Ⅶ レイの論理 後編
僕は緊張していた。
これまでの人生で緊張したことは、そりゃあ何度もある。だが緊張にも種類はあるわけで、緊張の元となっているこの状況は、僕にとって初めてのことだった。
「はい。お茶です」
「ど、どうも……」
僕にコップ一杯の麦茶を出したのは、楓だった。ぱっちりメイク、溌剌ポニーテールの女子大生。
つまりここは、彼女の下宿である。お部屋、オブ、ザ、ガール。
端的に言って、僕は女の子の家に単独でお呼ばれしていた。緊張以外の何を感じればいい。
どうしてこうなったのかもよく分からない。今は夕方前といったところだが、その一時間ほど前、授業終わりに楓と出くわした。どうやら彼女は玲を追跡すること自体からは身を引こうとしているらしく、ちょうど僕も一馬を探し回って迷走するのをやめた頃合いだったこともあって、まったりした雰囲気で話すことができた。
そこで僕は思った。そういえば、一馬に関することを楓には話していない。
楓とは関係のないことと言えはするのだが、現在僕が玲と一馬を結びつけた推理をしている上に、以前玲を追いかけたときに迷惑をかけた負い目があった。僕があんなに切羽詰まった行動を取ったのも、やはり一馬のことが念頭にあったことが原因だったし、この辺りは打ち明けておこうと感じたのだ。
だから落ち着いて話せる場所に行こうと誘ったところ、なぜかここにいる。
なぜか、というか、普通に楓の方からうちに来ないかと言われたわけだけど。
ドライな人間関係を築いてきたので、一人で他人の下宿に上がりこむのは男女問わず初めてのことだ。まして女の子の部屋など、誰であろうと緊張する。
しかし、なんで急に僕を……
きっと、楓の中でそれは普通のことなのだろう。もしかして僕に気があるのでは、とは勘繰らない。自分を卑下しているわけではなく、知り合って日が浅すぎるからだ。僕も彼女に好意こそ持っているものの、恋愛感情はさすがにない。
他人を簡単に呼べるだけあって、部屋は大変片付いているところだった。ピンクが基調なのが女子らしい。ベッドにこたつ、本棚にテレビ、使い方不明の運動マシン。居心地は良さそうだ。本棚を埋めている参考書が、法学と経済学でごっちゃになっているのがいかにも転部者である。僕のと全くお揃いの六法が、横倒しになって置かれているのが目についた。
ん? 一瞬、なにか違和感を覚えた。まあ、いいか。
どうぞと促され、暖の入っていないこたつに向かい合って座らせてもらう。
「それで、なんだか沢山話すことがあるみたいだけど?」
「ああ、うん」
言われて僕は、ぽつぽつと話し出した。暗い話をする、と断った上で、去年の友人関係の話から、一馬の死亡や桃香の変化について語る。楓がつらそうな表情でこちらを見ているのが分かったが、ここで止めるのはかえって失礼だ。
楓の知らない背景を埋めることで、僕が玲についてどのような姿勢で臨んでいたかを説明する。それゆえに暴走しがちであったこと。知り合い(理穂さんのことだ)に諌められて、今はそれなりに落ち着いていること。
「というわけなんだ。あの時は迷惑かけてごめん」
頭を下げると、楓は恐縮したように手を振った。
「ううん、全然気にしてないよ。……そっかあ、そんなことがあったのかあ。雪見君って、霊感強い人なんだ」
「うーん、それまでは全く気付いてなかったんだけど」
この前理穂さんに聞いた、幽霊の見え方についての推論を紹介してみせる。もちろん受け売りだと断って。知ったかぶりは嘘と同じだ。
「そういう考え方は、今までしてこなかったなあ」
「僕もだよ。でもまあ、幽霊が見えてるんなら、そういうことかもね、なんて」
楓にも話し終えてしまうと、一層肩の荷が降りた気がした。もうこれで、焦る必要もなくなった感じである。
「そういえば、その花村さんは、お元気なの?」
「ああ、うん。僕と一緒で、原根の幽霊が見えているってことから、安定してるよ」
新学期に会ったばかりの頃の狂気じみた状態は、一馬が死んだ衝撃と幽霊になって現れた衝撃がないまぜになってできたものかもしれない。もっとも、一馬が死んだことに変わりはないのだし、その事実はしっかりとこれから受け止めて行かなくてはならない。僕も込みで。
「それでも、心配だな。お友達は多いの?」
