Ⅷ レイの真相 後編
目の前にいる男が、花村桃香の兄、花村孝介。
僕はその事実に驚愕しながらも、頭はそれに急速に順応していくのを感じていた。
なにせそのほうが、筋が通るのだ。
替え玉説は立てたものの、お金を積まれたとして四年間も頑張るものだろうか、という疑問はあった。しかし実の兄なら報酬どころではない。家よりも妹、その恋人に同情的ならば、それくらいするはずだ。そのほうが恋人のフリもしやすい。気になる点があるとしたら、
「実家で執筆なさっている、と聞いていますけど……」
「ああ、俺はもちろん年上だけど、タメ口でいいよ。そのほうが楽だろ? こっちも素の口調で話しちまって申し訳ないがね。それでなんだっけ、執筆の場所か。まあ覆面作家だし、そういうことにしてる。けど、実際は出版社が近いこっちでも仕事してるのさ。ただ実家で書くこともあるから、まるっきりの嘘じゃあない」
「……そう、なのか」
自然とタメ口に流れる。それはやはり、外見は十分過ぎるほどに「一馬」だからで。
「じゃあ、なぜここに?」
「服部さんから電話をもらった。君に呼び出された、どうも大体のことは察したらしい、と。彼女ひとりじゃあ荷が重いし、来た。あ、今までの会話は隠れて全部聞いていたからな」
話し方ひとつとっても、原根一馬として僕の前に現れていた孝介は、演技をしていたことがわかる。外見は今も変わらないが、そちらも普段は違うかもしれない。少なくとも、眼鏡は本物の一馬が使っていたものと同じものにしていただろう。
「そうそう、こっちに来たのは、桃香と同時だな。わが花村家のご当主さまより、お目付け役を仰せつかったってのもある。それを逆手にとって、大学に行ってたのは俺だったけど」
ふっ、と笑う孝介。これが可能だったのも、桃香がブラコンであるというのが大きいように思う。おそらく一馬は、外見的にも多少孝介に似ているところがあったのだ。桃香はきっと、兄に似た人物を好きになる。雰囲気が近く、作家志望であれば適格ではないか。
そう僕が感じたのを知ってか知らずか、孝介はニヤリとして言った。
「これでも桃香は、お前を気に入ってたんだぜ」
「え?」
「大学で俺は、友人を作る気はなかった。人間関係は減らしたほうがいいからな。しかしゼロだと怪しい。というわけで、淡白なやつと知り合いになろうとしていて、雪見を見つけた。服部さんも一緒だったな。で、お前が嘘嫌いって知ったときは少し困ったけど、その内面は一馬に似ているところがあった」
「……そう」
結局見ることは叶わなかった本物の一馬が、急にリアルに感じられた。
「あいつも頑固なやつで、作家デビューしたら大学に通ってなかったことは明らかにする、なんて言ってたからな。どうしてもやりたいことがあったからよかったけど、嘘が基本的に苦手だったんだよ。桃香はそういうところも好きだったらしい」
だとすれば、大学に行かずに執筆を続けるということも相当本気だったのだろう。そして、桃香と離れる気もなかったのか。もっともこちらは、尊敬していたという孝介とのつながりも重要だった、と言えるかな。
「……というか」
僕は我に返った。一馬の人となりを知りたい気持ちもあるが、今は別のことが大事だ。
「僕がさっき語ったことは、間違っているんでしょ? まずはそれを教えて欲しい。それとも僕自身が気づかなければ、言うつもりはないの?」
声に棘を含ませて訊くと、孝介は苦笑いをしながら顔の前で手を振った。
「いや、話させてもらうよ。雪見の言う通り、服部さんはあくまで付随的に関わってくれたわけだ。単に服部玲を葬りたかったから便乗した、という推理は違うけどな」
