Ⅶ レイの論理 前編
僕は徘徊していた。
これまでの人生で、自分が「徘徊」していると感じたことはなかった。あてもなく歩き回ることはあっても、それは単にブラブラしているだけだった。
この、今──目的はあるけれども歩き回っている状態──こそが、徘徊なのだ。明らかに間違った認識だが、そんなごくごく個人的な所感を、僕は得ていた。
あてはある。しかし、大学内をうろつくだけでもある。
そう、僕は今、大学構内を歩き回っていた。徘徊していた。
目的は単純だ──死んだ一馬の幽霊を探すこと。
桃香に無理を言って矢野さんと会う機会を貰い、結果的に彼女に対する疑惑が深まってから三日。僕はこうして、暇を見つけては動いていた。いい加減、ここの学生の一人くらいは感じたことかもしれない。なんか最近、やたらと同じ人とすれ違うような気がする、などと。
三日前のあれを受けて、僕は思考方法を変えてみた。
帰納法から、演繹法へと。
今までの僕は、身の回りに起きた事実を積み重ねては、仮説を立てていた。それはとても基本的かつ重要なやり方だけれど、そこから導き出される仮説は全て、決め手に欠けてしまったのだ。
なぜなら、推論の中に「幽霊」という非現実的なものを含むから。現段階では確定的にこうだと言えないものを内包している以上、帰納法では絶対的な解決にたどり着けそうもない。
要するに帰納とは現実の積み重ねだ。幽霊なんて非現実的なものをいくら積み重ねたところで、それは想像のレゴブロックを好きなように組み立てるようなものだし、その結果生まれてくるものはお城でもあれば船でもあり、恐竜でもあれば宇宙人でもある。
それらは多様で魅力的だから、これ一つと絞ることはできそうにもない。
だから、演繹をする。はじめに仮説を立ててしまう。
そして僕が設定した出発点は、「一馬を殺した犯人は矢野さん」というものだった。
これが事実だったとして、僕の周りに起こった事象はどうなるか。
まず、一馬からの電話だ。
おそらく彼が死ぬ間際にかけてきたと思われる、服部玲は幽霊だと告発するあの電話。
これが矢野さんの強要によるものなのかどうか。
僕は違うだろうと思った。あんな電話をかけさせたら、受け手の僕が不審に感じるのは当然である。せっかく警察も自殺と処理して他殺の線は薄いと判断される殺し方(自殺の強要かもしれないけれど)を成功させたのだから、そんなメリットはない。
となると、あれは一馬が急いで僕にかけてきたものとなる。
矢野さんの目を盗んで、だ。その履歴はどうも彼女に知られたらしいが、内容までは察知していないはず。そしてその電話は、間違いなく矢野さんに関係があることだ。一馬のあの切羽詰まった様子からもうかがえる。
それが、服部玲の七年前の死亡。死体消失の謎を孕んだ、あの件だ。
では、玲の事件と矢野さんはどう結び付くのか。
もちろん、矢野さんが服部玲殺しの実行犯だったということに違いない。
以前楓とあの教室を訪ねたとき、一応僕が思いついた程度の仕掛けを使うことで、玲の死体を発見した人が殺害犯であるという推理を立てた。あれは理穂さんに否定されたが、それに頼らなくても殺害自体は可能だと思う。方法は複数ある、と理穂さんは言っていたのだから。
その犯人が、矢野さんである。十分にあり得ることだ。ここのOGであるし、在学していた時期的にもピッタリだ。
きっと一馬はあの日、殺人犯が矢野さんであることに気づいたのだ。そして、殺されたのが玲だということにも。
これは最近分かったことだが、死んだ学生の名前が服部玲だと書いてあるのは僕が見たローカル新聞だけのことであり、他の記述では全て伏せられていた。
楓が週刊誌を引いて当時の状況を説明していたが、あれにも服部玲という固有名詞はなかった。もちろん楓は玲の妹ゆえに、名前を知っているのは当然である。大学のことに詳しい理穂さんも知っているようだったが、普通はそこまでの情報を掴んでいることはない。だからこそ、玲も本名のまま僕たちに接していたのだろう。珍しい名前でもないから、同姓同名で逃げるのも簡単だし。もっともそこまでのことは考えていなかったかもしれないけど。
さて、そうすれば一馬はどうするか。きっと、玲と矢野さんに連絡を取ることだろう。そして前者の結果、玲は僕たちから姿をくらました。あれは僕から逃げたかったというよりは、一馬が真相を知ってしまったゆえの行動だったと思いたい。
そして後者の結果だが、こちらは分かり切っている。口封じだ。
かくして一馬は死亡。しかし、幽霊となって桃香の前に現れる。ここで僕は一つ、思いつくことがあった。
どうして、一馬は桃香の前に現れるのか?
