機会もあるだろうに」
まあ、そうだけど。少しでも怖がらせようとした意図が水泡に帰してしまった。
「しかしアレは、大変に怖い話だね。背筋が凍る思いがしたよ」
「ええっ?」
思わず驚いてしまった。さっきまで飄々としていた身にはそぐわないし、なにより理穂さんでも背筋が凍るような思いをすることがあるのか、と意外に思った。
「君、私のことを機械だと思ってやしないか?」
眼鏡の奥の瞳がきゅっと狭まり、僕はしどろもどろになりながら、
「……まあ、ちょっとは」
正直に告白した。嘘はよくない。
「失礼なやつだな。君も思ったでしょう? 怖いなあって」
「そりゃ、もちろん。ぞっとしましたよ」
「そうだろ。あの投稿者の経済学部クンも、可哀そうな話だよ」
「そうですねえ」
「とっとと彼女と別れないと、大変なことになる」
「まったく……です? え? 彼女?」
彼女ってなんだ。そういえば、記事の末尾に彼女も信じてくれないとかいうことが書いてあった気がする。ん? それがどうしたっていうんだろう。全然展開が呑み込めない。
「彼女は彼女だよ。この話の全ての元凶」
「げ、元凶ですか。すいません、僕よく分かってないんですけど」
名前の通り「正直」に無知を晒す。すると理穂さんは仕方ない、と肩をすくめてから、
「もちろん、あの記事を全面的に信用することが前提だから、必ずしも正しいとは言い切れないけれども」
と前置きをして、僕に問いかけた。
「まず訊くが、彼に届いたメールを、人間が超能力などに頼らずに送ることは可能かな?」
「それは……できますよ。メールが来たら、予め作成していた文章を貼りつけて返信すればいいんですから」
「頭が固いな。それだと相手全員が一分程度で返信したことが不自然だし、彼の母親から新規メールが来たことの説明が付かないぞ」
「あ、そうか……じゃあ、どうやって?」
思考に詰まってしまった。母親からのメールは特に奇妙だ。
「もちろん、彼の携帯電話を弄ったんだな。電話帳に登録されているメールアドレスを、一文字だけマイナーチェンジするなどしたら、まず気付かないだろう。大抵は『母』とか『田中』とか、登録名しか見ないのだからね」
なるほど。言われてみればそうだ。そうすれば、彼が最初に送ったメールは同じサークルの女の子には届いていないことになる。代わりに少しだけ異なるメールアドレスをもつ携帯がそれを受信するので、そちらの管理者は簡単に呪いのメールを返信できるし、彼の母親を装った新規メールも送れることになるのだ。
「でも、それが彼女さんの犯行だってところは、なぜでしょう」
携帯電話をいじくることができるのは、やはり彼に近しい人物だからというものだろうか。そのことも併せて尋ねると、
「そうさ。彼女ってのは彼氏の携帯電話を勝手に見るものなんだろう?」
「なんですか、その偏見に満ちた言い草は」
もしかして理穂さん、彼氏ができたことないのだろうか。
「はは、それは冗談として、記事にはちょっと不審な点があってね。というのも、彼はあの現象が起きてから様々な人にメールを送って確認しているが、彼に彼女がいるならば、やはりちゃんとメールを送って確かめるものだと思うんだよ。実際、投稿の中に彼女がいることは書かれていただろう」
「そう……かもしれませんね」
「しかし彼はそれをしていない。これは彼女にメールをする必要がなかったのだと推測できるね。つまり、あの晩彼の部屋には、彼女がいたのだ。二人は一緒に住んでいるんだよ」
「ほ、ホントですか?」
「ああ。記事にも、気が付いたら朝だったというところを『起こされた』と表現している。同棲のことは何となく伏せたかったんだろうが、ここで無意識が出たようだね。またその晩だけ偶然彼女が来ていたってことも考えられるが、そんなときに別のサークルの女の子にメールなどしないだろう」
ゆえに、彼女は日常的に彼の携帯を触れるので、犯人と見てよい。そういうことか。
しかしこの彼女、大層面倒なことをやってやしないだろうか。全員分のアドレスを弄り、自分の携帯などが受信するように設定している。かなり大仕掛けだぞ。
「同じ空間にいたのなら、臨機応変な対応がとれたとは思うがね」
ここは想像の範疇を出ないけれども、と理穂さんは言う。
「例えば彼が誰にメールをするか、くらいは誘導できたはずだ。自分の携帯電話のアドレスをその都度変えるという戦略も取れることだし、案外と携帯電話は一台で済んだかもね」
どうだ? と息をついて、理穂さんは僕の顔を見た。会話しているときはそんなことしないのに、得意気になったときはこうなのだ。もちろん、それを受けて僕が口を開くと、目線はひょいとずれてしまう。
「いやー、さすがだなあ、と思いましたよ」
「ふふん。女版の江神二郎と呼んでくれたまえ。あれほど論理的な思考はできないけれども、留年を重ねているところは似ている」
その喩えはよく分からなかったが、やはり理穂さんは頭が切れると感じた。あの記事だけから、論理を組み立てていく力は目を瞠るものがある。こうして聞いてみれば自然な帰結のように思えるが、そこに簡単にたどり着けるのはやはり稀有だろう。しかし、だ。
