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草を食む音

作者: 灯野 紬
掲載日:2026/06/26

挿絵(By みてみん)


夕方の横断歩道。


仕事帰りの人波に混じって、小倉月途は青信号を渡っていた。


五月の風は少しだけ湿っていて、昼間の熱をまだ薄く残していた。


月途は片手にスーパーの袋を提げ、ぼんやりと考えていた。


今年の夏も暑くなるのだろうか。


その時だった。


右折車線から、黒い車が勢いよく曲がってくるのが見えた。


「あっ」


思わず身体を引く。


風圧が来る。


身体のすぐ横を車体が走り抜けていった。


数歩よろけ、月途は立ち止まる。


心臓が遅れて脈を打った。


周囲がざわついていた。


けれど月途は軽く息を吐いただけだった。


「あぶなかったー……」


誰に言うでもなく呟く。


それから何事もなかったように、再び歩き出した。


公園の前を通り、三叉路を曲がる。


そしてマンションへ帰り着く。


階段を上がり、二階の角部屋へ。


鍵を開け、静かな部屋へ入る。


「ただいま」


返事はない。


それでも月途は毎日そう言っていた。


靴を脱ぎ、ネクタイを緩める。


部屋は物が少なかった。


必要最低限の家具。


パソコン、ペン立て、整えられた机。


きちんとに畳まれたブランケット。


その中で、窓際のケージだけが少し異質だった。


今は空になっている。


けれど、掃除は続けていた。


水入れも、牧草入れも、そのまま置いてある。


ケージの上には、小さな写真立て。


灰色のうさぎが、丸い目でこちらを見ている。


月途はそこへ歩み寄ると、指先で写真をそっと撫でた。


「あんこ。ただいま」


少しだけ笑う。


「今日も定時で帰れた」


写真の中のあんこは、相変わらず何も答えない。


それでも月途は満足していた。


二年前。


あんこが死んだ時は、さすがに参った。


心に穴が開く、物理的に感じた。


仕事から帰っても静かで。


朝になっても草を食む音が聞こえなくて。


部屋の広さが急に変わってしまったみたいだった。


生きる意味がほとんどなくなったようにも感じた。


けれど時間というのは不思議なもので、人は案外、その寂しさ、悲しみごと生きていける。


今の月途は、それなりに幸せだった。


仕事をして、帰宅して、静か過ぎる部屋で眠る。


そして毎日写真に話しかける。


返事はない。


だがそれで十分だった。



数日後。


月途はいつの間にかソファーで浅い眠りについていた。


すると、部屋の隅から小さな物音が聞こえる。


カサカサ、という音。


次いで、ごそごそと何かが動く気配。


月途は薄く目を開けた。


カーテンは開いたままの、暗い部屋。


音はケージの方から聞こえてくる。


「あー……ごめんよ」


半分眠ったまま身体を起こす。


「水、なくなってたか」


ソファーから立ち上がり、ケージへ向かう。


給水ボトルを外し、水を入れる。


それから扉を開けると、灰色のうさぎがぴょんと飛び出してきた。


月途はそこでようやく瞬きをした。


「……なんだ」


呟く。


あんこがいる。


当たり前のように。


「変な夢見てたな……」


月途は苦笑した。


「キミが死んじゃった夢なんて」


あんこを抱き上げる。


温かい。


柔らかい。


腕の中で鼻がひくひく動いている。


月途は安心したように息を吐いた。


「びっくりした」


膝へ乗せ、頭を撫でる。


あんこは気持ちよさそうに目を細めた。


窓の外には星が少し見えていた。


翌朝。


しゃく、しゃく、という音で目が覚める。


牧草を食べる音。


月途は布団の中でゆっくり目を開ける。


朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。


「……あぁ」


小さく笑う。


「目覚ましいらないな、ほんと」


ケージでは、あんこが一心不乱に草を食べている。


月途が起き上がると、あんこも気づいて駆け寄ってきた。


「おはよう」


撫でる。


あんこはそのまま足元をくるくる回った。