「ううん、割とあのカップルで完結してたから、僕と同じで友達は少ないなあ。だから僕も、ちょくちょく様子を見てる」
「それがいいよね。私も友達少ないんだあ」
ありゃ。それは意外だった。玲なら分かるけれど、人付き合いもよさそうなのに。
「外ではちょっと背伸びしてる部分もあるかも。転部したのだって、離れたくない友達がいなかったからこそできたわけだし」
「へえ。姉妹で根っこの部分は似てるのかな」
ポジティブな話題ではないので食いつきは控えめにする。少しばかり逃げるようにして視線を動かすと、学業とは関係ないものをまとめた本棚に、タロット占いや神話の謎など、オカルチックな書籍が多いことを発見した。
「こういうの好きなの?」
指差して尋ねると、恥ずかしそうにはにかまれた。
「そうなの。ほとんど漫画とかライトノベルの影響だけどね。実は一年生のときは、オカルト研究会に顔を出してたりしたよ」
「え。そうなんだ」
唐突に思い出されるのは矢野さんのこと。まあ、それだけのことだ、深く考えるな。
「あんまり怪しくてすぐやめちゃったけど。幽霊部員だったね、多分」
幽霊、という言葉がなんだかおかしくて、僕たちは揃って笑った。
「なんだかんだで、サークルとかやらなくても、楽しく大学って通えるよね」
「私も同感。縦のつながりが全くないのは困りものかもしれないけど」
「法学部、ゼミあるよ。今年から本格化するけど、取ってるの?」
「ううん、後期から。履修の届け出が間に合わなかったの。色々と遅いなあ、私」
はあ、とため息をつくも、空元気をふかすように、
「まあ、青春ってのも今からでも遅くはないよ。うん」
そう言って両の拳を握る楓に、なぜだか僕はドキッとした。
とはいえ、そこから何かが始まる、なんてポップソングのような展開は訪れることもなく、僕はしばしの世間話を楽しんだ後、また来てねとのお言葉を頂戴しつつ、帰途についたのだった。
○
僕はのんびりしていた。
これまでの人生でのんびりすることなどありすぎて数えることもできないが、ここ数週間においては、久々の気楽さであるように感じられる。
振り返ってみれば、様々なことが降りかかってきた学期始めだった。
きっと発端は、試験の成績開示後に四人で集まったことだ。その日に一馬から電話がかかってきた。内容は、玲が幽霊であるということ。
全く信じられないまま調べると確かに玲は七年前に死んでいて、しかも電話の直後に一馬が死んでいることを桃香から聞かされる。さらにさらに、桃香には一馬の幽霊が見えているというのだ。
その後、僕も幽霊を見間違えたりしながら玲のそっくりさんに遭遇。楓だった。双子か本人かと見間違ったが妹。これにはびっくりした。
クラスメイトの一部から、見えない空間とおしゃべりしているやつという評判を得たのもこのころだ。日を置かずして、僕も一馬の幽霊を見かけたし。
そうして混乱の真っただ中だったのが幽霊という現象を受容できるようになり、楓と玲の死亡現場で探偵ごっこをやったり、実際玲を追いかけたりして、矢野さんへの疑いというものが一気に芽生えた。
不安定モードが再開し、一馬を探して大学内を徘徊。理穂さんに止められて、今に至る。
正直、現時点でも矢野さんのことは気になる。こちらからコンタクトをとるのは気が引けてしまうけれど、一馬がなんとかしてくれないかな、と思い、待っている状況だ。
幽霊が、なんとかする。
考えてみれば、この世の物質に干渉できる幽霊とは最強じゃないか。ひょっとしたら、自分にゆかりのあるものにしかできないのかもしれないが、それでも手段はいくらかあるだろう。
念じたものを具現化できるというのも、心を掴む。ノート類や、お弁当。思えば奇妙なことだった。成績開示の日に弁当持参はないだろう。あれもまた、玲が幽霊であることを暗に示していたのかもしれない。
僕が死んだら、幽霊になれるのだろうか。
そんなことも考えてしまう。ただ、僕が今のところ見た幽霊とは、玲と一馬の二人、おそらく殺されたであろう二人だ。幽霊になる条件は、誰かに殺されることなのかもしれない。それはちょっと、嫌だ。
あるいはまあ、僕が見える幽霊の条件が、誰かに殺された人ってことかもしれないが。
