Ⅰ レイの存在 前編
僕は椅子を蹴った。
なんということはない。会話をしているうちに無意識に動いた足が、食堂の座椅子を蹴ってしまっただけだ。
それでも、目の前で話している友人を遮ってしまったことは確かなわけで。
「ごめん、続けて」
僕──雪見正直と申します──は軽く謝ってから先を促した。向かいに座る友人──こちらは原根一馬という──は、さして気にした風もなく、
「……アレ? なんの話してたっけ?」
と首をかしげた。内実はどうあれ、真面目な大学生を体現したような地味な外見がわずかに傾く。描写に揶揄を込めたつもりはない。この僕も一馬と同じような格好、着飾らないファッションに染めたりしない黒髪、ごく普通のヘアスタイルをしているし、そもそも「チャラい」と言われるような大学生が、僕は苦手だった。
「写真の話、でしょ」
苦笑交じりに、一馬の隣に座っている花村桃香が言った。適度なお化粧とショートボブで、華やかさは抑えながらもかわいらしさを表出している彼女は、一馬と付き合っていることを、周囲に公言している。ごく自然に桃香の右手が、一馬の黒縁眼鏡をつついた。付き合い出してもう四年になるというが、それもむべなるかなといった様子である。
「ああ、そうだった」
ぽん、と左手を筒状にして右の掌に重ねる一馬を見て、くすりと笑う声が上がった。桃香の向かい、僕の隣に座っている、服部玲だった。
「わ、玲ちゃんが笑った」
珍しいものを見た、とばかりに桃香が指差して目を丸くするので、玲はスウと頬を紅潮させて軽くうつむく。
整ってはいても全く化粧っ気のない顔や、肩甲骨の辺りまで伸びた黒髪は、いかにも勉強熱心な大学生といった印象を与えるが、大変に小柄なため、遠目で見ると中学生と間違えてしまうかもしれない。とても内気な性格で、場合によっては「コミュ障」と馬鹿にされることもあるだろうが、やはり僕は女性に関しても、落ち着きのある人のほうが好きだ。
「──でだ。写真の話だったね」
一馬が上体をテーブルにやや乗り出す。僕たち四人は今、通っている大学の学生食堂で昼食を摂っているところだ。正確には食べ終わった後の雑談中、だけど。三月も終わりを迎えようとしている今日は、後期試験の成績開示があった。僕たちが所属している法学部は、ウェブ上で成績を教えてくれはせず、未だにアナログ形式で手渡ししていて、来月からは、無事全員三年生になれることが、実際足を運んでから分かったのだった。
「あのさ、昨日、クラスのメーリスで、こんなのが回ってきたの」
言うなり一馬は、携帯電話を操作してこちらに見せた。法学部は七つほどにクラス分けされているが、四人ともそこは異なる。同じクラスの人間とは、語学の授業が原則同一なので、仲良くなるのが普通だが、この四人は別の経緯で知り合っていた。
「どれどれ」
恋人の桃香も知らなかったようで、興味深そうに覗き込む。
ざっと確認するに、どうやら一馬のクラスの女子で、ネット投票型のミスコンのようなものに参加している者がいるようで、その応援投票を呼び掛ける内容だった。
「それ、投票してあげたの?」
僕が尋ねると、そりゃあ一応な、と答えが返ってきてから、
「そういうのさ、当たり前だけど、候補者のプロフィールが載ってるだろ、顔写真付きで。だからぼくはもちろん、その子のページを見たわけ。そしたらさ、言っちゃあ失礼だけど、まあ巧い写真で。いや、その子は元々可愛いんだけど、それでもこれは詐欺だろって感じで」
「別にいいんじゃないの? そういうものだと思うなー」
呑気につぶやく桃香は、彼氏が可愛い女子の話をしようと不機嫌になる素振りもない。さすがだなあと思いつつ、僕もネット投票なんてそんなものではないかと感じた。傍らで玲もうんうんと頷いている。