「一つだけ、分からないことがあるんですよね。その、彼はどうしてこんな目に遭ったんでしょう? 言い換えるなら、彼女はどうしてこんなに手の込んだことをしたんでしょうかね?」
僕の問いに対する理穂さんの解答は、至ってシンプルだった。
「わからん」
……そうですか。
「正確に言うならば、狂人の論理が働いているように思うね。彼の反応が最近冷たいから、吊り橋効果でも狙ったとか、嫉妬心に駆られたとか、発端はそんなところかもしれないが、この行為には妄執が見られる。そこに私の想像を入れる余地はないかな。ただ」
諦め気味に言い放ちつつも、理穂さんは言葉を継いだ。
「ただ、だよ。これだけは言えると思う。人間、しっかりとした目的意識があったなら、どんなややこしい手段であろうと採る。だから、彼女がなぜこうしたかに疑義を差し挟むことは、わたしは野暮だと思うな。結果として受け止めるべきだと思う」
言いくるめられた気もしたが、言葉を反芻してみれば、確かにそうであるように思える。人間はやる時はやる生き物なのだ。感心からか呆然からか、僕は大きく息を吐いていた。
「だいたい、ミステリ小説において動機がどうとかよく言われるけれどもね、あれは作り手の意見と読み手の意見がまったく噛み合っていなくて……」
しまった、忘れていた。理穂さんはミステリについて語り出すと止まらない人だった。話題がそれに近かった分、火をつけてしまったようだ。
僕はそろそろお暇しようと思っていたのだが、それが叶ったのは三十分後のことだった。
○
下宿に戻ったときは、もう夕方になっていた。
昼食を四人で食べて、理穂さんと長いこと話していたので、当たり前と言えばそうだ。八畳一間の一角を占めるベッドに、ふわりと腰掛ける。
繰り返しになるが、僕は自宅が大学にまあまあ近いにもかかわらず下宿生活をさせられている。大方の大学生は、一人暮らしは自由でいいと語るが、サークル活動もしない、友達も限られている僕からしたら、そういう自由はどう処理すればいいのか困る時がある。
モノの少ない整然とした部屋を見渡す。人を呼ぶこともないし、こまめに掃除をしているから綺麗だ。ベッドに腰掛けたまま、こうして何を眺めるでもなく考え事をすることが、僕の癖になっているようだった。
ぼんやり。自分が抽象化した気分になる。
ふと思い起こしたのは、別れ際の玲のこと。
「──ゆ、雪見君!」
あんな風に呼ばれたのは初めてだ。漫画などで影の薄い女子キャラクターが出てくると、玲が脳裏をよぎることがある。それくらい、目立たず、大人しく、聞き手になることが多い人物なのだ。
なんだったんだろう、あれ。
あの場では、今度訊けばいいやと考えたけれども、いざ独り自宅の天井を眺めていると、じわじわ気になりだしてきた。
──実は私、雪見君のことが──
……なんてな。ないな。
変な想像はやめよう。もしそうだったら……そりゃ、嬉しいけど。
って、なにを考えているんだ、僕は! 現実に戻れ!
「ああ、いかん!」
声に出して叫び、頭を数回振った。なんだこれは。茶番だ。二十歳の冴えない男がこんなことをして何になる。こういう悶々とした空気感は、美少女だからこそ映えるものだぞ。
冷静に自分に恥ずかしくなったところで、空腹を感じた。今日は特に予定もないし、夕食は自炊をしようと思う。さて、冷蔵庫になにがあったっけ。
現実を踏みしめるようにして立ち上がる。すると、枕元に置いてある携帯電話が着信を告げた。
「ん?」
僅かに不吉な印象を覚えるのは、今日のあの記事が頭に残っているからだろうか。ただ、すぐにこれがメールではなく電話のほうだとわかり、暗い所感は薄れて行った。
電話を手に取る。一馬からだ。
いったいなんだろう。電話を掛けてくるとは珍しい。
「……もしもし」
「雪見だな?」
開口一番、やけに切羽詰まった様子だ。急ぎの用事だろうか。その割に周囲は静かである。彼もまた、自宅から掛けているのか。
「どうしたの?」
僕が問いかけると、一馬は一呼吸おいて、平素より若干低い声で、言った。
「雪見……信じられないかもしれないけど、よく聞いてくれ」
「う、うん。どうしたのさ」
自然と心拍数が上がる。見えない何かに対して、身構えたようなポーズをとってしまう。
「……服部玲は、存在しない」
「はあ?」
何を言っているのだ、一馬は? 存在しない? 玲が? 今日の昼、一緒に食事をとったばかりだというのに?
余りにも想定外のセリフが飛んでくると、思考は止まるようだ。英語を話す練習の際に英語で物事を考えていたら、語彙のない分野に足を突っ込んでしまって頭が真っ白になるような。そんな感覚。
そうして何も話せずにいると、一馬はさらに畳み掛けてきた。
「いや、存在しないというのは間違いだね。言い直す──」
言い直す?
混乱の渦中に叩き込まれて言葉を継げない僕をさらに突き放すように、それは来た。
「──服部玲は、幽霊だ」
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