と、気ままなことを頭に浮かべながら、一週間ほど大学に通った。普通に楓や桃香とも会ったし、理穂さんを見かければ雑談をした。ゼミも本格化し、生活も少し忙しくなる。
そういえば最近話し相手に女性が多い気がするが、そもそも一人で真面目に大学に来るのは女性多数に感じられる。男は群れたり、彼女といたりで、一人がいいやつは大学が面倒になって来なくなる傾向があるような。僕の所感にすぎないけれど。
そして当の今も、桃香という女性相手と会話しているところだ。授業終わりである。
「花村さんはゼミ、行ってるの?」
「行ってるよー。憲法だよ……思ったよりしんどい……」
「そりゃ、六法系はガチなの多いでしょ」
「雪見君、どこにいるの?」
「刑法。民法に比べたら、資料は少ない方だと思うから楽かな」
「あー。刑法ね。似合ってるよ、それっぽい」
「そりゃどうも」
探るような切り出し方が多いのは、会話を通して桃香の精神状態をチェックしているから、というのがある。新学期のインパクトが強烈過ぎたせいか、今でも桃香のことは心配なのだ。幸い、ゼミにもちゃんと出席しているようだし、言動も去年と特に変わることがない。そういえば、最近僕といる時に一馬を見ることがないな。
「そういえば、さ。原根の幽霊って、まだ、いる?」
そういう話題に切り込むのも、あまり躊躇せずできるようになった。しかし。
「うん、いるよ。出て来たばかりの頃と比べると、ちょっと頻度が減ったかも。でも、来てくれるよー。やっぱり安心する」
ああ、桃香はまだ立ち直れていないな。そうも思った。今でも一馬の幽霊にもたれかかっている。多分この先も子どもっぽいねと言われるであろう桃香の特徴的な大きな目は、時たまこの世を見ていないような気がするが、それも間違いではない。
矢野さんのことは、一馬から聞いているの。それを問うことはできなかった。できたとしても、無責任に一馬があえて避けている危険を引き受けるのはおかしいと感じるのでやめていただろうけど、やっぱり今の桃香には訊けない、と思う部分もある。
「僕はなんだかんだで、あの時一回見たっきりだったなあ」
こんな風にお茶を濁すに留まった。
「あれ、変なの。雪見君のとこに行きたくないのかな。心当たりある?」
「……まあ、あるかな」
正直者スキルが発動してしまう。でも、詳細を明らかにするのは、やめよう。
「ケンカかなー。それはよくないよ、一馬はもう死んじゃったんだから。今度会ったら言っとくね、あたしからも!」
「あ、ありがとう」
これは予想外の収穫だった。まあ、あちらが僕を避けているのも現在は見当がついているから、期待を大きくするのはよくないが。
もののついでで、僕はさらに質問を重ねる。
「あのさ。やっぱり原根が亡くなったときは、編集の矢野さんとかあの辺りにも連絡行ったのかな?」
「うん、行ったよー。さすがに一馬と出版社はまだビジネスとしては繋がりがないけど、お兄ちゃんと一馬が仲良くってそっちの繋がりはあったし。でも矢野さんはあの頃は取材でフランスに行ってたから、お葬式の時まで会えなかったけどねー」
「フランス?」
ちょっと待て。
「うん、フランス。写真付きのメールくれたよ。でもその時はちょうどゴタゴタしてるときだったから、返信するのすっごく気まずかった。だって、絶対矢野さん気にするもんね。変な時に楽しげなメールしちゃったって」
「あ、そうなんだ」
適当な相槌が漏れてしまったが、それもそのはずだ。フランスだと? もし一馬が死んだときにフランスにいたとすると、矢野さんは犯人たりえなくなってしまうではないか。
フランスにいたフリというのは出来るのだろうか。僕としては難しいように感じる。プライベートな旅行でなくて社用ならなおさらだ。これは、アリバイというやつではないだろうか。
もちろん、抜け道はある。フランスから電話で一馬と話し、自殺に追い込んだというものである。どうやったらそんなことができるのかは分からないが、自殺の強要自体は起こりうることなので考慮に値するだろう。
しかしその線は、理穂さんに頼らなくとも自分で消せる。
なぜなら、僕が矢野さんに疑いをもった理由は、一馬が僕に最後の電話をかけたことを知っていたからだ。そのためには着歴確認がいるので、一馬の携帯電話に触らなくてはならない。そして当然携帯電話は日本にある。フランスにいては不可能だ。
