ミケと波の記憶
その海辺の町に、ひとりの老人が暮らしていた。
名前は田島栄一、84歳。元・漁師。
最近では名前すら忘れることが増え、訪ねてきた家族にも「どちらさん?」と尋ねる日が続いていた。
だが、ひとつだけ――三毛猫の“ミケ”のことだけは、決して忘れなかった。
毎朝、家の縁側でミケに声をかける。
「おはようさん。今日は潮がいいな」
ミケは返事のように小さく「にゃあ」と鳴く。
そして毎週水曜日、老人は浜へ行く。
「漁の支度じゃ」と言っては、誰もいない砂浜に立ち、空のバケツを見つめる。
家族が止めても、どうしてもやめない。
ある日、老人は海辺の岩場にぽつんと座っていた。
その肩に、ミケが静かに乗っていた。
通りかかった看護師が心配して声をかけると、老人はこう答えた。
「この猫な……海から来たんじゃよ」
「えっ?!」
「昔な、沖で遭難したとき、波の上を歩いてきて、わしの肩に乗ったんじゃ。
そいでな……こいつが耳元で“帰るぞ”言うたんじゃよ」
看護師は笑って頷いた。
その日以来、老人の症状は少しずつ進み、ついには家族の顔もミケの名前も出てこなくなった。
けれど、最後の入院の夜。
ベッドの上で、老人はこう呟いた。
「……ああ、ミケ、潮が引いたな。
もう帰るときじゃ……」
誰もいない病室の窓辺に、三毛猫の影が一瞬見えた気がした。
翌朝、栄一じいさんは、満足そうな笑顔を携え、静かに旅立った。
そして、その枕元には、小さな貝殻と、濡れた猫の足跡が残されていた。