「そりゃ、ネットで全部決まるならいいよ。でもさ、これこの後にリアルの舞台に立って選考があるんだぜ? ここが疑問なんだな。あんまりいい写真を上げすぎると、現実に会ったときに落胆する度合いも大きいだろ? だったらなぜ、写真を盛るんだろうか?」
素朴な疑問です、と言わんばかりの一馬だが、桃香は眉をひそめて、
「ちょっと一馬、なに言ってんの! リアル選考に入らなきゃ意味がないんだから、その分の写真は出来るだけいいのを持ってくるに決まってるじゃん!」
「もちろんそれは分かる。よーく分かってる。それでも、落差は発生するんだよ。彼女たちはそれを受忍できるんだろうか? ぼくは無理だね。あいつ写真より大分ブサイクだな、なんて言われるくらいなら普通のもので勝負する」
「あのねー」
桃香が溜息をついた。一馬の言に呆れたというよりは、この議論は平行線に終わるのが目に見えた、といった風だ。比較的大きな目がジトリ、と横の恋人をにらむ。
「……写真と現実に違いがあることは、もう前提だと思うよ」
食堂の喧騒にギリギリ負けない程度の力で、玲が声を発した。
「そうよそうよ。芸能人だって、みんなそんなもんじゃーん」
弁護するように、桃香が有名モデルや歌手の名前をポンポンと挙げていく。
「それも、やっぱり変だ! すっぴんで勝負しろとは言わないから、写真は盛るな!」
一馬の言いたいことも伝わってくる。けれども、僕には別に思うことがあった。
「原根、さあ。写真と現実なんて、盛ろうが盛るまいが変わっちゃうもんだって」
言いながら、僕はポケットをまさぐった。目当てのものを見つけ、皆に見せる。
「……おおう。学生証」
桃香が唸った。学生証の顔写真は、入学時に撮ったものだから丁度二年前のものだ。その頃から身体が成長していることはないし、極端に老けてもいない。にもかかわらず、今の僕の顔と学生証の僕は、何とか見分けがつく双子レベルの類似性しか持ち合わせていない。
「な? 普通に撮ったってさ、きっと差は出るよ。だから、気合い入れようと別にいいかなとは思うよ」
実際一馬が問題にしているのは別の点なので、論破には至っていないのだが、どうやら一馬は学生証の写真に興味を奪われたらしく、自分のものを取り出して眺めている。
「うわ、マジだ。これがぼくか。似てないなー」
「ちょっと、かっこ悪いよその写真。しまっとこうよー」
桃香が窘めたので、一馬の学生証がどんなものだったのかをよく見ることはできなかった。チラリと見えた印象では、ぼく程度かそれ以上にはズレていたように思う。
「というか、桃香はどうなんだよ」
「あたしは無理っ」
普段の柔らかめの口調が一転して厳しくなる。
「受験生時代のイモ娘だからダサい。とにかくダサい。見せらんない」
追従するように、玲もはにかむ。玲は今も高校時代もほとんど変わっていないような予感がしたが、女の子のこういうことに口を出すのは野暮なのでやめておこう。
「ああ、あ。二年という月日の重みよ」
僕が嘆かわしくテーブルに突っ伏すと、時効にはまだ早いだろ、と一馬の法学部らしいツッコミが返ってくる。それでふと気になって、僕は体を起こして問いかけた。
「そうだ。原根さ、小説のほうはうまく行ってるの?」
「……微妙だなあ。がんばらないと」
ちょっと表情に翳りが見える。僕たち四人は法学部生で、僕なんかは単純に、勉強を重ねて法科大学院から法曹へという進路を見据えているのだが、一馬だけは違う。彼は、小説家を目指している。
では、わざわざ法学部に来た理由はなんなのか。それは就職に有利だからというものでもなく、なんだかなあ、と感じるようなものだった。
一馬と桃香は高校時代からのカップルなのだが、花村家というのは地方の名家のようで、桃香の親は一馬との交際を認めていないらしい。
