第六話 続×5・何もかもの始まりの日
「――つばめさん?」
私を呼ぶ声に意識が浮上する。
思わず物思いに耽ってしまったけれど、そういえば彼もいたんだったな。
ふるふると首を振って私は目の前に立つ人を見上げた。
何の話してたんだったか――ああ、手合わせ、だっけ。
「えーっと――……手合わせは面倒臭い」
「それで、本当に拒否できると思ってますか?」
全く思ってない。
そもそもそれで引き下がるような人間ならわざわざこんな時間には来ないだろう。
思わず大きく溜め息を吐く。
面倒だ、果てしなく面倒だ。
「……。そもそも何だっていきなり手合わせなんだ、明日は国都に戻るんじゃないのか。それ以上怪我したらどうする気だ」
「! おや、私が国都に戻るという事は華音さんを連れて行くという事になるんですが、随分あっさりしているんですね」
畦倉殿はくすりと笑った。
その顔には愉悦大半と少しの苛立ちが含まれていて、特に後者の意味が解らなかった。
華音が国都に行くことを前提に考えているから、私に勝ったような気分になっているのだろうから、喜ぶのは解る。
だが、彼が苛々とする契機になるようなものはなかったように思う。
「――華音は絶対に行くよ」
いらっ。
今、前方から放たれた怒気の意味は解った。
私は華音の事を解っているように言うから嫉妬したんだろう。
もしかしたらさっきの苛立ちも同じ類のものだったのかもしれない、と思いながらかろうじて笑みを浮かべて目の前に立つ畦倉殿と目を合わせる。
「……何故、解るのですか」
「華音は誰かが傷ついてるって聞いてそっぽを向けるほど、器用じゃない」
全てのものを助けようと、守ろうとするような子なんだ。
そういう所が傲慢に見えて癪に障らない訳でもないが、それでもそうじゃなきゃ華音じゃない。
「――そういう、奴だから」
†
どこか遠くを見るように目を細めたつばめさんは小さく呟いてから、ふるふると首を振った。
言いたくはないが、華音さんがつばめさんの事を心底信頼しているのは少しの間近くにいただけでよく解った。
だが、先の舌戦と良い、底の知れない笑みと良い、もしかしたら華音さんが騙されているのではないかと思いたくもなるようなものばかりで、何だってこんな人が華音さんの近くにいるのか、不思議でならなかった。
彼は華音さんを陥れようとしているのではないのか。
彼女を大事に思っているようなフリをしているだけではないのか。
だから彼が華音さんが国都に来ることを前提に話し始めたとき、確かな優越感と共に仄かな苛立ちを覚えた。
やはり、華音さんを大事に思っていたわけではないのだと思い込んだから。
だが、次に彼が言った言葉は、華音さんを深く理解して見守るようなものだった。
それを聞いてほっとした、もし彼が彼女を騙していたら華音さんは泣いてしまうだろうから。
それと同時に嫉妬もした。
むしろ嫉妬心の方が大きかった。
私だって彼女が優しいことは知っている、と外聞なく言いそうになって口を引き結ぶ。
この男に隙を見せるのは業腹だ。
睨みつけるように彼を見ているとつばめさんは居心地が悪そうに身動ぎした。
「……兎に角、私は明日妖の蔓延る山を超える、しかも現在怪我をしている人相手に手合わせをする気はない」
そもそも今手合わせをしようなんて何を考えているんだ、と眉を顰めた彼に私は思わず言葉を詰まらせた。
――彼の言っていることは正しい。
腕は幸い折れてはいなかったものの、力が入らない。
二・三日使わなければ元通り使えるようになるだろうと言われたが、万全の状態ではないのは自分でも解っている。
今、つばめさんと手合わせすれば、負けは確実、怪我も十中八九増えるだろうし、間違っても賢明な判断とは言えない。
私は、彼に嫉妬している。