恋人の元に現れる、それは共感できる。けれども、こんな問いも立てられる。
どうして、一馬は僕の前に現れないのか?
一度それっぽいものを見かけただけで、積極的に出てきたことはない。桃香の妄想の産物という線もあるが、僕が一度見かけたことは確かなうえ、僕は玲という幽霊を見ることのできる人種である以上、そこは否定したいところだ。
もちろん、恋人とただの友達で差があるのは分かる。しかし、ただの友達とはいえ、最後にあんな電話をした友達なのだ。来てくれてもよさそうなものだ。
それに対する推測は、こうなる。
桃香の、護衛。
矢野さんに殺された身としては、彼女のさらなる口封じが及ぶ可能性があるのなら、警戒を最大限にしたいと思うだろう。そういう意味では僕もその対象になりそうなものだが、どうやら矢野さんはまだ気づいていないらしい。最後の着信履歴も、そこまで不審には思わなかったと見える。
それはきっと、桃香がより深く、ことの真相を知っているからなのではないか。
例えば、僕に対して電話をかけてきた一馬だが、桃香にはメールを送っていたとか。
そちらは矢野さんが見ることが可能だったから、桃香にばかり注意が行っている、とか。
そうなると新学期になったあとの桃香は僕に対して、玲が幽霊だったこと(つまり、七年前に死んでいること)を知らないような素振りを見せていたが、あれは嘘だったわけだ。そう思うと少し腹が立ったが、事象が事象だけに仕方のないことだろう。
今も普通に大学に通っているのは、平常通りの生活を送ることで、矢野さんのことを告発するつもりはないことを示しているように思える。その間は、幽霊の一馬が護衛する。
以上が、一馬殺しの犯人が矢野さんだった場合に考えられる、僕の推論だ。
所々無理はあるが、大筋はこうなのではないかと疑っている。
すると、一馬は桃香が大学にいる間、その近くにいる可能性が高いことになる。護衛なのだから当然だろう。そういうわけで、僕はそんな時間を狙って、法学部周辺を中心に徘徊しているのだった。
桃香と一緒の授業は、さすがにサボらない。変に目立って矢野さんの耳に入るのはよしたほうがいい。けれど、そうでない時間で僕の講義が入っている場合は、すっぱり欠席しているこの三日間である。
一馬の幽霊は桃香の周辺にいるという僕の推理が正しいのであれば、いずれ一馬は見つかるはず。
そうでなくとも、一馬と会うことは出来そうなものだから、問い質せばいい。きっと一馬は僕がここまでたどり着いたことを知らないのだ。だから桃香にばかり構っている。
──あるいは、単純に僕が間違っているだけか。
ふと、弱気な心が出現する。いやいや、と物理的に首を振って打ち消してみた。こんなふうに思うのも、三日あれば見つかるだろうという甘い予想が覆されたからに過ぎない。今は深く考えずに、探し回っているべきである。
言い聞かせるようにして、辺りを確認しながら歩みを進めていると。
「そんなに必死になって何をやってるのさ」
横から声がした。背後ではなく、横だ。誰だ、と思うことはない。
「……どうも」
もはや突然の出現に関してはマンネリズムすら見られる人物、理穂さんだった。僕の挨拶を受けて、付いてこいとばかりに歩き出す。おおかた、座れる場所で物静かなところを目指しているのだろう。立ち話と喧騒が大の苦手の彼女のことだ。しかし、仮に就職活動をするとしてこの人大丈夫だろうか。話す力はあるから、案外と面接は得意なのかな。
案の定、付いたところはあのベンチだった。僕はこれから、ここを立入ベンチと呼ぶことにする。音韻的に、立入禁止と掛かっている気がしないでもない。理穂さんの立入の読みは「タテリ」だけども。
「さて」
いつもの態勢、隣り合ってベンチに座り、しかし顔を合わせることはなくお互い前を向いている構図をとって、理穂さんが言った。三つ編みを指でいじったのが横目で分かる。
「君、結構疲れているだろう。前傾姿勢だよ」
「……ありゃ」
本当だった。知らず知らず、両肘を膝につけてうな垂れる恰好をしている。いつもは姿勢のいい方であるが、確かに疲労を覚えているのかもしれない。
「わたし、前に言ったと思うがね。あんまりやりすぎると体壊すよ。どうしてまた、鬼気迫った様子でうろついたりしていたんだい」