「死ぬほど体面を気にするんだよねー、ウチって」
珍しく苦々しげな顔を作り、桃香がそう語るのを聞いたことがある。ゆえに、桃香の恋人ならばそれなりの学歴を積め、との理不尽なお達しが出た。桃香は優秀な高校生だったようで、一馬がその志望校、つまりここに合格するように勉強するのは大変だっただろう。その辺り、僕は一馬を尊敬している。我が大学は、偏差値だけ取ってみたら高いほうだ。
なお、二人の地元とここは非常に離れている。親に干渉されたくないという、桃香なりの意趣返しだろうか。
そういうわけで、一馬は法学部を卒業できるよう頑張る一方で、日々小説を書いては様々な文芸賞に応募する毎日を送っているのだ。是非とも頑張ってほしいものである。ちなみに桃香と玲の具体的な進路希望を、僕は知らない。とはいえまだ二年が終わったばかりだし、これから決めても遅くはない。
「……そういえば、孝介さんの新刊、出てたね」
玲がさらりと話題を変えた。
「あ、うん。読んだー?」
桃香がニッコリと笑って食いつく。顔面から嬉しいのオーラがダダ漏れだ。
「ううん、まだ。でも、買ってあるよ」
「まいどあり!」
おどけるように言うのはもちろん、孝介さんというのが、作家の花村孝介だからだ。
すなわち、桃香の実兄。本名で作家活動をされている。
エンタメ小説を中心に年に一、二作を出版する作家で、二十代前半のはずだがちゃんと人気を保っている。新刊が出れば、書店に平積みでしっかり見かけるくらいだ。桃香は多少ブラコンの気があるようで、花村孝介の話題を口にするときは、いつも嬉々としている。
一馬自身も、花村孝介は大いにリスペクトしていて、桃香は一馬に彼のような作家になってほしいと期待を寄せている。一馬は自分の作品を他人に見せないので、彼がどんなものを書いているのかは断片的にしか知らないけれども、首尾よく行くのが望ましいものだ。花村家としても、小説家・花村孝介は一家の誇りらしいから、一馬が世に認められたならば二人の関係も安泰である。
それからしばらく、話題が読書関連のことになった。一馬や桃香はもちろんのこと、玲も読書量は豊富である。月に四、五冊ほどは僕も読んでいるのだけれど、おそらくこの中では一番少ない。
「雪見ってさ、ミステリは読むっけ?」
「うん? あんまりだなあ。ジャンルで言うなら、SFが一番多いはず」
「そっか、いや最近、ぼくのイチオシのミステリ作家を発見してさ」
「へえー」
耳を傾けながら、ミステリという言葉に、あの人のことを思い浮かべる。
大学構内の人気のないところで座りながら、ずうっと考え事をしているあの人を。
──そういえばあの人、さすがにもう卒業しちゃったのかな。
ぼんやりと考えていると、怪訝そうな目でこちらを見ている玲に気が付いた。
「ん?」
「……意識が遠いところに行っているみたい、だったから……」
「玲ちゃん、野暮。雪見だって恋の病のひとつやふたつ、かかることもあるんだよー」
茶化すように桃香が言ったので、僕はいささか身体が熱くなるのを感じた。
「いや、そんなんじゃないよ」
そんなんじゃない、はずだ。嘘じゃない。
「ホントかな。なんとなく、それっぽく見えたけどねー」
「彼女できたら、ぼくにも教えろよな」
ははは、と笑って受け流すと、この話題は終わった。バカみたいに他人を「イジる」ことはしない。僕たちは、至極あっさりとした友人関係を結べている。いつも一緒にいるとか、必要以上に相手に踏み込むとか、そういうベタベタしたものが僕は苦手だ。だから大学でも友人の数は少ないけれど、僕のような意識を持った人間は殊の外いて、そういう人種とは気兼ねなく仲良くできる。ここに集まっている三人も、同様だった。
