草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑨
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紫禁城の奥深く、秋の気配が深まる1643年(清・崇徳8年)の9月、宮廷はにわかに慌ただしくなっていました。清国の第二代皇帝、ホンタイジが、突然その生涯を終えたのです。彼の急逝は、広大な帝国の未来を不透明にし、後継者を巡る激しい争いが勃発しました。
対立の中心にいたのは、ホンタイジの長子である豪格と、ホンタイジの弟であるドルゴン——睿親王と称される男でした。宮廷の空気は重く、誰もが次の一手を案じていました。そんな中、ひときわ聡明な女性がいました。ホンタイジの側室であり、モンゴル・ホルチン部の姫君であった布木布泰です。
彼女は、当時わずか6歳の幼い息子、フリン——後の順治帝の将来を案じていました。息子を皇帝にするためならば、どんな犠牲も厭わない覚悟でした。布木布泰は、権力の座を虎視眈々(こしたんたん)と狙うドルゴンとの密約に臨みます。
謁見の間で、布木布泰は静かにドルゴンと向き合いました。ドルゴンの瞳は、欲望と野心に燃え盛っています。「貴女の息子を皇帝にする件ですが……」ドルゴンはゆっくりと言葉を切り、布木布泰の顔を見つめました。布木布泰は、心を鎮め、ただ彼の言葉を待ちます。
「その条件は、一つだけです。」ドルゴンの声は、低く響きました。「私は、ずっと貴女を求めていました。貴女を手に入れることが、私の夢だったのです。私の愛人に…なって欲しい。」
その言葉を聞いた瞬間、布木布泰の胸に冷やりとした感情が走りました。しかし、彼女は表情を変えませんでした。息子フリンのため、清の未来のため、彼女にはこの条件を受け入れる以外の道はありませんでした。
布木布泰は深く息を吸い込み、静かに答えました。
「承知いたしました。息子の事くれぐれもよろしくお願いいたします。」
その声は、わずかに震えていたものの、確固たる意思を宿していました。
ドルゴンは満足げに頷きました。この密約によって、幼いフリンは皇帝の座に就くことになります。そして、布木布泰は皇太后となることが決まりました。
後継者争いは、これにて終結を告げました。ドルゴンと、もう一人の重臣であるジエルガラン(じえるがらん)——鄭親王が摂政となり、幼帝を支える体制が整えられます。
布木布泰の心の中は、複雑な感情で満たされていました。愛する息子を皇帝にするという願いは叶えられたものの、その代償はあまりにも重いものでした。しかし、彼女は決して後悔しませんでした。これは、彼女が選んだ道であり、清の未来のため、息子の幸福のため、彼女は強く生きることを誓うのでした。
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1644年(清・順治元年)4月25日、清の摂政王ドルゴンは、いよいよ明の都である北京を攻め落とそうとしていました。彼の野望は、山海関を突破し、明を滅ぼすこと。そのために、これまで着々(ちゃくちゃく)と準備を進めてきたのです。
しかし、その矢先のことでした。突如として届けられた一報は、ドルゴンの計画を根底から覆すものでした。
報告に現れた伝令は、息を切らせながら叫びました。
「申し上げます! 摂政王! 李自成率いる農民反乱軍が、北京を陥落させました!」
ドルゴンは、その言葉に耳を疑いました。
「なに? 北京が陥落しただと?」
伝令は続けます。
「崇禎帝は自害なされ、明は……明は滅びました!」
その報告を聞き終えたドルゴンは、あまりの衝撃に言葉を失いました。彼は自らの手で明を滅ぼすつもりでいたのです。それが、まさか農民反乱軍の手によって、あっけなく終わってしまったとは。
「なんという早い滅亡だ……。明は、そこまで腐りきっていたのか?」
ドルゴンの口から、驚愕と失望が混じった声が漏れました。彼はこれまで、明を強大な敵として認識し、その打倒のために全霊を傾けてきました。しかし、明の内情は、彼が想像していた以上に脆かったのです。
静寂が陣営を包みました。家臣たちは、摂政王の動揺を察し、誰も口を開きませんでした。しかし、この予期せぬ事態は、清にとって、新たなる好機をもたらす可能性も秘めていることを、ドルゴンはすぐに悟りました。
明の滅亡は、彼にとっての計画を狂わせましたが、同時に、中華の支配者となるための道を、思いがけない形で開いたのです。ドルゴンの瞳に、新たな野心の炎が宿り始めました。
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1644年(清・順治元年)、布木布泰は、清の摂政王ドルゴンとの密会の場にいました。部屋には二人きり。静寂の中で、ドルゴンが重い口を開きました。
「明は滅んだ。だが、北京をどうすべきか……。李自成の反乱軍が占拠している今、容易いことではない。」
ドルゴンは、明の都である北京を攻め落とす好機をうかがっていましたが、まさか農民の手によって明が滅ぶとは、予想外の事態でした。彼の顔には、わずかな困惑と、次の一手を模索する思案の色が浮かんでいました。
布木布泰は、そんなドルゴンの姿を静かに見つめていました。彼女の瞳の奥には、深い洞察力と、強い意志が宿っていました。彼女は、この機会を逃してはならないと直感しました。
「ドルゴン様。」
布木布泰は、静かな声で彼に語りかけました。
「あなたの野心は、満州族の王などにおさまってはいけません。」
その言葉に、ドルゴンの視線が布木布泰に注がれました。
「私を手に入れたことに満足してはいけません。」
布木布泰の声は、低く、しかし確かな響きを持っていました。
「北京の……そして、中華の支配者となりなさい。」
ドルゴンは、息をのんで彼女の次の言葉を待ちました。
「今ならできます。あなただけが、それを可能にするのです!」
布木布泰の言葉は、まるで冷たい水をかけられたかのように、ドルゴンの心に宿る野心の火を、一瞬にして燃え上がらせました。彼は自らの胸の内に秘めていた、中華全土を支配したいという願望を、彼女に言い当てられたかのようでした。
「中華の支配者か……。」
ドルゴンは、自らに問いかけるように呟きました。彼の脳裏には、かつて明の皇帝が君臨していた広大な大地と、そこに住まう無数の人々(ひとびと)の姿が浮かびました。
布木布泰は、彼の目の奥に、決意の光が灯るのを見逃しませんでした。彼女は知っていました。ドルゴンという男が、いかに大いなる野心を抱いているかを。そして、いかに彼が、その野心を現実のものとする力を持っているかを。
「そう、あなたならできます。」
布木布泰は、再び彼を鼓舞するように言いました。
ドルゴンは、彼女の言葉に背中を押されるように、立ち上がりました。明は滅びました。その空白を埋めるのは、今まさに、自分なのだと。
「よし、決めたぞ。」
ドルゴンは、力強く宣言しました。
「明に代わり、清が中華の支配者となるのだ!」
その瞬間、部屋の中に満ちていた重苦しい空気は、新しい時代の幕開けを告げるかのように、希望に満ちたものへと変わっていきました。布木布泰は、静かに微笑みました。彼女の胸の中には、愛する息子、そして清の未来への確かな展望が広がっていました。




