『温度と視界と大根の話』
「……なんか、部屋が歪んで見えるんだよな」
その日、俺は朝からずっと違和感を覚えていた。
床が波打って見える。棚が微妙に傾いて見える。
地震じゃない。先日眼科で受けたレーザー治療による副作用って訳ではなさそうだ。
酔ってるわけでもない。寝不足か?
とりあえず眼鏡を外してみた。……もっと歪んだ。
どうやら眼鏡がおかしいようだ。拭いてみる。
変化なし。じゃあフレームが歪んだのか。
何度かつけ外ししても、やはり部屋が妙に斜めに見える。
……ああ、気持ち悪い。
とにかく暑いので、エアコンをつけた。
うちの古いエアコンは、起動に少し時間がかかる。
「ピッ」という控えめな電子音のあと、数秒して“ゴウン……”と、どこかから小さなうなり声。
すると、なぜか視界の歪みが少しマシになった気がした。
「え……もしかして、温度で直るの? 俺の目?」
そんなバカなと思いながら、冷房を強めに設定する。
涼しい風が頬を撫でる頃には、視界が完全にクリアになった。
「あれ? 治った?」
眼鏡もそのまま、視界も正常。なんだったんだ、さっきまでのアレ。
ともかく快適になったので、冷蔵庫から大根を取り出した。
夕飯の味噌汁用だ。さっそくまな板に置いて、包丁を手に取る。
そのとき、背後から「ゴウン……」と、またあのうなり声が聞こえた。
——視界が、またゆっくりと歪む気がした。
「え?」
慌てて振り返ると、エアコンが止まっている。タイマーで切れたらしい。
視界がゆっくり、ゆっくり、ぐにゃりと曲がっていく。棚が倒れそうに見える。
俺は大根を落とし、床に手をついてふらついた。
もう一度、エアコンをつける。……治った。
風が出るたび、視界が速やかに元通り。
……つまり。
冷房の風で“何か”が動くと、俺の視界が速やかに治る。
そして、風がないときの視界の悪化はゆるい。
ということは、逆に言えば、風がないときにでも
部屋の何かが——
動いてるのか?
視界のゆがみを緩く緩くさせるほどには、わずかに、でも確実に。
俺はゆっくりと眼鏡を外し、大根に視線を向けた。
それは、さっきより——ほんの少しだけ、近づいていた。
冷房は止まっているのだが、さっきより少し寒い気がした。