「……ううん。部分的には、そういうのもあったから……」
観念したように、楓が俯いた。孝介はそれをなだめるように、
「部分的、だろ。だったらやっぱり間違いだ。しかしここまで来たら隠すわけにも行かない、全部話すよ。疑われた時点でこっちの負けだったからな」
降参のポーズを取るかのように、両手を上げる。それが演劇的に思えて僕はやや腹が立ったが、それよりもここまでのことを僕にした理由というものを聞きたい思いのほうが強かった。
「じゃあ、聞くよ」
「おう。ただまあ、雪見の推理で正しいところもたくさんあるんだぜ。俺が一馬じゃないとか一馬の自殺から全てが始まったとか。ああ、服部玲のフリをして逃げ回った替え玉ってのもあったな。あれは、矢野さんだ」
「えっ? ……ああ、言われてみれば」
矢野さんは小柄だから、玲の恰好もできる。また、あの時は茶髪だったはずだが、次の日会ったときは金髪だった。これは、少しでも印象を変えようとしたのではないだろうか。ヒールを履いていたのも、身長をごまかそうとしていたのかもしれない。
それならそもそもで僕と会うのを忙しいと断ればよかったものだが、それは負い目があったのだろう。会いたくない理由を勘繰られたくなかった、ともいえる。そういえば、あのとき彼女は出身である文学部のキャンパスに逃げ込んだというのも、傍証かもしれない。
「矢野さんも、完全にグルになってたってこと、か」
「その通りだ。だから雪見の前で失言してしまったようだがな。あれが本当にまずかった。こちらとしては、幽霊っているのかな、くらいに思ってもらって、いつも通りの生活を送ってくれればよかったからな」
「けれども僕は、原根を殺したのが矢野さんではないか、と思ったりした」
理穂さんも、それはまずいと言っていたっけ。次々と記憶が蘇る。楓が比較的すんなりと玲の追跡を諦めたのも、僕が幽霊を信じることが重要で、事を荒立てたくないのならば、よく理解できた。
「そう。結局それで色々と考えられてしまい、気付かれた。当日矢野さんがフランスにいたのは良かったのか悪かったのかだな。ああ、俺自身も何度か雪見の前に姿を現しておこうと思っていたけど、俺を露骨に探し出してからは逃げの一手だったぜ」
やはりあれは、意識的に離れていたのだ。
「……それで、どうしてこんなことをしたの? 服部さんに花村兄妹、矢野さん……これだけ全員で僕を騙す理由が、どこにあると?」
「うーん……その質問には答えられない」
「はあ?」
さっき全て話すと言ったばかりなのに、手のひら返しが過ぎる。しかし孝介はすぐに、
「誤解するなよ。答えたくない、じゃないぜ。答えられない、だ。なぜなら、服部さんに花村兄妹、矢野さんの四人全員で、雪見を騙したわけじゃあないから」
「……え?」
僕は一瞬思考がストップし、たどたどしく考え始めた。全員で騙していないということは、この件に関与していない人間がいる、ということだ。しかし、ここにいる孝介と楓はどう見ても仕掛け人だし、矢野さんも関わっていたことを認めている。
となると。
「……花村さんは関係がない?」
「そうだ。桃香は雪見が俺たちに騙されていたことを、一切知らない」
そう言われると、それっぽい符合も思い出される。服部玲が幽霊かもしれないと言ったときに、心底意外そうにしていたことや、楓が幽霊の話を適当なところ(つまり、それを僕が信じきったところ)で切り上げたのに対して、一馬の幽霊のことは語り続けていたことなど。
だが、同時に僕はそれを否定する根拠も持っている。
「あのさあ、花村さんは僕と一緒にあなたを見て、一馬の幽霊だって言ったんだよ? でもあなたは花村孝介でしょう! じゃあそこは、嘘以外のなにものでもない」
