「妻はまだ生きていた」
■還暦
妻とは同級生。ともに還暦である。
人なみに、ともに年齢なりの病気を経験したが、幸い命にかかわることもなく健康でいる。
長男が今年、社会人となり、ようやく二人でのんびり、熟年ライフを過ごす予定だったのだが、図らずも私はCEOに押され定年延長、妻は妻で、専業主婦ではあるのだが、民生委員のボランティアや、ライフワークとしている茶道の事務局の仕事などを引き受けざる負えなくなった。
だが、この年になると、だれそれが、がんで闘病中だとか、中風でどこそに入院している、とか、突然死したとか、訃報に接する機会も多い、そんな年齢なのだ。
ともに忙しく、ともすればすれ違いの日々。
でも毎日欠かさず私に合わせ早起きをしてくれ、必ずお弁当を作ってくれる糟糠の妻といういうやつだ。
■朝の不安
その朝、いつも通り6時に起床。
妻は昨晩ボランティアの仕事でかなり遅くまでパソコンと格闘していたらしく、まだぐっすり。
「たまにはゆっくり寝かせてやろう」——そう思って顔もみず、いつもの“行ってきます”も言わずに出勤した。
ところが会社に着き、忘れ物に気づき妻に電話。
携帯にはつながらない。
念のため、固定電話にもかける。
出ない!!
(そうだ、車でどこかにでかけたのかも!)
ガレージの防犯カメラにアクセスしようとするが、肝心な時に ”弊社” の最新IT商品「どこでも見守りEye」はWi-Fiが死んでいるのか?なぜか今日は起動せず。
(こんな時に限って、なぜ?
不安がもたげてくる。
妻になにかあったのだろうか?
いや、倒れてベッドでつめたく......。)
この時点で不安はマックス。
階下に住む弟の次郎に事情を説明し、自宅を確認してもらうことに。
「ああ、兄貴か、了解。今から確認に行くからちょっと一回電話切ってくれるか。またかけなおすわ」
不安は一気に最悪の妄想に変わっていく。
(まさか……倒れて冷たくなって……救急車が……近所がざわめいて……ああ、祐子しなないでくれぇええ)
心臓は”That’s Euro beat”と言わんばかりに早鐘を打ち始めた。
■打ち合わせの混乱
ちょうどそのとき、得意先の中川部長が来社。弊社の命運をかけた新商品「どこでも見守りEye」の販売会議だ。
中川部長「ところで、この“見守りEye”は本当に接続やセキュリティーは安心なんでしょうね?」
私「……ええ、もちろん。例えば……妻が……ベッドで冷たくなっていたとしても……だいじょうぶ...です」
中川部長「ええっ?」
私「あ、いや! すぐに……救急搬送シーンがライブ配信され……」
中川部長「えええっ!?」
副社長の中村くんが慌てて割って入る。
「いえいえ、社長が言っているのは最悪の状況を想定した比喩でして!
つまりは
“家族の健康を守る安心システム”という意味です!」
部長は引きつった笑顔。
私の頭の中ではすでに葬儀場に到着。喪主挨拶を娘たちに支えられながらよんでいる自分の姿が浮かんでいた。火葬場で棺にむかって最後のお別れを.......ゆう...こ....
■弟からの連絡
そのとき2時間くらいたってようやく弟の次郎から返信。
「兄貴、ごめん。すっかり連絡忘れとったわ。何慌てとるん? 今見たけど、クルマなかったしたぶん出かけとるんちゃう?」
あまりにもあっさりした声に、ほっとしたのか逆に涙がにじむ。
「……ありがとう……助かったよ、ほんま助かった。ゆうこーぉ」
(”ゆうこー”は長野五輪のジャンプ原田のテンションで)
頭の中で並んでいた霊柩車も、近所の人だかりも、一瞬で霧散したのであった。
■結末
その日というか、最近で、一番うれしかったこと——
それは、
「妻が死んでいなかった」という、ただそれだけの事実。
ちなみにその夜。
帰宅すると、妻は涼しい顔。どうやら茶道のお稽古帰りらしい。
「おかえり。
あなた、今日お弁当忘れてたでしょ」
「うん.....ごめん。ただいま]
そう言って笑う彼女を見て、心から思った。
……やっぱり、Wi-Fiより大事なのは“いってきます”と“ただいま”だな)