これは……僕では、手におえない。
桃香のトピックは再び学業関連のところへ移っていたので、僕は少し安堵しつつ会話を続けていたが、そろそろ帰らなきゃね、となって別れた途端に、理穂さんがいるであろう場所を探して早歩きになっていた。
今日もいい天気でよかった。空模様が悪いと、理穂さんを見かけることは稀だ。家から出てこないのかもしれない。授業で見かけることもごくごく稀にあるが、あの足跡事件のときのように、恥ずかしがる傾向がある。いつも超然としていたいのだろうか。だったらそれは、結構成功しているように思える。
幸い図書館裏の立入ベンチに彼女はいた。一発成功、ホールインワンである。まあ、成功率は高いけども。
「やあ、君か。この前会った時もそのパーカー着てなかったかね」
あなたのそのセーターも死ぬほど見ていますよと言いたいところだが抑えた。さっさとベンチに腰を下ろし、突然ですがと話を切り出した。
「……へえ。フランスとはまた、遠いところを」
腕を組む理穂さん。
「このアリバイ、崩せませんかね?」
難しい問題はより賢い人に。聞けばミステリにおける探偵とは、ダメ人間が多いという。理穂さんなんて適役ではないだろうか。
「……ほぼ無理だろう」
しかし、返事は無情なもの。わからない、ではなく、無理、だった。
「無理、ですか……その、情報が少ないとかではなく」
「むう、そりゃ、うまく細工をして当日は日本に戻り、またフランスを往復することが不可能とは言わないね。ただ……それで犯行が露見せずに済むかどうか」
「現にいま、原根の死は自殺扱いされてるじゃあないですか!」
「自殺扱いされることと、大掛かりなアリバイトリックを用意することは違う。むしろ、自然に自殺したと思わせられるのならば、アリバイなんていらない。原根一馬を殺しそうな人間なのかね、矢野女史は?」
「客観的に見たら……違いますけど」
「ならば、そこまでやる意味も感じられない」
「それでも、念には念を入れたのかも」
「君、今日はやけに食い下がるね……ああ、そうだ。確か原根一馬は、死んだ日の昼食時、服部玲が死んだ七年前の事件について語ったのではなかったかね」
言われて僕は思い出した。その通りだ。
「そしてそのときは、被害者が服部玲だと知らなかったはずだね」
「きっとそうでしょうね。本人の前で話したわけですし。確信犯なら僕や花村さんの前では言わないのでは、と」
「だったら彼は、昼食後から死ぬまでの数時間のうちに事実を知ったことになる。もう分かったかな?」
「ええ? ……あ」
分かった。あっけないくらい簡単な事だった。
「その期間内に知ったのなら、矢野さんに確認をとるのもその期間内。そして矢野さん自身はそれを受けて初めて口封じをしようと思うはず。しかしその時点ではまだフランスにいるからどんなトリックを使っても、時間的に殺すことはできない」
「正確に言えば、原根一馬の携帯電話に触れない、だがね」
「そんな……じゃあ、僕が組み立てた推理は……」
「残念だけども、正しくない」
ガラガラと音を立てて地面が崩れ落ちる感覚、はなかった。代わりに得たのは、音もなく、地盤が消え去ったような感覚。
「でも……じゃあ、どうして矢野さんは電話のことを知っていたんです?」
語勢を強めて効くと、理穂さんは三つ編みをくるくると指で遊びながらしばし沈黙して、
「幽霊となった一馬が、直接話したのではないかね。彼女も『みえるひと』ということになるが」
「う……」
ありえることだった。
しかし、僕の中ではありえない。積もり積もった疑問の数々が、噴出するかのようにして口をつく。大声が苦手とか、目を見て話せないとか、そういうことも忘れて、いつもの声のトーンで理穂さんを見据えて僕はまくし立てた。
「では、原根が僕の前には来ない理由は何ですか? 服部玲が逃げる理由は? そもそも、あの焦ったような電話はどうして僕にかかってきたんですか。いや、もっと前だ、原根は自殺したんですか、殺されたんですか? 自殺ならなぜ、殺されたのなら誰に!」
「落ち着け!」
ぎゅ、と頬を挟むようにして掴まれた。否応なく黙らされる。
「何度も言っているだろう、君が心悩ます必要はないことだと。焦るな。急ぐな。じきに解決することなんだ、しばらく待っていたまえ」
……?
