聖女に祭り上げられたので、その豊かさの裏側を調べてみたら国ごと存在を消すしかなかった話
信号が赤に変わる。
制服のスカートの裾を風がなぶっていた。カバンの中でスマホが震えた気もしたが、確かめる気力もない。今日も部活はさぼった。今日も誰とも喋らなかった。今日も、特に何もない一日。
こういう日ばかりだ、と思う。学校でも家でも、自分の輪郭がどんどん薄くなっていくような感覚がある。誰かに何かを期待されることもなく、期待することもなく、ただ時間だけが過ぎていく。それでいいと思っていたはずなのに、信号待ちのアスファルトを見つめながら、胸の奥に小さな重石を感じていた。
クラスの誰かが今日も楽しそうに笑っていた声を、教室の隅でぼんやりと聞いていたことを思い出す。輪の中に入ろうとも思わなかったし、入りたいとも思わなかった。ただ、そうやって自分から距離を置くたびに、少しずつ何かを失っているような気もしていた。それが何なのか、確かめる勇気もないまま、今日まで来てしまった。
目の前が、白く滲む。
視界の端が溶けるように歪み、街の音が遠のいていく。車のエンジン音も、誰かの話し声も、まるで水の中から聞くようにくぐもっていった。
次に瞼を開けたとき、私は見知らぬ石の床に座り込んでいた。
周囲には、白い法衣を纏った人々が跪いている。天井には見たこともない紋様が描かれ、床には光る幾何学模様が円を描く。むせかえるような香の匂いがした。冷たい石の感触が、制服のスカート越しに太腿に伝わってくる。
「聖女様……!」
誰かが涙声で叫ぶ。
ああ、これは。よくある、あれだ。
ラノベとかで見たことのある、あれ。
私は状況を理解するより先に、ひどく醒めた気持ちでそう思っていた。歓声が広間に満ち、鐘が鳴る。誰かが私の手を取り、祈るように額を押し当てた。老いた神官も、若い騎士も、みな一様に涙を浮かべてこちらを見上げている。
その熱狂の中で、私はただ一つのことしか考えていない。
――帰りたい。
それだけだった。
「帰る方法あります?」
玉座の間で、私は単刀直入に聞いた。豪奢な椅子に腰掛けた王は、私の質問に一瞬きょとんとした顔をしたあと、機嫌よく笑う。
「聖女よ、そなたはこの国に遣わされた奇跡の御方だ。心配せずとも、この王国がそなたを幸福にしよう」
答えになっていない。
隣に控える神官長にも同じ質問をぶつけたが、彼は目を伏せて口を噤むだけ。誰も、私の問いに正面から答えようとしなかった。何度聞いても、返ってくるのは称賛と歓待の言葉ばかりで、肝心の帰還の方法については、まるで最初からそんな選択肢が存在しないかのように、するりとかわされてしまう。
与えられた部屋は、この国で一番豪華な客間だった。柔らかな寝台、磨き上げられた鏡、見たこともないほど手の込んだ刺繍のドレス。世話係の侍女たちは、みな優しく、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれる。その中に、リアという名の、私より少し年上の侍女がいた。彼女だけが、他の誰よりも私の目を見て話してくれる人だった。
「聖女様は、本当は帰りたいのですね」
ある夜、髪を梳きながら、リアはぽつりと呟いた。
「わかる?」
「なんとなく、ですけれど。……無理もないと思います。ここは、聖女様の国ではないのですから」
その一言だけで、少し救われた気がした。この国で初めて、私の望みをそのまま受け止めてくれた人だった。
城の生活は、思っていた以上に忙しなかった。毎朝、神官による「祈りの作法」の稽古がある。手の組み方、跪く角度、祈りの言葉の抑揚に至るまで、事細かに指導される。最初のうちは戸惑うことばかりだったが、数週間もすると、体が勝手に動くようになっていた。
護衛としてついた若い騎士――ノアという名の青年だけは、他の従者たちと少し違っていた。過剰にへりくだることもなく、かといって不遜でもない。ただ淡々と、私の身を守る仕事をこなしていた。
「聖女様は、この国がお嫌いですか」
ある日、庭を歩いている最中に、ノアが不意にそう尋ねてきた。
「嫌いとかじゃなくて。……ただ、自分の国じゃないから」
「わかるような、わからないような話です。私にとっては、生まれたときからここが全てなので」
その言葉に、悪意はなかった。ただ、私と彼との間にある透明な壁を、改めて感じさせられた瞬間だった。