会話に切れ目ができたため、周囲の音が輪郭を持って耳に入ってきた。来る新学期に期待を寄せ、サークルの新入生歓迎の打ち合わせをしている声。返ってきた成績表を嘆きあう声。ぼそぼそと聞き取れない低音は、教員とみられる大人たちのもの。もちろん、単なる雑談の割合が一番高い。
「三年生かー」
しみじみと、桃香がつぶやいた。我らが法学部は単位の取得状況にかかわらず四年生までは上がれるので、当然といえば当然だが、大学生活の半分は終了したことになるのだし、感慨もある。卒業して、自分はどうするのか。大学院進学を考えているなら、そろそろそれに向けた動きも必要になってくるかもしれない。
「ま、今年も仲良くしてくれい」
僕が調子よく告げたとき、大きめの音量の会話がこちらまで割り込んできた。
「だからァ、バイトサボるのは簡単だって! 大学生だし、試験って嘘ついときゃだいたいイケるからな! てか、今日もバイトだったわ」
「そりゃお前、理系はいいよ。試験ばっかりやってるイメージだもん。でも俺、文学部だぜ? なんの試験がこまめにあるってんだよ」
「ぎゃはは。ご愁傷様!」
なんてことはない、会話。普通に大学内を闊歩していれば、よく耳にするだろう。
しかし僕にとっては、大変に許せない類のものだった。
怒りのスイッチが入り、思わず舌打ちが漏れる。一馬が仕方ないな、という調子で肩をすくめ、桃香が苦笑いし、玲は長めの睫毛を伏せた。
──僕は、病的に嘘が嫌いだ。
この世でもっとも許せないものは何かと問われると、嘘をつくことだと答えてしまう。もちろん、殺人と嘘を比べてどちらが重罪か、となれば殺人だと思うけれども、心理的にどちらに嫌悪感をより覚えるかと問われれば、答えに一瞬詰まる。
嘘をつくことは、卑劣な行為だ。僕は心の底からそう感じている。どうしてなのかと言われるとうまく言語化できない(具体的な深い理由はないってこと)のだけれど、そのように育てられたから、というのが大きいかもしれない。正直という僕の名前が意味するところは明らかだし、裁判官の父は口を酸っぱくしてそのように僕を躾けたものだ。
両親の教育方針のすべてが良かったと僕は考えていないし、例えば僕の実家はこの大学から比較的近いにもかかわらず、一人暮らしをしなければならないと下宿生活を義務付けられたりしているのだが、それはなぜだろうと思ったりもする。しかし、自分が嘘を憎むようになったことについては、後悔していない。人は皆こうあるべきだ、と考えている。
もちろん他人の嘘にいちいち腹を立てていたらキリがないし、友人もなくしてしまうことは分かっているから、せめて自分だけは嘘をつかないでおこう、誠実でいようというのが僕のスタンスだ。他人に強制することは、まずない。
それでもあのように、他人を騙すことを誇らしげに語る人間を見ると、心底イライラしてしまうのだ。怒りを表出するのは大人げないと感じつつも、やはりああいった人種は嫌いだ、と思う。
「……あ、そうそう、これ見てよ!」
気まずくなった空気を解消するためか、桃香がおもむろにカバンから小冊子を取り出した。うちの大学の有志が毎月作っている、娯楽フリーペーパーの今月号だ。大学の取材からネタ企画、投稿コーナーに懸賞パズルとバラエティ豊かな構成で、学生人気も高い。
気を遣わせてしまったな。心の中で詫びて、僕は率先してそれに注目した。
桃香が指差したのは、読者コーナーの一点だった。テーマを設定して回答を求めるものではなく、フリーコーナー。学生が自分の体験や思想を発表する場であるのだが、そこに書かれていたのは、こんな記事だった。
『恐怖のメール 経済学部3年・男』
──ある夜のことです。私はサークルの連絡事項を伝えるために、メンバーのとある女子にメールを送りました。一方的な内容だったのですが、なんと返信が一分もしないうちにやってきました。