日々は、穏やかだ。


仕事を終えれば真っ直ぐ帰宅する。


寄り道をする習慣は元々なかったが、あんこが来てからはなおさらだった。


休日も大半を部屋で過ごす。


人付き合いは得意ではない。


友人もほとんどいない。


けれど月途は、自分の人生をそこまで悪いものだと思ったことはなかった。


部屋にはあんこがいる。


それで充分だった。



部屋んぽの時間になると、あんこは必ず月途の足元について回る。


キッチンへ行けばキッチンへ。


洗面所へ行けば洗面所へ。


小さな足音と鼻を鳴らす声が、いつも後ろからついてくる。


「そんな付いてこなくても、いなくならないよ」


月途は苦笑しながら摺り足で歩幅を小さくした。


踏まないように。


それはもう、完全に癖になっていた。



六月のある休日。


月途は小さな箱を机へ置いた。


中には腕時計が入っている。


珍しく高い買い物だった。


しばらく悩んで、結局買ってしまった。


こんなことは初めてだが、自分の誕生日にプレゼント、と言い訳をして。


「あんこ」


呼ぶと、灰色のうさぎが寄ってくる。


月途は腕へそれをつけて見せた。


「どうかな」


あんこは一瞬腕時計の匂いを嗅いでみるが、

すぐに興味を失い、袖口を噛み始める。


「そっちかぁ……」


月途は笑った。


「まあ、一応報告」


頭を撫でる。


「どう思います、小倉あんこさん」


あんこは鼻をひくつかせただけだった。


「…そうですか」



夕方。


窓から柔らかな光が差し込む。


月途は棚を開け小さな袋を取り出す。


その瞬間。


さっきまで寝転がっていたあんこが、凄まじい勢いで駆けてきた。


「はや」


月途は思わず笑う。


手に持っているのは、ドライアップルの袋。


他の袋には反応しないくせに、これだけは特別らしい。


カサ、と袋が鳴るたび、あんこの耳が立つ。


「まだ棚から出しただけなんだけど」


あんこは完全に臨戦態勢だった。


「耳いいなぁ、ほんと、あんこは」


リビングの床に座り、袋を開ける。


その瞬間にはもう、月途の膝へ手が乗っていた。



「ただいま」


仕事から帰ると、あんこは決まってケージの前まで出てきた。


扉を開けると、飛び出し真っ先に月途の足へ顔を押し付けてくる。


「少しお待ちを」


上着を脱ぐ前から、早く撫でろと言わんばかりに寄ってくる。


その姿に、月途は苦笑した。


「あなた、ワンコでしたっけ?」


カバンを置く。


あんこの足ダンが部屋に響く。


顔を両手で包み込み、揉むように撫でる。


ようやくあんこは満足そうに目を細め、その場へペタリと伏せた。



春になった。


休日の午後。


窓を開けると、柔らかな風が部屋へ流れ込む。


白いカーテンがゆっくり揺れた。


月途は床へ座り、隣で寝そべるあんこを撫でる。


陽だまりの匂い。


乾いた牧草の匂い。


静かな部屋。


「今日はあったかいな」


あんこの耳が小さく動く。


遠くで、何か音がした気がした。


けれど月途は気にしなかった。


眠かった。


とても。


あんこを撫でていると、瞼がゆっくり重くなっていく。


「あんこ」


小さく呼ぶ。


灰色のうさぎがこちらを見る。


月途は少し笑った。


「……幸せだな」


春の光が滲む。


音が遠くなる。


身体が沈んでいく。


あんこの温かさだけが、最後まで隣にあった。




――交差点に響くサイレンの音。


微かに聞こえる。


視界がぼやけていた。


冷たいアスファルト。


誰かが叫ぶ声。


「意識ありますか!」


赤色灯が滲む。


夕方の空。


横断歩道。


月途は薄く目を開ける。


そこでようやく、全部を理解した。


あぁ、そうか。


あんこは、もう…。


…そして…自分も。


ぼやける視界の向こう。


灰色の毛並みが見えた気がした。


撫でようとしたが、手は動かない。


月途は小さく笑う。


「あぁ、あんこ……」


掠れた声で呟き、目を閉じる。


「また……一緒に…暮らせる…ね……」



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