初めて力を使ったのは、召喚から三日目のことだった。神官長に連れられて祭壇の前に立たされ、「祈ってみてください」とだけ告げられる。何をどうすればいいのかもわからないまま、ただ目を閉じて手を組んでみた。
すると、指先からぼんやりとした光が滲み出し、祭壇に置かれた枯れかけの花が、みるみるうちに息を吹き返していく。
「おお……!」
周囲から歓声が上がった。私自身、何が起きたのか半分も理解できていなかった。ただ、体の芯から何かがすっと抜け落ちていくような、奇妙な感覚だけを覚えている。あのとき感じた微かな違和感の正体を、私はまだ知らなかった。
その代わりに、私には次々と「使命」が与えられていく。
北の穀倉地帯が旱魃に苦しんでいるという。私が祈ると、その年、王国の畑は見たこともないほどの豊作になった。人々は涙を流して喜ぶ。街では祭りが開かれ、聖女万歳の声があちこちで響いた。
――けれど後になって知ることになる。隣国では同じ年、蝗害が発生し、畑という畑が食い尽くされていたことを。行商人がぽろりと漏らした話を、私は聞き逃さなかった。
流行り病に倒れた民のために祈った。王国から疫病は一夜にして消える。病床から起き上がった子どもたちの笑顔を、私は素直に嬉しく思った。
――けれど、国境の向こうでは、薬草の群生地が一夜にして枯れ果てたという噂を、私は偶然、下働きの少女から聞いてしまう。彼女の従姉は、その薬草を頼りに暮らしていた村の出身だという。
鉱脈を求める声に応えて祈った。王国の山から、豊かな金鉱脈が見つかる。宝物庫はみるみる潤い、王城の装飾はさらに豪華になっていった。
――そのすぐ後、隣国の鉱山で大規模な崩落事故があったと、誰かが小さな声で話していた。何十人もの坑夫が生き埋めになったという話を、廊下の隅で耳にしたとき、私は思わず立ち止まってしまった。
誰も気にしていないらしい。王も、貴族も、民さえも。奇跡は奇跡として消費され、その代償に誰も目を向けようとしない。
でも私だけは、その符合に気づいてしまった。
豊作の裏で、誰かが飢える。
治癒の裏で、誰かが死ぬ。
富の裏で、誰かが全てを失う。
これは、奇跡なんかじゃない。
願いを重ねるたびに、王国は肥え太っていく。反対に、周辺国は少しずつ、しかし確実に痩せ細っていった。滅びはしない。ただ緩やかに、王国に依存せざるを得なくなる。属国になり、保護国になり、やがて名ばかりの独立国、事実上の傀儡になっていく。
世界の重心が、この一国に吸い寄せられていくようだった。
王はそれを「繁栄」と呼び、祝杯を挙げる。大広間では連日のように宴が開かれ、諸国の使者たちは頭を垂れて貢物を差し出す。誰もが口を揃えて、これは聖女の恩寵だと囃し立てた。
私だけが、その光景に薄ら寒いものを感じていた。
王城の壁には、日を追うごとに新しい肖像画が増えていく。豊穣の女神に見立てられた自分の姿が、金の額縁に収められて廊下に飾られているのを見たときは、さすがに背筋が寒くなった。誰も彼もが、私を「聖女」という記号としてしか見ていないように感じられる瞬間が増えていった。
王太子だという少年に話しかけられたこともある。まだ十歳にも満たない彼は、屈託のない笑顔で「聖女様のおかげで国が豊かになったって、みんな言っています」と教えてくれた。その無邪気さに、何も答えられなかった。彼が悪いわけではない。ただ、彼が当たり前だと思っているこの豊かさの裏に、何が積み重なっているのかを、私は知ってしまっていた。
ある視察の日、私は国境近くの町へ足を運ぶ機会を得た。案内役の貴族は、繁栄した町並みを誇らしげに紹介してくれたが、私の目に映ったのは別のものだった。市場の隅で、痩せ細った旅の商人たちが、故郷を追われた事情を小声で語り合っている。彼らの服は、以前この国で見かけた難民の服装とよく似ていた。
「あの人たちは?」
思わず尋ねると、案内役は顔をしかめた。
「隣国から流れてきた者たちです。あちらの国が立ち行かなくなり、こちらに助けを求めてきているのですよ。……我が国の繁栄にあやかろうというわけです」
誇らしげなその口調に、私は返す言葉が見つからなかった。豊かさの裏側で、確かに誰かが故郷を失っている。その事実を、目の前の光景がはっきりと突きつけてきた。
答えを探して、私は夜な夜な神殿の書庫に忍び込むようになる。見張りの目を盗み、蝋燭一本を頼りに、埃をかぶった羊皮紙の束をめくった。歴代聖女の記録、召喚術についての古い文献。片言のこの世界の文字を、辞書代わりの祈祷書と照らし合わせながら、少しずつ読み解いていった。