「ああ、そうなるな」
「それと、話を聞いていたなら分かっていると思うけど、僕は花村さんに写真を見せられたんだよ。あの矛盾はどう説明するの?」
「それか。ええとだな、桃香はその写真に一馬が写っている、と明言したのか?」
「……厳密には、違った。原根の幽霊がいる証拠を見せる、ってことで渡してきたね。でも、写真には花村さんと矢野さんしか写ってなかった! だったらそれは彼女にしか見えなくて僕には見えない『設定』なんでしょ? それは僕と彼女が同じ『幽霊』を目撃できることと合わない、ってさっきも言ったよね?」
矢継ぎ早に問いかけると、孝介はしばし沈黙したのちに、静かに言った。
「……つまり、俺が一馬だったら、全ては解決するわけだ」
「えぇ?」
何を、言っているんだ。
「俺が、一馬……まさしく、そうさ。雪見が気付いていない、一番の重要なところ。いいか、よく聞けよ。我が妹こと花村桃香はな、精神を病んじまったんだよ」
「……なっ」
驚愕の息が漏れたが、これまた頭は理解し始めていた。新学期に初めて会った時の桃香は、明らかに正常だとはいえなかったからだ。
だがそれでも、次に飛んでくる言葉は、僕の全身を衝撃で打ち抜くに十分なインパクトを持っている。とっさに僕はそう直感した。
「……つまり桃香は、一馬が首を吊ってる横で、俺の姿を見て……俺のことを、実兄の花村孝介という人間存在ではなくて、恋人の原根一馬という幽霊非存在だと思い込んだんだよ」
「!」
直観通りの帰結に、息が止まった。何ということだろう。
だったら花村桃香は、本当に幽霊を信じ込んでいたというのか。
僕が迷走したり楓たちが仕掛けたりしている中、独り愚直に信じ抜いていたというのか。
幽霊なんて、ありもしない幻想を。
ここにはいない桃香に対して「なぜ」の気持ちが湧き起こる一方で、納得できるような気もした。大学に入学してからは、桃香にとって花村孝介と原根一馬は重なり合っていたのだ。一馬のフリをして通学する孝介。もちろん一馬の下宿に行けば、本物の一馬が小説と向き合っていただろうけれど。
そして、恋人を失ったとき、その現実を認めたくなくなるのは分かる。現に、愛する人が死んだことを受け入れられなくて、生きていることにするという事例は存在する。
まして、目の前で愛する人が死に、そのそばには死んだその人の替え玉が生きたまま立っていたとしたら? 替え玉を替え玉として扱うのではなく、死んだその人の幽霊だと思い込んでしまうことは、果たしてありえないことだろうか?
桃香は強い人間だと思うけれど、目の前で一馬が死に、そして傍らには、外では原根一馬として長い間存在してきた孝介がいれば──そうなっても、全くおかしくはない。
むしろ、そうなる可能性はかなり高かったことだろう。
僕が何も言えないでいるのを見て、孝介は補足を始めた。
「そうなると、桃香の言動も分かるだろ。あいつにとって、現実にいる俺は一馬の幽霊ゆえ、雪見とともに俺を見かけると、ともに一馬の幽霊だと思うって寸法だ」
すん、と鼻を鳴らす音が聴こえた。ここ数分間は黙りっきりの楓だ。そうか、楓としてもこれは孝介から聞かされているわけで、これが明るみに出たことに何らかの感情は持ち合わせているに違いない。
「で、写真の件だが……もちろん、そこに幽霊は映っていない。桃香にとっての幽霊、つまり俺が写真を撮られれば、当然写る。だけど桃香は、幽霊の証拠を見せると言ったんだろ。あれは幽霊が写っているってことじゃあない。逆だ。幽霊が写したんだ」