たぶん、了解しました、だな。そう思ってメールを見たのですが、開けてびっくり。
それは一分で打てるとは到底思えない、とんでもない長文メールだったのです。
長文を打つこと自体はコピー&ペーストで何とかなるにせよ、その内容がひどい。あなたを呪うだの、不幸が訪れるだの、不吉な言葉のオンパレードでした。
あの子、どうかしたのかな。心配になってもう一度メールすると、やはりすぐ返信がきて、その内容はやはり恐ろしいもの。これはいけないと直感し、今度はその子をよく知る友人にメールを送りました。あの子今、なにかあったのか、と。
ところがそのメールすらも、一分かそこらで返信が来ます。
速いだろ、と悪い予感を胸に覚えつつ開けると、やはり、そういうメールでした。
あの子に限らず、友人まで? 私は一気に背筋が寒くなりました。別の友人にメールをしようかと思うも、三人に送って同じ結果が出たので止めました。夜中だけれども目は冴えてしまい、一向に眠れません。と、ここで私の携帯に着信がありました。新規メールです。返信ではなく、新規メール。差出人を調べたら母でした。私は思わずほっとして、それを開きます。
……が、もうお判りでしょう。母からのメールも、そうだったのです。
私はぎゃっと悲鳴を上げると、そのまま失神してしまいました。
起こされたときは、すでに朝。幸運なことに、私自身に異変はなく、あれから一週間が経つ今でも、特に問題はありません。メール自体も、通常に使えています。
あの夜は、ただの悪夢だったのでしょうか。今となっては見るなり即座に消してしまった不気味なメール群を、残しておいたほうがよかったとも思っています。あれは現実だったのか。彼女に話しても親に話しても、不思議そうな顔をされるばかりです。
「……こういうのは、夏にやってくれよと思う」
あまり怪談の類が得意でない僕は、素直にそう漏らしていた。大学生が書いたものということで、本職のホラー作家に比べて筆力は格段に落ちるものの(というか、有り体に言って下手だ)、情景を想像することは可能なわけで。昼間の人気のある場所とはいえ、ぞっとした。
「……怖いね」
いつもの調子でぼそりと言う玲の言葉も、この状況下では不気味な感じを醸し出している。
ただ、一馬はややきょとんとした表情で、
「それで桃香、これがどうしたんだ? いや、怖い話だなとはぼくも思うけども、それを紹介するのが狙いの全てだったようには見えなかったけど」
と訊いた。こいつ落ち着いているなあ。フィクションに触れすぎているのではなかろうか。
「ああ、そうなの。実はこれを投稿したのねー、あたしの知り合いなんだー」
ひやっ。春の空気が、ひと季節ぶん退行したかのように冷たく感じられた。
「ええと。その人って作家志望?」
とりあえず尋ねる。が、そうならばここで話題に出すわけがないか、との思いもある。
「ふふふー。本人は、実体験って言ってた。そういえばあの時、ちょっとやつれてたなー」
おいおい、もうやめてくれ。僕は本当に身震いした。
「そりゃ恐ろしいね。まあこの大学らしいといえば、そうかもだけど」
眼鏡の位置を調整しながら一馬が言った。口元には笑みが貼りついている。
「うん? なにが?」
桃香が怪訝そうに尋ねると、あれ知らないのかと言わんばかりに一馬は目を丸くした。しかし同じく理解できていない僕や、ちょっともじもじしている玲を見やり、どうやら自分のほうが少数派であることに気づいたようで、
「おかしいな。有名な話だと思ったんだけど──ほら、七、八年前だったか、この大学でさ、変死事件が起きてるだろ」
「「変死事件?」」
僕と桃香が同時に訊いた。初耳である。
「いや、結構有名な話。大学にまつわるオカルトとしてだけど」