ある晩、書庫の奥で年老いた司書と出会った。ほとんど誰も訪れることのないその一角で、老人は誰にともなく呟いた。
「聖女様も、真実を探しておいでか。……無駄なことだと思いますがな」
「知っているの?」
思わず詰め寄ると、老人は困ったように首を振った。
「わしが知っているのは、ここより先を読もうとした者は、みな途中で興味を失ったふりをするようになる、ということだけです。理由は、聞かぬ方がよろしいでしょう」
それだけ言うと、老人は逃げるようにその場を去ってしまった。
だが、奇妙なことに気づく。
召喚術の記述は、いつも肝心なところで途切れていた。ページの端が破られていたり、墨で塗り潰されていたり。まるで、そこから先を読ませないための、明確な意志すら感じられる。
歴代の聖女たちの記録も同じ。彼女たちがどうなったのか、その「最後」の部分だけが、判で押したようにごっそりと欠けている。名前も、功績も、丁寧に記されているのに、結末だけが例外なく抜け落ちていた。数えてみると、この百年ほどの間だけでも、少なくとも五人の聖女が召喚されている。だが、その誰一人として、故郷へ帰った記録は残っていない。
偶然とは思えない。
誰かが、意図的に隠しているのだ。
この国にとって都合の悪い、何かを。
その夜、部屋に戻った私にリアがそっと囁いた。
「あまり、深入りなさらない方がいいかもしれません。……過去の聖女様のことを調べていた者が、何人か、静かに姿を消したという話を聞いたことがあります」
その声は震えていた。心配してくれているのだと、痛いほど伝わってきた。
「それでも、知りたいの」
私がそう答えると、リアはしばらく黙り込んだあと、小さく頷いた。
「……でしたら、私も一緒に調べます。聖女様お一人には、させられません」
その言葉が、どれほど心強かったか。彼女は決して立場の強い人間ではなかったはずなのに、迷いなく私の隣に立とうとしてくれた。
それから数週間、私たちは人目を忍んで書庫に通い続けた。リアは城の奥向きの事情に詳しく、どの棚が最近になって並べ替えられたか、どの記録が誰の手で管理されているかまで、細かく調べ上げてくれた。
「この棚だけ、埃の積もり方が不自然です。最近、誰かが触った跡があります」
リアの指摘通り、その棚の奥から、他よりも新しい紙質の書類が見つかった。そこに書かれていたのは、召喚の儀を執り行うたびに、王国の国庫へ莫大な資金が流れ込んでいるという記録だった。表向きは「聖女への感謝の貢物」とされていたが、その実態は、周辺国から半ば強制的に取り立てた貢納金であるらしかった。
「……最初から、こういう仕組みだったんだ」
私が呟くと、リアは唇を噛んで頷いた。国が繁栄すればするほど、儀式の存在そのものが正当化され、誰もそれを疑わなくなっていく。その循環の中心に、自分が据えられていたのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。
「もう、祈りません」
玉座の間で、私は初めてはっきりと拒んだ。世界統一の大願を叶えるよう命じられた、その日のことだ。広間は静まり返り、誰も息をする音すら聞こえなかった。
王の顔から、笑みが消える。
「聖女よ、それは我が国への反逆と受け取ってよいのだな」
その声には、これまで聞いたことのない冷たさが滲んでいた。
「これ以上、どこかの国から何かを奪うのはやめてください。私はもう、気づいているんです」
私がそう続けると、広間にざわめきが走った。王は一瞬だけ動揺したように見えたが、すぐにその表情を厳しいものへと塗り替えた。
その夜のうちに、私は塔に幽閉された。手足に枷。食事もろくに与えられない。窓の外に見える星空だけが、唯一変わらないものだった。それでも私が頷かずにいると、王は見せしめを選ぶ。
私の身の回りの世話をしてくれていた、あの優しい侍女――リアが、広場で処刑されると告げられた。共に真実を探してくれていたことが、王の耳に入ってしまったのだという。
「私を庇っただけです、あの子は。私に真実を教えてくれただけなんです」
叫んでも、誰も聞いてはくれなかった。牢の格子越しに見えた彼女の泣き顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。連れて行かれる直前、彼女は小さく微笑んでこう言った。