「幽霊が、写した? ……ああ! そういうことか!」
僕もようやく、合点がいった。
「まあその想像で正しいと思うが……あの写真を撮ったのは俺だ。そして桃香は一馬の幽霊が存在する証拠として、俺が撮ったという事実を伝えたかったんだよ。桃香にとっても、写っているのは二人だけだった。しかし問題は幽霊の証明だ。一馬が死んだあとに撮られた写真の撮影者が一馬なら、そいつは幽霊だろ?」
僕はあのとき、写真を一瞥して素直に気持ち悪さを覚え、そそくさと桃香から離れてしまったのだ。よくよく話を聞いていたのなら、そこまで知りえたことだろう。
一人納得していると、孝介が僕をきっと見据えて言った。
「枝葉を拾ったところで本題に戻るぞ。雪見を欺いたのは、俺と矢野さん、それから服部さんの三人だ。ヘッドは俺だな。そしてその中に桃香はいない。さて、どうしてそんなことをしたのか。もちろん、桃香を守るためだ」
「……守る?」
「そうだ。まず、実家には桃香の変調を伝えていない。あの家は体面を恐ろしく気にするから結果的に桃香にマイナスの影響を与える、と判断したのもあるし、俺という替え玉を隠したままにしておきたい、というのもあった。何より、ある一点に目をつぶれば、桃香は通常の学生生活を送れた」
「ある一点……原根の、幽霊だね」
「ああ。だがそのためには、障害が一つあった。雪見、お前だ」
「僕?」
僕とは一体。いや、文脈からいったらそうなるのは当然だし、なんとなく把握してもいる。しかし、疑問形を伴った問いは勝手に口を突いて出ていた。
「俺もそうだが、桃香にも友人は多くない。一馬と桃香、両方をよく知っているやつは、服部さんを除けば雪見くらいのものだ。そして、一馬が死んでしまった以上、当然俺が替え玉だったことは報告するべきだろう。友人としては、それが当然だからな。けれど、雪見にはそれを言えなかった。お前は嘘が嫌いだから、桃香に向かってあいつの思い込みを訂正するように尽力しそうだったからさ」
「そんな、ことは」
言いかけて、自問する。本当にしないと言い切れるだろうか? 桃香が孝介を、死んだ一馬だと思っているのを傍目に、それは違うんだと詰め寄る可能性はないか?
分からない。
言われていることは理不尽に感じるものの、即座に反発することを妨げる心の迷いがあるのも事実だ。
僕は──いや、こんなことを考えていても仕方がない。
大事なのは、孝介がそのように判断したということなのだから。僕がどう受け取ろうと、孝介は僕を、桃香にあだなす存在だと考えた。
「桃香の幽霊については、時間をかけてなんとかすれば、いずれ戻るだろうとは考えていたからな。だが、雪見はそれを阻害する可能性が高い」
「じゃあ、僕から離れればよかったんじゃないの?」
さすがに僕も怒りの感情を覚えて、突き放すように言い返した。
「それもよくなかった。桃香にとってそうする理由がないし、あいつがいつも通りの生活を送ることが一番大事だったからな。その中には、雪見の存在もいたよ」
「……だから、僕に幽霊を信じさせて、桃香が嘘をついていないと思わせようとした」
「全くもってその通りだ。俺が求めたのは、桃香の思い込みを受け入れてくれる友人の存在だった。それで服部さんにも協力してもらおうと思って、連絡を取った。すると、本当は服部楓だというじゃないか。だからそれも補強材料として利用させてもらった。その方が信憑性が増すのも確かだからな」
ということは、一馬が死んでから計画を立案し、孝介が僕に電話をかけるまでは、それなりのタイムラグがあったことになる。もっとも一馬が何時ごろに死亡したかを調べようとはしなかったし、知りえないところだったとは思うけれど。
