草を食む音
夕方の横断歩道。
仕事帰りの人波に混じって、小倉月途は青信号を渡っていた。
五月の風は少しだけ湿っていて、昼間の熱をまだ薄く残していた。
月途は片手にスーパーの袋を提げ、ぼんやりと考えていた。
今年の夏も暑くなるのだろうか。
その時だった。
右折車線から、黒い車が勢いよく曲がってくるのが見えた。
「あっ」
思わず身体を引く。
風圧が来る。
身体のすぐ横を車体が走り抜けていった。
数歩よろけ、月途は立ち止まる。
心臓が遅れて脈を打った。
周囲がざわついていた。
けれど月途は軽く息を吐いただけだった。
「あぶなかったー……」
誰に言うでもなく呟く。
それから何事もなかったように、再び歩き出した。
公園の前を通り、三叉路を曲がる。
そしてマンションへ帰り着く。
階段を上がり、二階の角部屋へ。
鍵を開け、静かな部屋へ入る。
「ただいま」
返事はない。
それでも月途は毎日そう言っていた。
靴を脱ぎ、ネクタイを緩める。
部屋は物が少なかった。
必要最低限の家具。
パソコン、ペン立て、整えられた机。
きちんとに畳まれたブランケット。
その中で、窓際のケージだけが少し異質だった。
今は空になっている。
けれど、掃除は続けていた。
水入れも、牧草入れも、そのまま置いてある。
ケージの上には、小さな写真立て。
灰色のうさぎが、丸い目でこちらを見ている。
月途はそこへ歩み寄ると、指先で写真をそっと撫でた。
「あんこ。ただいま」
少しだけ笑う。
「今日も定時で帰れた」
写真の中のあんこは、相変わらず何も答えない。
それでも月途は満足していた。
二年前。
あんこが死んだ時は、さすがに参った。
心に穴が開く、物理的に感じた。
仕事から帰っても静かで。
朝になっても草を食む音が聞こえなくて。
部屋の広さが急に変わってしまったみたいだった。
生きる意味がほとんどなくなったようにも感じた。
けれど時間というのは不思議なもので、人は案外、その寂しさ、悲しみごと生きていける。
今の月途は、それなりに幸せだった。
仕事をして、帰宅して、静か過ぎる部屋で眠る。
そして毎日写真に話しかける。
返事はない。
だがそれで十分だった。
数日後。
月途はいつの間にかソファーで浅い眠りについていた。
すると、部屋の隅から小さな物音が聞こえる。
カサカサ、という音。
次いで、ごそごそと何かが動く気配。
月途は薄く目を開けた。
カーテンは開いたままの、暗い部屋。
音はケージの方から聞こえてくる。
「あー……ごめんよ」
半分眠ったまま身体を起こす。
「水、なくなってたか」
ソファーから立ち上がり、ケージへ向かう。
給水ボトルを外し、水を入れる。
それから扉を開けると、灰色のうさぎがぴょんと飛び出してきた。
月途はそこでようやく瞬きをした。
「……なんだ」
呟く。
あんこがいる。
当たり前のように。
「変な夢見てたな……」
月途は苦笑した。
「キミが死んじゃった夢なんて」
あんこを抱き上げる。
温かい。
柔らかい。
腕の中で鼻がひくひく動いている。
月途は安心したように息を吐いた。
「びっくりした」
膝へ乗せ、頭を撫でる。
あんこは気持ちよさそうに目を細めた。
窓の外には星が少し見えていた。
翌朝。
しゃく、しゃく、という音で目が覚める。
牧草を食べる音。
月途は布団の中でゆっくり目を開ける。
朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
「……あぁ」
小さく笑う。
「目覚ましいらないな、ほんと」
ケージでは、あんこが一心不乱に草を食べている。
月途が起き上がると、あんこも気づいて駆け寄ってきた。
「おはよう」
撫でる。
あんこはそのまま足元をくるくる回った。
日々は、穏やかだ。