「聖女様。……どうか、後悔なさらないでください。私は、聖女様のお心が正しいと信じておりますから」
その言葉が、余計に胸を締め付けた。何か言い返そうとしたが、喉がつかえて、声にならなかった。
「お前は我が国の聖女だ」
王は牢の前に立ち、静かに、けれど有無を言わさぬ声で言い放つ。
「死ぬまで、働け」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に切れた。
恐怖でも、怒りでもない。もっと純粋な、透き通った感情だ。
塔の窓から差し込む月明かりを見つめながら、私はこれまでのことを一つずつ思い返していた。歓迎された日のこと。豊作を喜ぶ人々の顔。老司書の怯えた声。リアの優しい微笑み。どれも、嘘だったとは思いたくない。それでも、その全てが、誰かの犠牲の上に成り立っていたという事実だけは、もう覆しようがなかった。
――帰りたい。
もう、それしかなかった。
処刑の朝、私は祈った。
王が望んだ「世界統一」の願いではない。もっと別の、もっと根源的な何かへの祈りだった。何を祈ればいいのかさえわからなかったが、ただ「本当のことが知りたい」という一心で、瞼を閉じて手を組んだ。
視界が白く塗り潰されていく。塔も、鎖も、遠くから聞こえていたはずのざわめきも、すべてが消えていった。
気づけば私は、何もない白い場所に立っていた。目の前には、姿の見えない、けれど確かにそこに「在る」何かの気配。
「歪みを、戻すか」
声が、頭の中に直接響く。性別も年齢も感じさせない、それでいて世界そのもののような重みを持った声だった。
――歪み?
私が戸惑っていると、その気配は静かに続けた。
「お前は、本来ここに存在しない者だ」
「召喚とは、異世界から人を呼ぶ儀式ではない。世界そのものを歪めて、異物を引きずり込む行為」
「そして、願いとは――世界を歪める代償として、どこかから何かを奪い、別の場所へ移し替える行為に過ぎない」
「じゃあ、私が祈るたびに、どこかの誰かが何かを失っていたということ?」
私が問うと、気配は静かに肯定した。
「その通り。お前が治した病は、別の場所の薬草として奪われた。お前が実らせた麦は、別の場所の畑から奪われた。お前が見つけた金脈は、別の場所の地盤の安定として奪われたのだ」
「知らなかった、なんて言い訳にもならないよね。……気づいていたのに、それでも何度も祈ってしまった」
声にすると、その事実の重さが、改めて胸に突き刺さった。
「気づいていながら祈り続けたことを、悔いているのか」
「悔いてる。すごく」
「ならば、なぜ最初から拒まなかった」
その問いには、はっきりと答えられなかった。優しくされることに、少しだけ安心してしまっていたのかもしれない。歓迎される居心地の良さに、目を逸らしてしまっていたのかもしれない。
「……怖かったんだと思う。誰も味方がいない場所で、たった一人で全部に逆らうのが」
気配は、それ以上その点を責めることはなかった。ただ静かに、次の言葉を促すように黙っている。
豊作の裏の飢饉。治癒の裏の死。富の裏の崩落。リアの涙。老司書の怯えた声。破られたページ。すべてが、繋がっていく。
奇跡なんて、どこにもなかった。ただ、歪みが移動していただけなのだ。誰かの幸福は、いつも誰かの不幸と引き換えだった。
「戻すなら、歪みは消える」
その言葉で、私はようやく理解する。
帰る方法を、ずっと探していたつもりだった。
でも本当に必要だったのは、帰る方法なんかじゃない。
世界を、あるべき姿に戻す方法だったのだ。
「歪みは、等価でしか戻らない」
声が告げる。
「代償は?」
私が問うと、答えは短い。
「お前が、決めろ」
その一言に、これまでの全てが自分の肩にのしかかってくるようだった。
「私が間違えたら、また誰かが不幸になるということ?」
「そうだ。だからこそ、よく見てから決めるがいい」
その声には、急かす様子も、答えを誘導しようとする気配もなかった。ただ静かに、私の判断を待っている。
目を閉じる。
これまで見てきたものが、次々と瞼の裏を流れていった。
豊かに実った麦畑と、その裏で飢えていた誰か。
治った病と、その裏で失われた薬草と、命。
喜びに沸く王国と、その裏で沈んでいった国々。
国境の町で見た、故郷を追われた人々の後ろ姿。