「でも、そこまで……」
「そこまで、ってことさ。さっき雪見は服部さんに、こんなことをした理由は、雪見が雪見だからだ、と言ったよな。ああ、その通りだよ。雪見だから、こんなに回りくどいことをやったんだ。お前が嘘を病的に嫌う性質でなかったら、素直に口裏を合わせるように頼んでいたよ」
──僕だから。
さっき告げたこれが、ブーメランとなって僕に帰ってきた。
なにも言い返せなくて、歯ぎしりをする。
言いたいことは、山のようにある。が、次のように集約もできる。
──そんなくだらないことで、ここまでのことをやったのか。
そりゃあ、服部玲という嘘を消したかったという理由よりはマシだ。僕が桃香の心を壊してしまう可能性を避けたという点は、まだ強固だ。
それでも、くだらないことに変わりはない。
僕にそのまま告げたって、いいではないか。頼み込まれたら僕だって黙っていられるかもしれないし、替え玉やら偽名やらと腹の立つことはあるだろうけれど、どちらも誰かを積極的に害しようとしているわけではないのだから、正直に言ってくれたら不機嫌にこそなれ、そこで割り切って終わるはずだ。
しかし、事態はさらなる隠蔽のほうに突き進んでいった。
僕はそこが、悔しい。憤懣やるかたない。
一方で、そういった怒りのエネルギーを発散する気にも、なれない。
つまり僕は、そう思われていたということなのだ。
自分では、嘘は嫌いだけれど融通が利かないわけではない人格だと分析している。嘘が嫌いになったのだって、トラウマやら何やら深刻な過去に根差しているわけでもない。
ただ、なんとなく嫌いなだけ。
程度は激しいものの、ルーツとしてはその程度のものだ。
しかし、孝介は、楓は、そうはとらえなかった。
雪見正直に嘘はタブーである、と深刻に考えた。
本当はそんなこと、ないのに。ただそれだけのすれ違い、ただそれだけの理由で、これは起きた。
一番責められるべきは、自分のふるまいだけで、内面の細やかな所まで相手に伝わっていると思い込んでいた、僕なのではないか。
正直でいればすべて完璧に伝わると勘違いしていた、僕なのではないか。
いや、そんなことは、ない。
嘘をつこうがつくまいが、相手の解釈がいつも自分の思い通りにいくなんてことは、あり得ないのだ。
自分という存在を否定された気がして、僕は俯いてしまった。そうだろう? 桃香が去年話しかけたのが僕でなければ、こうはならなかったのだから。結局は孝介も、僕を敵だとみなしたのだから。陸地に立っていたと思ったら、不安定に揺れる船上だったような気分だ。すわりが悪く、落ち着かない。存在の根拠を問われるような焦り。
そんな僕に追い打ちをかけるように、孝介は言った。
「さあ、これが全てだ。約束通り、話し切ったぞ。だから俺からお願いだ──桃香をそっとしておいてやってくれ」
身を乗り出すようにして、僕に頭を下げる。
「これだけのことをしてしまったのは、本当に申し訳ないと思っている。雪見が嫌がる事だと分かって、覚悟してやった。もう顔も見たくないならそれで構わない。桃香とも会いたくないなら、それでいい。だけど、あいつの幻想を今は壊さないでやってくれ。あいつの」
「そういうことじゃないだろ!」
思わず僕は、怒鳴っていた。向かいの楓が怯えて自分の肩を抱く。
「関係を切るとか、そういうことじゃ、ないだろ……」
どうしてそこまでするのだ。たかが黙っているだけのことではないか。僕だってできうる。それをなぜ、はなから出来ない可能性が高いと決めつけたのか。今も、僕が孝介たちを見放すと決めつけるのか。
僕は、そんな人間なんかじゃない!