確かに僕はそういう噂話をキャッチする能力に乏しいけれども。
「ま、ぼくもそこまで詳しいことは知らないけどね。一般教養棟の、どこだったかな、とにかくどこかで、女生徒が変な死に方したってことくらい」
「学内で、死人が出たんだ……」
桃香が眉をひそめた。この大学は一学年だけでも四ケタはいるから、毎年誰かが亡くなっていてもおかしくはないが、やはり学内というのは稀だろう。
「ニュースにはそんなにならなかったらしい。ただ、学内の言い伝えみたいなのが残ってるからさ。死んだ女子の霊がそこを夜中にうろつく、とか。意外とそういうオカルトネタ、この大学に多いよ。調べてみなよ」
「そもそも原根、よく調べたわけ?」
「まあね。学園もの用の取材をしてるときに、副次的に入ってきたり」
なるほど。桃香の紹介した怖い話とあいまって、背筋に冷たいものを覚えるが、少し興味が湧いてきたのも事実だった。
「なんて名前なの、その亡くなった子……あ、ニュースになってないならわかんないか」
言葉を濁す桃香に、調べれば分かるが知らないな、と一馬が返した。と。
「……その話、やめよ?」
平素よりは少しだけ大きな声で、玲が言った。にこやかな表情を浮かべているが、細められた眼に宿る光が、真剣さを放っている。
どうして、と訊くまでもなく、僕たちは顔を見合わせてそうした。多少有名な事件らしい、玲も知っているのだろう。そして、あまりいい思いを抱いていないのだろう。だったらあえて口にするでもない。
「お、もういい時間じゃないか」
一馬の一声を期に、僕たちは席を立った。いい加減、周囲の人もまばらである。
食堂を出て、一馬と桃香とはすぐに別れる。自転車でそれぞれの下宿に帰るらしい。遊びに行ったことはないが、二人は同棲関係にはない。まあ、一馬も執筆に集中したいのだろう。
「じゃ、また……来週くらい?」
ひらひらと手を振る僕に、二人はニコリと微笑みを返して遠ざかって行った。
残る二人で、構内を歩く。男子の平均よりは高い僕と、女子の平均よりも低い玲の凸凹コンビだ。ちなみに、一馬は僕よりわずかに高い程度、桃香は標準的な女子の体型である。
「服部さん、これからどうするの?」
「……ちょっと、大学に用事があるから。雪見君は?」
「ま、いっしょ」
用事というか、人探しというか。
そういうわけで、しばしの二人の時間が流れた。といっても会話は特にないが、気まずい感じもない。端的に言って、玲は口数が少ないのだ。
「あ、私ここ」
そのうちに玲の目的地が先に来て、彼女は人差し指をつんと立てた。
「そう。じゃ、また来週にでも」
法学部の建物そばで、玲とも別れる。バイバイと手を振ると、彼女は足を止めたままだ。律儀に見送るというよりは、どこか言い残したことがあるようにも見えたが、別に今日問いただす意味もあるまい。僕は背を向けて、歩き出して──
「──ゆ、雪見君!」
途端、一際大きな玲の声が背後から襲いかかってきて、僕は驚き振り返った。
「は、服部さん?」
彼女があんな大声を上げるなんて、雨どころか飴までもが降ってきそうだ。
けれど、視界に映る玲は、なんだか今にも泣きだしそうな顔をしていて。
「どう、したの?」
つい真剣に訊いてしまう。何かあるのか、または何かあったのか。
しかし、数秒を挟むと、玲はいつもの大人しげな玲に戻ってしまった。
「……なんでも、ない。じゃあね」
そして、小走りで去って行ってしまう。
なんだったんだろう、今の。この顛末を目にしていた通行人の学生も、僕をすがめては不思議そうに首を捻っていた。
まあ、いいか。来週覚えていたら、尋ねてやろう。
そう考えて歩み出す僕は、まだ知ってはいなかった。
四人のこの心地よい関係は、いまここで終わってしまったということを。