すっ、と、体が冷えたのを感じた。感情が仮死状態になってしまったかのような、虚脱感。しかし心の一番奥では、ちろちろと炎が消えていないような、苛立ち。
「……その言い草って、なんですか」
そして、自分でもぞっとするほど低い声が出る。
「じきに解決すること? もしかして理穂さん、もう事の真相が分かっているんですか。それをあえて伏せてるんですか。僕に嘘を、ついているんですか」
「……いや、それは……」
口ごもる理穂さん。可愛いなどと言われてそうなることはあっても、僕に威圧されるのは初めてかもしれない。
「いや、嘘じゃあないですよね。わかりますよ、言いたくないだけでしょ、僕に」
さっきとは違ったテンションで、思いの丈が漏れ出していく。静かに、低く、冷たく。
「理穂さんの言う通り、僕には関係のないことですよ。所詮は他人だし、僕に危害があるわけでもない。せいぜい、知り合いに雪見は何もない空間とおしゃべりしてるやつだって言われるくらいです。でもそれももうないですよね、服部玲も原根一馬も僕の前には現れない。素晴らしい問題解決です。これでも色々と気を揉んで、知りたい気持ちもありますが、理穂さんが自粛するような内容なら、聞いてもロクな事にはならないんでしょう。だったら──」
「すまない」
理穂さんの大声に遮られて隣を見やると、そこに彼女はいなかった。
どこだ、と視線を前方に戻すと、そこに理穂さんが、いた。
──見事なまでの、土下座をして。
「すまない。許してくれ」
そうして渾身の謝罪をぶつけてくる。その姿に、冷えた怒りが一気に消えた。なぜ、理穂さんがこんなことを、じゃなくて、こんなことをさせたかったわけではないということで。
「ちょっと、止めて下さいよ、そんなの」
慌てて声をかけると、理穂さんは聞き分けよく動いてくれ、ベンチに座り直した。そして僕の方をしっかり見据え、言う。
「確かにわたしは、現段階でおおよそのことが分かっている。そして、君にそれを言うことをためらっていた。今でも気が進まない。しかし、それはよくないことだな。今気付いた」
「いえ、気が進まないならそうと言って頂ければ」
展開が急すぎる。どうしたというのだろう。
「いや、わたしの問題だけではなくて、君にとってもよくないことだと気付いたのだ。知らない方がいいのではないか、ということが間違いだったのだ。君のために、ならない」
一息ついて、言う。まだ僕を、しっかりと見つめたままである。
「──だから君に、二つばかり魔法をかけてやろうと思う」
「魔法、ですか」
「ああ、そうだ。真相を全てここで話すことはしない。自分で考えて欲しい。そうした上で、行動を決めて欲しい。探偵役はあくまで君なのだ。わたしではない」
「探偵役って、そんな大仰な」
「いいや、君は探偵役の資格があるのだ。この件に関してはね」
そう言うと理穂さんは立ち上がり、座っている僕の背後に回った。
耳元に、口を寄せられる。くすぐったくなる予感がしたが、外れた。理穂さんは息をかけることすらせずに、小さな声を発した。
「魔法一つ目。……君は、意外と独り言が多いよ」
「……え? それが、魔法ですか?」
僕の問いかけは無視される。間髪入れず、囁きの呪文が飛んでくる。
「──魔法二つ目」
○
──二つの魔法。
今日理穂さんにかけられたそれを反芻しながら、僕は下宿のベッドに寝転がっていた。
あれを聞いて何も分からなかったわけではない。むしろ、僕の中では様々なものがつながっていた。
問題は、それを受けてどうするか、だ。
天井を見上げながら、ぼんやりと考える。そしてふらりと立ち上がって、枕元に置いてあった、愛用の六法を手に取った。
去年のものだ。毎年出ているけれど、買い手としては二年に一度くらいでいいような気もする。
「……ふう」
それを目にしたからというわけでもないが、僕は大きく息を吐いて立ち上がった。
もう、腹は決まった。
六法を机の上に置いてやると、代わりに携帯電話を持ち、僕は一本の電話をかけた。
Lonely you.




