灰魔女が通る
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
む、こんな夜中にうるさいなあ、ドタドタと……何か急ぎの用でもあったのかな。
このアパートの作りもあるのだろうけど、ちょっとしたことで音が響く環境ていうのも考えものだ。集中力がそがれる。
――なに? そもそも音楽やゲームも垂れ流したり、動画で満足したりするようなお前に集中力があるのか?
ははは、久々につぶらやくんの手厳しいお言葉だねえ。それをいわれると、ちょこっとツライ。
どこかのニュースだか、論文だかで見たな。集中力の持続はいいとこ7秒で、金魚以下しか持たなくなっている現代人、と。
時間がない、とはよく聞く言葉だが、本来時間は自助努力によって作ることが大半だった。物の機能が不十分ゆえに個々が成長すれば、した分だけゆとりが生まれて楽につながったからだ。人間の楽への執念がすごいことは君も知っているだろうし、学べば楽になると思えば、みな集中できたのさ。
が、今は道具や機能が便利になって、人のちょいとした努力よりもずっと効率よく、物事を運べる。やはり楽は大好きな存在だから、努力よりも機能を選んでいく結果、集中する意欲がなくなってしまい、集中力が衰えていってしまう……とね。
だが、いざ自分の力でもって、長続きしないものに立ち向かわねばならないときが訪れたらどうする? しかもヘタに逃げを打てないときたときには、さ。
最近、友達から聞いた話なのだけど、耳に入れてみないか?
友達が最初にそれと出会ったのは、幼稚園児のころだったという。
ひとりで公園へ遊びに行ったところ、その広い敷地内にはただひとり。ベンチに腰掛けた背広姿の男性がいたのだとか。
人が少なくとも、それだけならままあることかもしれないが、友達がひと目見ておかしいと思ったのは、その足元に広げた新聞紙が落ちていたことだ。見ると、その人自身も腕を中途半端に広げた状態のまま、静止している。
新聞をそのまま持てそうなポーズだ。おそらくは読んでいる間に取り落としたのだろうけれど、だとしたら拾う素振りを見せずに固まっているのはおかしい。
しかも、顔は正面を見たまま固まっている。いま、風が吹いて新聞の紙面がぺらぺらとめくられはじめ、飛びそうになっているのも気にしていないようだ。
さらには、うなじあたりから灰色の液体がこぼれている。首をまわって、襟を汚し、相当な量であることは見て取れたが、正体も分からない。これにもまた背広の人は不動を貫いている。
いや……それどころか、これは……。
友達の頭に嫌な予感がひらめくとともに、吹く風が一気に強まった。
新聞が吹き飛ぶが、飛んだのはそれだけじゃない。
背広の人の頭だ。灰色の液体に汚れたうなじもろとも、彼の頭が一緒になって飛び立ち公園の茂みの中へ飛び込んでいったらしい。
残されたのは、首がないことをのぞいてそのままの彼の身体と背広のみ。しかも、その首が飛んでいった後の断面図は、血や筋肉や骨など一切がのぞかない。代わりに襟を汚しているのと同じ、灰色の液体がたっぷりと詰まっていたのだそうだ。
もう遊ぶなんて気持ちじゃなく、家へ飛んでかえった友達は夢中で母親に説明したそうだ。
「ああ……それは魔女さんの仕業だねえ……気の毒に」
魔女? そのようなものが本当にいるのか、と友達は思うも、母親は続ける。
現象は知られども、実態はいまだはかりかねているもの。それらを自分たちは「魔」と呼んでいて、今回のもそれだと。
母親の話だと、それはいくつもある魔女の起こす現象のひとつ。母親たちはむかし、友達の間で「灰の魔法」と名付けていたようだ。
「灰の魔法は、心のすき間を突くもの。もし入り込まれたら取り返しがつかず、防ぐには別のものに意識をできる限り集中しなきゃいけないのさ。
魔法をかける前、魔女は必ず音を鳴らす。硬貨を床へ落とすような、けれどもとても長く長く響く音。そいつを聞いたなら、何事かに集中しなきゃいけない。ただぼーっとしてるんじゃダメだ。
いつまでやればいいか、それはあんた自身が体験すれば分かるだろうね。おそらく、その人も新聞を読もうと集中したのだろうけど、ふと気を紛らわす何かをされて、つけこまれたか分からないけれどね」
灰の魔法について聞いたのち、しばらく警戒していた友達だったが、次に出会うには10年以上の歳月をはさんだ。
入試勉強のおり、近所の図書館の一人机に座っていたときだったという。息抜きに大きく伸びをしたところ、硬貨が床に落ちる音を聞いたのだそうだ。
最初はポケットに入れた財布からこぼれたのかなと思ったが、それにしてはいやに音が長く、すぐに「灰の魔法」だと思ったそうだ。
休憩を止めて、問題集に取り掛かる友達だったが、元よりてこずりそうな問題だったから疲れていたところ。それでもどうにか意識を集中させるべく、公式を頭の中へ次々呼び起こし、解答せんとする。
どれくらい経っただろうか。ふと、自分の後ろを何かが通り過ぎる気配を、友達は感じた。
身近に人がいると、熱なりを微妙に感じるような、あの感覚だ。
あの日の背広の人のことが思い出されたからだ。それからも待って、待って、完全に気配がなくなるや、友達は退散するべく荷物をかたしだした。
その立ち上がった瞬間を、友達はいまだ忘れられずにいる。
自分の周囲に座っていた人たち。数こそまばらではあったけれども、彼らの大半が手元に本を開いているにもかかわらず真正面を向いていたこと。そのうなじや服の襟が灰色に汚れていたことを。