理穂さんに問われて、僕は要約して答える。矢野さん犯人説と、一馬の幽霊に会って話を聞きたいということ。
「むう……」
ささっと語り終えると、理穂さんは複雑そうな顔をした。そして、言う。
「しばらくそれは止めておいた方がいいね」
「どうしてですか」
「怒るなよ。言葉のままさ」
「怒ってはいませんよ、けど理由は聞かせてほしいものです」
僕は嘘をつかない。怒っていないのは本当だが、気分が良い状態でないのも事実だ。
「そりゃ、そうだね。まあ、二通りに分けて考えようか。君の推論通り、原根一馬の幽霊は花村桃香を護衛している場合と、そうでない場合だ」
「はい」
「後者なら簡単だね。そこまで頑張っても会える保障がないのだから、気長に待つ方が効率的だというだけの話さ。そして前者だが、原根一馬自身が君の行動に勘付いた可能性がある」
「僕が追い回しているのに気付いて姿を現さないようにしている、ですか……でも、原根が僕から逃げる理由は思いつきません。むしろ、あんな電話をしてきたのだから接触を図るはず」
「どうだかね。電話した時は真実を知ってほしかったにもかかわらず、今となっては君に余計な情報を与えたくなくなったのかもしれない。編集者の矢野さんとやらは君に疑いの目を向けていないようだ、ならばこのままが望ましい、なんてね」
「そんな!」
「考えてもみたまえ。原根一馬にとって、死後幽霊になることは予想外だったはずだろう? ならば気が変わってもおかしくはない。服部玲の幽霊論理に従えば、原根一馬が幽霊として矢野女史に行動を起こすことは可能だ。服部玲は現実世界に多少なりとも干渉できていたのだからね、自分で何とかできる。さて、こんなところに君の入る余地はどこにある?」
言葉を継ぐごとに語調が強まっていく。僕は音声としても語られた内容としても、圧倒される思いで聞いていた。
「いや、すまない。きつい言い方をしてしまったね」
「いえ……その通りだと、思いますから」
なんだか急に、自分のやっていたことが馬鹿らしく思えてきた。風船に必死に空気を入れていたら、誰かが針を刺して割ってしまったような虚脱感がある。
「わたしが言いたいことはだね、そんなに急ぐなということだよ。君の推理が正しいかどうかはわからないが、現時点では否定できない。だから少し待ちたまえ。それが本当ならば、アドバンテージは原根一馬にある、幽霊バーサス人間なんて幽霊のやりたい放題だろうよ。ゆえにいずれ何らかの形で収まるだろう。彼に会いたい気持ちも分かるが、自然に目撃するのを待てばいいじゃあないか」
「まあ、そうですね。服部さんには、逃げられてしまったけど」
「それも時間が解決するよ。今はホラ、落ち着いていないだけさ。じきに良くなる」
たいへん大人の意見だ。しかし最適解かもしれない。なにかと僕は追いかけ回しているが、そうしなければ僕自身に不利益があるかと言われればそうではないのだ。
玲は幽霊だった。一馬も幽霊になった。今は距離を置かれているが、そのうち戻ってくるかもしれない。楓という友人もできたことだし、気長に待とう。
……それはとてもいい答えだ。
「だからといって、すぐに切り替えられるとは思ってないがね。君は真面目だから」
「くっ、図星」
「ははっ、だろう? とにかくそんなに身を削ることもないってことさ。それとも何かね、花村桃香に頼まないのかい? 原根一馬の幽霊に会いたい、と」
「いや、それは……」
彼女の精神の安定状態を崩したくない、という思いが強い。新学期当初の桃香のおかしな情緒や目の光が脳裏をよぎった。
「だろう? だからさ、まあ気楽にいきたまえ。目の下に隈ができていて君が幽霊みたいだ」
「すいませんね……あれ、そういえば、幽霊って睡眠とるのかな」
「また、想像に頼るしか答えられないものを……直観的には、眠りそうにはないな」
苦笑される。眼鏡の奥の笑った目が、こっちを見ていないのがアンバランスだ。
「というのも、食欲睡眠欲性欲の三つは第一次的欲求としてまとめられるけども、幽霊にはこれがないものと考えられがちだからね……君、幽霊もののアダルトゲームを想像するなよ」
「してませんよ」