華音さんから全幅の信頼を置かれている彼に――そして態度でも、その強さでもその信頼に値する人間だと解らされてしまう彼に。
彼がもっと嫌な人間ならば華音さんに言い含めて離れさせることもできただろう。
だが、そうじゃないから余計に嫉妬する。
だから、私と戦って怪我をさせられれば――その信頼をなくせば、と思ってしまった。
「(――最低、ですね)」
自分の行動にふと苦笑いが零れた。
それが聞こえたのかつばめさんが訝しげに首を傾げる。
彼は、実年齢は私よりも幼いだろうに、非常に冷静だ。
彼女の近くにあるにもかかわらず、それで驕ることもないその潔さがさらにこの感情を――劣等感を際立たせていた。
今の私では彼に遠く及ばない。
刀の面でも、心の面でも。
受け止めざるを得なかった現実に力の限り手を握り締めると、真正面からため息が聞こえてきた。
――もちろん、つばめさんのものだ。
「あのさ、何考えてんだか知らないけど、あんた華音を守るんじゃないのか?」
呆れたようなその声色に思わず目を瞬く。
驚いて顔を上げると、彼はやっぱりさっきと同じどこかやる気のない、だるそうな顔で私を見ていた。
その目は、呆れたような色を帯びていながらも、あたたかいものを湛えているように見えた。
「え……」
「華音に惚れたんだろ」
惚れた人は守りたいもんじゃないの、と首を傾げる彼に思わずぽかんとする。
それは……その、彼の言う通りではあるのだけれど、そんなにあっけらかんとして言われても……つばめさんは彼女のことを好いている訳では――いや、それが問題ではない。
――彼が守るのでは、ないのだろうか。
「――私で、良いんでしょうか」
ぽつりと呟いた私の声につばめさんは器用に片眉を上げた。
彼女に、心から信頼されている、その信頼に見合うだけの力もあるつばめさんではなく、私で、良いのだろうか。
そんな心情を吐露することなく口を噤めば、沈黙が場を支配した。
「……それさ、どういう意味?」
大いに呆れの色を含んだそんな声が私の耳朶をついた。
「華音を偶像化してるんならそんなの迷惑だ、あの子はただの人間なんだから、そんな妄想捨てちまえ」
――華音さんを偶像化?
いいや、違う。
私が届かないと、高みの人だと思ったのは、つばめさんだ。
「……ただの人でも、届かないと思わされるんです」
力量だけじゃない、彼は華音さんを心から信頼して、信頼されているんだと――そのことに誇りを持っているのだと見せつけられている気になる。
つばめさんにそんな気はないと、私にだって解るが、何だか大きな隔たりを感じる。
これが、偶像化ということなのか?
「思わされるんじゃないだろ」
「……?」
「あんたが勝手に思ってるだけ。あの子はただちょっと優しいだけの普通の女の子だよ、少なくとも中身はね」
外見がどうか、持ってる力がどうかは知らないけど、とつばめさんは口に笑みを刻んだ。
心の底からそう思っているらしい彼の笑みに思わず目を瞬く。
華音さんがただの女の子だと言うのなら、彼は――……。
「……ただの村人ってところですね」
「は?」
「いえ、何でもありませんよ。ただ、華音さんがただの女の子とはずいぶんですね? 彼女は淑やかで心優しい私の――想い人、です」
ただの、ではありません、と再度言うと、目の前の青年は呆れたように溜め息を吐いた。
――華音さんがただの女の子でなく淑やかで優しい私の想い人だというのなら、彼は、つばめさんは一体何だろう。
タダの村人というには彼は少し私の想い人に近すぎた。
タダの知り合いというには彼は私に近づきすぎた。
タダの相談役というには彼は少し優しすぎた。
タダの――恋敵、というには彼は頓着しなさすぎた。
謎はいよいよ極まれり、ひとつ確かなのは彼が“ただの何か”に収まる人間ではないということではないだろうか。
2011・11・14 誤字訂正