大声で吐きだしたい本音は、しかしながら、それを言ったところで始まらないという諦観が打ち消してしまう。
「どうして、僕にまず言わなかったの……どうして……」
怒気と諦めに挟まれて、ぐずぐずと垂れ流すような疑問に、孝介が答えることはなかった。散々やり取りしてきたことだから──彼らが、言わない方がいいと判断したから。それだけ。
行き詰まり、とはこういうことだろう。そして僕は、最低の行動に出ていた。
「服部さんも、さ」
怒りの矛先を、より弱い存在に変えたのだ。案の定楓は泣きそうになる。
「花村さん(ああ、ついに孝介を僕はこう呼び出したか。言いながら思った)から相談されたとき、どうして乗ったのさ。僕に話せばわかってくれるとか、思わなかったわけ? それともそうしたほうが自分の保身になると」
鋭い音がして、僕の言葉は途切れた。
孝介が僕の頬を張ったのだと、ワンテンポ遅れて気付く。
理不尽に感じる気持ちはなかった。我に返ることができてよかった、と孝介に頭を下げる。
その孝介は、何も言わないまでも、苦渋の表情を浮かべながら、僕を睨んでいる。
彼も、苦しんでいるのだ。
では、このままでいいというのか。追及の仕方が分からない問いが、胸に渦巻く。
「……だったんだもん」
と、振り絞るような楓の声が聴こえた。孝介と二人して、そちらに注目する。
「大事だったんだもん! 雪見君も花村さんも、みんなみんな! 経済学部で上手く行かなくて、逃げるように法学部にもぐってできた、大事な友達だったんだもん! 私が名前を偽っていたってこと、いつ雪見君に言おうかなんて、ずっと迷ってた……その矢先にこんなことになって、逃げるみたいに参加したのは確かだよ。でも、私はみんなと一緒にいたかっただけなんだもん! もう人間関係を崩すのはいやだったの!」
一気呵成の告白に、僕の心は揺れた。服部玲としてはもちろん、楓に戻ってからも、このような激情を見せることは初めてだった。隣の孝介も、目を剥いている。
何度も何度も繰り返すが、ならどうして楓は僕に伝えなかったのだ、と問うのはおかしい。それは僕の言い分であり、どれだけ主張したところで、楓の選択は覆らないのだから。
全ては僕の性格(の解釈)に起因するとはいえ、申し訳なかった、と謝る気はない。自分としては、間違ったことをやった意識はない。それは正しいだろう。
一方で、二人を怒鳴り散らす気ももうない。とんでもない嘘をつかれていたことになるから、そうなる余地はあるものの、その奥にある切実さや、やるせなさがそれらをせき止めていた。
「……分かった。黙っておくよ」
ゆえに僕は、かろうじてそう口にするのみだった。
「本当に、申し訳ない」
深々と頭を下げられる。隣の楓も、テーブルに額をくっつけている。肩の震えがよく分かって、僕はなんだか寂しさを感じた。
「それに、怒ってないっていうと嘘になるけど、絶交とかそういうのは考えてないから。これからも、服部さんとは顔を合わせるわけだし、そこらへんは今まで通りでいいよ」
今まで通り。その対象は服部楓なのか、玲なのか。あえて言葉にしなかった。しかし、顔を上げた楓の表情には、明らかな安堵が浮かんでいた。まるでそれを与えるために、誘導されたかのような錯覚を感じる。
「ごめんね……」
感極まったのだろう、メイクを崩すほどの泣き顔が現れた。
「……こうしてみると、最初から雪見に言っておけばよかった、と思うところもあるな」
孝介がしみじみと言い、だから僕としてはずっとその立場だよ、と思う。
──あれ。なんだろう。
激しく浮き沈みしていた感情の中に、僅かではあるが、穏やかなものを見つけた。
一つの出来事が始まって、終わりに向かう感じ。
ふと、それを覚えた。
孝介が一馬で、楓が玲だったころ、桃香も入れて四人でここに集まったときから始まった一連の騒動。それが、現象面でも心情面でも収束していくのが目に見えるようだった。
心情面。
そう、自分でも驚くことなのだが、僕は一連の出来事に、早くも心理的な順応を始めようとしている。真実を知ってからの激しい怒りと、それを鎮火させてしまう現実に対しての認識。その折り合いをつけながら、僕は一馬を玲を、孝介を楓を桃香を、消化しようとしている。
もちろん今日のことは、しばらく引きずることだろう。楓と会っても多少の気まずさは覚えるだろうし、桃香と話す時に変に気を遣ってしまうかもしれない。
だが、それも時間の問題である、ような。
いつかはそんなわだかまりもなくなって、ひょっとしたら花村孝介としての彼とも親しい関係を築いて行ったりして。そんな未来が、ふと、見えた。
それはすごく望ましいことで、歓迎するべきなのかもしれないけれど。
……それで、いいのか?
