『かほるの梅酒』
冷蔵庫の奥に、やけに古びた瓶を見つけた。
「“かほるの梅酒1984.7.”?……誰だ、かほるって」
手書きラベルの文字は、どこか見覚えのあるクセ字。もしかして、亡くなった母の……?
透明なガラス瓶に入れられた”それ”は、梅のようにもみえたが、どちらかといえば、身は崩れ、きくらげのようなかんじだった。
恐る恐る封を開けると、見かけとは裏腹にやさしい梅の香りが鼻腔をくすぐった。
一口、飲んでみる。とろんとした甘み。懐かしい味がした。
翌朝。
鏡の前で、僕は固まった。
眉間に深くシワを寄せ、目尻をぐいと持ち上げていた。
「ちょっとアンタ、また鼻毛出てるじゃないの」
思わず口をついて出たその言葉に、自分が一番驚いた。
「……なんで母さんの口癖が!?」
その日から、僕の中の“かほる”が目を覚ました。
・病院の外来で
「椅子の座り方が悪いから腰痛になるのよ。背筋伸ばしなさい」
内科の高橋先生に突然ママ目線。
その後、なぜか彼はお弁当を持ってくるようになった。
・スーパーにて
レジで値札が間違っていると、即座に指摘。
「奥さん、これ消費税の計算まちがってない? 私、暗算得意なのよ」
店員さんは固まっていた。僕もだ。
・妻とテレビを見ていて
「この人、前の奥さんと別れたときはねえ……」
勝手に芸能人の私生活を暴露し始めた。根拠はない。でも妙に説得力があるのが困る。
ある日、酔った勢いで鏡に向かってこう問いかけてみた。
「母さん、まさか俺に“乗り移って”るの……?」
すると、胸の奥から、ほんのりと梅の香りとともに、声がした。
「アンタ、独りにしといたら、体に悪いもんばっか食べるでしょ?」
……たしかに。
それ以来、僕は冷蔵庫の整理を欠かさなくなった。
夜ふかしも控えめになり、食後には“漬物”を求めるようになった。
そして何より、時折、口から飛び出す母の小言に、なぜか家族は誰も怒らない。
むしろ、ちょっとだけ安心した顔になる。
“かほるの梅酒”。
それは、母の魂を閉じ込めたタイムカプセルだったのかもしれない。
……ちなみに。
冷蔵庫の奥には、まだ半分以上、残っている。
父にも飲ませてみようか、どうしようか、悩み中である。