仕事を終えれば真っ直ぐ帰宅する。
寄り道をする習慣は元々なかったが、あんこが来てからはなおさらだった。
休日も大半を部屋で過ごす。
人付き合いは得意ではない。
友人もほとんどいない。
けれど月途は、自分の人生をそこまで悪いものだと思ったことはなかった。
部屋にはあんこがいる。
それで充分だった。
部屋んぽの時間になると、あんこは必ず月途の足元について回る。
キッチンへ行けばキッチンへ。
洗面所へ行けば洗面所へ。
小さな足音と鼻を鳴らす声が、いつも後ろからついてくる。
「そんな付いてこなくても、いなくならないよ」
月途は苦笑しながら摺り足で歩幅を小さくした。
踏まないように。
それはもう、完全に癖になっていた。
六月のある休日。
月途は小さな箱を机へ置いた。
中には腕時計が入っている。
珍しく高い買い物だった。
しばらく悩んで、結局買ってしまった。
こんなことは初めてだが、自分の誕生日にプレゼント、と言い訳をして。
「あんこ」
呼ぶと、灰色のうさぎが寄ってくる。
月途は腕へそれをつけて見せた。
「どうかな」
あんこは一瞬腕時計の匂いを嗅いでみるが、
すぐに興味を失い、袖口を噛み始める。
「そっちかぁ……」
月途は笑った。
「まあ、一応報告」
頭を撫でる。
「どう思います、小倉あんこさん」
あんこは鼻をひくつかせただけだった。
「…そうですか」
夕方。
窓から柔らかな光が差し込む。
月途は棚を開け小さな袋を取り出す。
その瞬間。
さっきまで寝転がっていたあんこが、凄まじい勢いで駆けてきた。
「はや」
月途は思わず笑う。
手に持っているのは、ドライアップルの袋。
他の袋には反応しないくせに、これだけは特別らしい。
カサ、と袋が鳴るたび、あんこの耳が立つ。
「まだ棚から出しただけなんだけど」
あんこは完全に臨戦態勢だった。
「耳いいなぁ、ほんと、あんこは」
リビングの床に座り、袋を開ける。
その瞬間にはもう、月途の膝へ手が乗っていた。
「ただいま」
仕事から帰ると、あんこは決まってケージの前まで出てきた。
扉を開けると、飛び出し真っ先に月途の足へ顔を押し付けてくる。
「少しお待ちを」
上着を脱ぐ前から、早く撫でろと言わんばかりに寄ってくる。
その姿に、月途は苦笑した。
「あなた、ワンコでしたっけ?」
カバンを置く。
あんこの足ダンが部屋に響く。
顔を両手で包み込み、揉むように撫でる。
ようやくあんこは満足そうに目を細め、その場へペタリと伏せた。
春になった。
休日の午後。
窓を開けると、柔らかな風が部屋へ流れ込む。
白いカーテンがゆっくり揺れた。
月途は床へ座り、隣で寝そべるあんこを撫でる。
陽だまりの匂い。
乾いた牧草の匂い。
静かな部屋。
「今日はあったかいな」
あんこの耳が小さく動く。
遠くで、何か音がした気がした。
けれど月途は気にしなかった。
眠かった。
とても。
あんこを撫でていると、瞼がゆっくり重くなっていく。
「あんこ」
小さく呼ぶ。
灰色のうさぎがこちらを見る。
月途は少し笑った。
「……幸せだな」
春の光が滲む。
音が遠くなる。
身体が沈んでいく。
あんこの温かさだけが、最後まで隣にあった。
――交差点に響くサイレンの音。
微かに聞こえる。
視界がぼやけていた。
冷たいアスファルト。
誰かが叫ぶ声。
「意識ありますか!」
赤色灯が滲む。
夕方の空。
横断歩道。
月途は薄く目を開ける。
そこでようやく、全部を理解した。
あぁ、そうか。
あんこは、もう…。
…そして…自分も。
ぼやける視界の向こう。
灰色の毛並みが見えた気がした。
撫でようとしたが、手は動かない。
月途は小さく笑う。
「あぁ、あんこ……」
掠れた声で呟き、目を閉じる。
「また……一緒に…暮らせる…ね……」