そして、私のために処刑台に立たされた、リアの微笑み。
迷いはあった。この国にも、優しい人がいた。何も知らずに笑っていた子どもたちもいた。ノアのように、ただ誠実に自分の仕事をこなしていた人もいた。それでも――彼らの笑顔の裏に積み重なった、数えきれない誰かの犠牲を、私はもう見過ごすことができなかった。
答えは、もう決まっている。
「歪みの、始まりを」
「召喚した、この国を」
声を震わせながら、それでもはっきりと告げた。
「この国に生きる人たちが、悪いわけじゃないと思う。でも、この国が存在すること自体が、誰かの犠牲の上に成り立っているなら……それは、なかったことにするべきだと思う」
しばらくの沈黙のあと、気配は短く応えた。
「了承した」
世界が、静かに巻き戻っていく。
願いは、なかったことになった。豊作も、治癒も、金鉱も。属国とされていた国々は独立を取り戻し、飢饉は起こらなかったことになり、戦の行方さえ変わっていく。蝗害に苦しんでいたはずの畑には、いつの間にか豊かな実りが戻っていた。国境の町で見た、故郷を追われた人々の姿も、静かに消えていく。
世界に刻まれた歪みが、一つ、また一つと、丁寧に消し去られていった。
そして最後に――召喚を行ったあの王国だけが、歴史そのものから消える。
建国されなかった。王も、民も、玉座も塔も。最初から、そこには何もなかったことになる。
あの侍女も、処刑台も、彼女の涙も。ノアという名の、誠実だった騎士も。
なかったことになった、というより――彼女たちが味わうはずだった苦しみごと、世界からそっと取り除かれたのだと、なぜか私にはわかった。リアという名前も、彼女が生きた記憶も、この世界の誰の中にも残らない。それでも、彼女が最後に見せてくれた微笑みだけは、私の中にずっと残り続けるだろうと思った。
気づけば、私は見慣れた交差点に立っている。
目の前の信号は、まだ赤いままだった。
時間は、ほとんど進んでいないらしい。カバンの重み、スマホの震え、夕方の生ぬるい風。何もかもが、あの日のまま。あれほど長い時間をあの世界で過ごしたはずなのに、この世界では、ほんの数秒しか経っていないようだった。
信号が、青に変わる。
私は一歩を踏み出した。
ポケットに手を入れると、指先に、さらさらとした感触がある。取り出してみると、見たこともない色をした、ほんの一つまみの砂だった。誰も信じてくれないだろう証拠が、こんな小さな形で、確かに手のひらの中に残っている。
私は空を見上げる。
夕焼けが、いつもよりほんの少しだけ、優しい色をしているような気がした。
誰にも聞こえない声で、私は呟く。
「――やっと、帰れた」
そして、もう一つだけ。誰に届くわけでもないとわかっていながら、小さく付け加えた。
「……ありがとう、リア」
歩き出した足取りは、来たときよりも、ほんの少しだけ軽かった気がする。特別な何かが変わったわけではない。それでも、あの世界で見たもの、感じたことは、確かにこの胸の中に残っている。
誰にも証明できない記憶を抱えたまま、私はいつもの帰り道を歩き続けた。
あの世界で過ごした時間は、きっと誰にも話せない。話したところで、信じてもらえるはずもない。それでも、あの場所で気づいたことだけは、はっきりと自分の中に残っていた。
誰かの幸福の裏には、いつも何かが釣り合っている。目に見える結果だけを喜んで、その裏側に目を向けようとしなかった自分がいたことを、私はもう忘れないだろう。
家について、玄関の鍵を開ける。いつもと変わらない廊下、いつもと変わらない匂い。テーブルの上には、母が置いていったらしいメモが一枚。「夕飯は冷蔵庫にあります」と、素っ気ない文字で書かれている。
その、なんでもない一文が、今の私には不思議なくらい温かく感じられた。今までなら、素っ気ないとしか思わなかったであろうその一文が、今はどうしてか、ちゃんと自分のことを気にかけてくれている証のように思えてならなかった。
明日からも、きっと変わらない毎日が続いていくのだろう。学校に行って、誰とも大して喋らずに帰ってくる。そんな日々の中にも、少しくらいは、自分から誰かに言葉をかけてみてもいいかもしれない。そんなふうに、柄にもなく思った。
制服のポケットに手を入れる。指先に、あの砂の感触が確かにあった。誰も知らない、私だけの証。それだけを胸に、私はゆっくりと靴を脱いだ。
物語は、そこで終わる。