「ちっ、君は嘘をつけないから期待したのに。まあしかし、幽霊が精神的なものだというのはそうだと思うし、行動になんらかのエネルギー的なものを使っているという発想も自然だろうね。だから、それを回復するために休むことはあるかもしれないね」
「確かに、そうですね……あ」
「どうしたんだい」
話しているうちに、僕はとあることを思い出した。
非常に根源的な疑念で、なんとなく忘れていたことだ。
「えっとですね。今でこそそのまま受け入れているんですけど、僕ってどうやら幽霊が見えるタイプの人間らしいですよね。それで、服部さんの例からも分かるように、そういう人って多いんですよね」
「しかし君は今まで幽霊なるものと、あいまみえた経験なんぞない、ということかね」
先回りされたがその通りだ。僕は首肯した。
「なるほど。簡単に答えてしまうなら、君は今までに幽霊は結構見てきているものの、そうと気付かなかっただけなのでは? 服部玲にも気づかなかったわけだし」
「やっぱりそういうことなんですかねえ。幽霊を見られる人が少ないのではなくて、自分が幽霊を見たと認識できる人が少ない、みたいな」
「哲学的ゾンビを思い出すよ」
「哲学的ゾンビ?」
「長ったらしく言うのは面倒だからはしょるが、外見は人間そっくりで受け答えもするが心が無い存在のことさ。人間は哲学的ゾンビを認識できるかって話。まあ、それを持ち出すのも一興だが、わたしはもう少し、別の意見を唱えたいね」
「と、言いますと」
「うん。つまり、幽霊が見える人は全ての幽霊が見えるのかという話さ」
「……えーと」
「説明するから待ちたまえ。まず、死んだ人間がどれくらい幽霊になるかは知らないが、まあそれなりの割合なのだろう。となると、さすがにその全部を見ることができる人っていうのは何も見えない人と比べて、視界が混むように感じる」
「はあ」
「思わないかね? 人間を幽霊が見える人と見えない人に分けた場合、その違いは大きすぎやしないかと。それならもっと、幽霊の存在は広く浸透しているような気がするね。ということでわたしは、大体の人は幽霊を見ることができるが、それぞれ見ることのできる対象が違うのではないか、という説を唱えたいものだ」
「つまり、僕は服部さんや原根の幽霊を見ているけど、理穂さんはその限りではなくって、でもその理穂さんも別の幽霊は見えていて、そいつは逆に僕が見られない、ということですか」
「……あー、そうだ。その通りさ。わたしも服部玲を見ることができるかもしれないがね。だから例えば、ここに原根一馬の幽霊がいたとして」
珍しく理穂さんはジェスチャーをとった。ベンチの後ろのなにもない空間を撫でるようにして、言ったのだ。
「わたしは彼を見ているが、君には何もない空間にしか思えない、ということもありえるな」
「まあ、僕は原根の幽霊、見えますけどね」
「む、ああそうだった。じゃあ君の曽祖父でもいい」
確かに亡くなっているけれども。そういえば、楓も玲は見えないと言っていた。近しいものだから見えるというわけではないのも、ほろ苦いことだと思う。
「確かにそんな気もしてきました」
「だろう? と、これまた空想に頼ってばかりの空論だが、案外正しいと思うのさ。というかわたしとしては、今までしてきた幽霊の考察は全部正解だと思っているがね。わたしだもの」
眼鏡が怪しく光った、ように見えた。
「幽霊の論理、かあ……」
「そうさ。と、これだけ話が逸れたところで、どうだい? まだ血眼になって原根一馬を探す元気は残っているかね?」
ストレートな質問。僕は自分の名前の通り、正直に答える。
「いえ、帰って少し休みます」
「その通りだ。勉強もしないと、わたしみたいになってしまうのだよ」
「理穂さんはわざと大学に残っているだけでしょう?」
「どうだか。というか、社会に出たくないね」
「ちょっと。真面目に今、将来心配しましたよ……」
「だったら結婚してくれ。養ってくれたまえ」
「……無理です。理穂さん可愛すぎるから直視できません」
向こうの振りをカウンターパンチしてやると、それは見事にクリーンヒットしていた。満面の赤面である。
笑いながら立ち上がると、体がとても軽く感じられた。