そのように僕を苛む声が、あった。それでいいのだろうか、と囁き続けている。しかし具体的にどこが、というのにはピンとこない。
ピンとこないまま、終わってしまいそうな、予感。それも胸に去来した。
「じゃあ、今日はとりあえずお開きにしよう。色々と整理をすることもあるけど、ゆっくり時間をかけよう。桃香も、俺たちも」
孝介がそう言って、席を立つ。
それでいいのか。このまま見送って終わりでいいのか。
「ああ、俺はちゃんとこっちにいるし、いつでも連絡してくれて構わない。今までは一馬の連絡先を使っていたから、こっちが新しいやつ」
素直に個人情報を受け取ってしまう。
だから、これでいいのか。
このままで──と。
頭の中で、不意にスパーク。
閃いた。
「ちょっと待って」
引き止める。
心に渦巻いていたものが、シンプルな形でまとまるのが分かった。
「……どうした?」
怪訝な表情。しかしその奥にあるのは、決して明るいものではない。
形勢逆転を狙う勢いで、僕は訊いた。
「花村さんは……それで、いいの?」
「何が、だよ」
「……実の妹から、存在しないものと思われ続けていいの、ってこと」
孝介の顔が、苦悶に歪んだ。
これは、深いところを衝いた。確信を得る。
桃香にとって孝介は、孝介であり且つ一馬でもあるような存在ではない。一貫して、一馬の幽霊だ。桃香は自分に兄がいることを知っているが、その兄を見たところでそれを兄だと思うことはない。
孝介は時間をかけて癒していけばいいと言っていたが、その長い間、自分は一馬として扱われても構わないというのだろうか。つまるところ、疑問はここにあった。「こうあるべき」を主張する孝介自身が、その実現に従って、一方的に不利益を被ってしまうことになるのに、なぜ続ける。
「……俺は、いいんだよ。そもそも、一馬のフリをすることを引き受けた時点で、この責は負うべきだろ。それよりも、桃香が治ることが大事さ」
「じゃあ、なんで精神科みたいなちゃんとしたところに行かせないの?」
楓が息を呑んだ。ポニーテールが不吉そうに揺らめく。精神科なんていう、ラジカルな表現を持ち出したからだろう。
「そりゃ、そこまでするほどのものでもないと思ったからだろ」
「嘘だね。だって、桃香のこれを隠すために、僕にあんなに仕掛けたじゃないか。それだって初めから診療にかけたら終わるよね。僕が桃香に何かすることもない。そう危惧することもない。でも、そういうのは嫌だったんでしょ?」
沈黙が返ってきた。肯定の証と受け取って続ける。
「それはなぜかって、実家に知られるのが嫌だったんじゃないの? 替え玉とかそういうこと以前に、桃香があんな状態だってことがさ」
実の兄を、死んだ恋人だと思ってしまった──そんなことを聞いて、花村家の人々はどう思うことだろうか。
「……ああ、そうさ」
意外にもすんなりと、孝介は認めた。そして顔をしかめながら、
「桃香も言っていたはずだが、田舎のステータスもちってのは体面を気にするところが多いからな。ただでさえ、一馬が自殺したおかげで桃香に迷惑がかかった、いっそのこと実家に戻そうなんて考えていたりする。それはダメだ。今桃香を実家に閉じ込めるのはダメだ。確実に精神状態を悪化させる。だったらこうするしかないだろ?」
「「そんなことは、ないよ」」
発した言葉がユニゾンした。楓も同じことを口にして、立ち上がっていたのだ。けれど彼女はそれを見て取って、僕に続きを譲る。僕はそれを、素直に受け取る。
「本当になんとかしたかったのは、僕じゃなくて実家の方でしょう? でも、花村さんは実家を相手取るのは止めて、全てを隠すことにして、その際のひずみを調整するために、僕を騙した。もちろんそれも一つかもしれないけど、最初から実家と戦うっていう手もあったんじゃないのかな? 全て打ち明けた上で、こっちに留まることができるように説得す」
がしっ。
言い切らないうちに、僕はまたしても遮られてしまった。
今度はビンタではなく、胸倉を掴まれるという形で。
「……お前にうちの何が分かる」
僕の頬を張ったときは、僕を正気に戻す意味合いが見受けられたが、こちらには明確な敵意があった。
「言葉にするのは簡単だよ。だがな、こっちの実情もよく知らないで、勝手なことを言うもんじゃない」
それに対して、僕もひるまずに向かう。できるはずだ、さっき孝介に指摘されて感じたことをそのまま返せばいいだけのことだ。
「花村さんだって、僕が彼女の心に危害を加える可能性が高いって決めつけたじゃないか。こっちの実情もよく知らないでさ」
「……っ」
「僕だって、言ってくれたらちゃんとしたと思うよ。そりゃ、嘘は嫌いだから苦言を呈するかもしれない。でも、それが最良だと思えば協力したさ。だけど僕の普段の言動から、花村さんは僕をそう判断したわけでしょ。何が違うっていうの」
そう。何が違うというのか。僕も、孝介も。
お互い他人のことを、勝手に決めつけてしまって。
人と人が分かり合えないなんていうことはない。しかし、常に分かり合えるということは、それに輪をかけてありえない。親しい間柄だろうと、今にも戦争を始めそうな関係だろうと、そこは同じことだ。僕はそれをひどく痛感した。
それでは、お互いがお互いを勝手に決めつけてあれこれ言うのはおかしいのか。そんなこともない。全ての印象は、所詮ラベリングなのだ。時にそれは正解し、他者を「理解した」ことになる。正解しなければ、こうなるだけのこと。
それでも僕たちは、自分の決めつけを相手に伝えていかなければ始まらないのだ。
「別に、花村さんを責めてもいないよ。まだ怒ってる部分はあるにしてもさ。でも、僕の意見としては、これしか方法がないってことは、ないと思う。それだけ」
どこか説教くさいなと思うけれども、僕はこんなものだ。何となく嘘が嫌いなだけの、人。
いつの間にか、僕の服を握る手は離れていた。
孝介の両腕は、力なく垂れ下がっている。
そしていつの間にか、楓が僕たちの間に割り込んで、孝介を見据えていた。
「……私も、雪見君と同じ。もちろん、雪見君を騙す方向に自分から行ったのも確かで、今さらそんなことを言うのは卑怯だから、ちゃんと言うよ。私としては、花村さんの実家を相手取るよりも、こうして行った計画の方がよかったと判断した。でも、こうして全部ばれちゃってからは、やっぱり無理があったんだなあって後悔してる。そして、これから桃香ちゃんをそのままにしておくのも一つの手だとは思うけど、それは唯一の選択肢じゃない、って思うんだ」
今までの弱弱しい態度を精一杯に払拭して、言葉を紡いでいる。
「……はは、は」
乾いた笑い声が聴こえた。孝介が、顔に手をあてて声を漏らしている。
「……言われてみりゃ、その通りだよな。俺もなんだかんだで逃げてたんだ。そうか、そうだよな。それだけじゃあない」
そして、僕と楓に向き合って、言う。
「ちょっと、時間をもらうよ」
「「うん」」
今すぐに決断することではない。どのみち、主導権は孝介にしかないのだ。彼が決めて動いた道に行けばいい。僕としては、桃香のためにもそれに協力するだけだ。
ただ。
「やっぱり、今のままは辛いと思うよ」
最後に本音をぶつけて、僕は微笑んだ。言いたいことを言い尽くして、今度こそ「消化」が始まったような気がする。こうして僕は、現実と折り合いをつけていくのだ。
「……かもな」
またも顔を押さえる孝介の目の端が、僅かに光ったような気がした。
The scene's so good.




