草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑦
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1636年(清・崇徳元年)、北の風が吹き荒れる中、清の都・盛京は、厳かな婚礼の準備に包まれていました。この年、孝荘文皇后(布木布泰)の娘である固倫温荘公主(マーカタ)が、モンゴル帝国の最後のハーンであり、チャハル部の当主であったエジェイ・ハーン(額哲)のもとへ降嫁することになっていたのです。
紫禁城の一室で、ホンタイジは娘のマーカタに語りかけました。 「マーカタよ、この婚姻は清とモンゴルの未来を拓く、大いなる政である。お前は国のための礎となるのだ。」 マーカタは、父の言葉をじっと聞いていました。まだあどけなさが残る顔には、決意とわずかな不安が入り混じっています。 布木布泰は、娘の手をそっと取り、優しい眼差しで言いました。 「辛いこともあるでしょう。しかし、あなたは清とモンゴルを結ぶ、大切な架け橋となるのです。誇りを持ちなさい。」 「母上……。」 マーカタは、母の温かい手にそっと寄り添いました。
この政略結婚は、ホンタイジがモンゴルのチャハル部を服属させ、その後の清朝の支配を確立する上で非常に重要な意味を持っていました。エジェイ・ハーンは、かつてホンタイジと敵対したリンダン・ハーンの息子でしたが、ホンタイジに降伏した後、優遇され「固倫額駙親王」の称号を与えられていたのです。この結婚により、清とモンゴル間の政治的関係は、より一層強固なものとなるでしょう。
婚礼の日、盛京の街は祝福の雰囲気に包まれました。色鮮やかな民族衣装をまとった人々が、列をなして通りを埋め尽くし、歓声が響き渡ります。マーカタを乗せた輿がゆっくりと進むたびに、人々は平伏し、その門出を祝いました。
ホンタイジと布木布泰は、高台からその様子を見守っていました。 「これで、清の基盤はより盤石なものとなるでしょう。」 ホンタイジが満足げに言いました。 布木布泰は、娘の乗った輿が遠ざかるのを見つめながら、静かに答えます。 「ええ。ですが、娘の幸せもまた、私たち親の願いです。」 ホンタイジは、妻の言葉に頷きました。政略結婚という重い使命を背負った娘の将来を案じる、親としての情がそこにはありました。
しばらくして、ホンタイジは言いました。 「この婚姻が、新たな時代の幕開けとなることを願うばかりだ。明の支配は長くは続かぬだろう。」 布木布泰は、夫の言葉に力強く頷きました。 「はい。清の天下統一も、遠い未来ではないでしょう。」
この政略結婚は、清朝の歴史において、大きな転換点の一つとして記憶されることになります。一人の公主の嫁入りが、広大な帝国の運命を左右する。それは、この時代の厳しくも雄大な歴史の一幕でした。
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1637年(清・崇徳2年)の清朝は、新たな胎動の時期を迎えていました。この年、孝荘文皇后こと布木布泰は、ホンタイジの七女である固倫端順公主を無事出産いたしました。新たな命の誕生は、宮廷に明るい話題をもたらしましたが、その裏では、清の勢力拡大に向けた動きが着々と進められていたのです。
同じ年の1月、清は再び朝鮮へと侵攻しました。これは「丙子胡乱」と呼ばれる戦いで、清の強大な軍事力を示すものとなりました。ホンタイジ率いる清軍は、朝鮮の首都を包囲し、国王を追い詰めます。
盛京の宮廷では、布木布泰が生まれたばかりの公主を抱きながら、夫であるホンタイジの帰りを案じていました。 「陛下は、もうじき戻られますか?」 布木布泰は、そばに控える女官に尋ねました。 女官は深々と頭を下げ、答えました。 「はい、荘妃様。間もなく吉報が届くかと存じます。」
ホンタイジが朝鮮へ出兵している間も、清の宮廷では政が滞りなく進められていました。これは、布木布泰をはじめとする后妃たちが、それぞれに役割を果たし、内政を支えていたからです。
数週間後、ついにホンタイジが盛京へ帰還するという知らせが届きました。宮廷には安堵の空気が広がり、人々は喜びの声をあげました。
ホンタイジは、勝利の報告を携えて布木布泰のもとを訪れました。 「ブムブタイよ、ただいま戻った。」 ホンタイジの声には、疲労の色が見えましたが、それ以上に大きな達成感がにじみ出ていました。 布木布泰は、笑顔でホンタイジを迎え、生まれたばかりの公主を抱き上げました。 「お帰りなさいませ、陛下。そして、おめでとうございます。」 ホンタイジは、愛おしそうに娘の顔を覗き込みました。 「また、新しい公主か。賑やかになるものだ。」 そして、布木布泰の顔を見て、こう言いました。 「朝鮮はついに我らの属国となった。三田渡において、朝鮮国王が我らに降伏し、君臣関係を結んだのだ。」 布木布泰は、静かに頷きました。 「これで、清の天下は、より確かなものとなりますね。」 ホンタイジは、力強く答えました。 「そうだ。次は明だ。中華の支配は、もう目の前だ。」
この勝利により、清は朝鮮を属国とし、その国力はさらに増しました。清朝が中華の支配者となるための道は、着実に拓かれつつあったのです。布木布泰は、この激動の時代の中で、娘の誕生と国の繁栄を同時に見つめていました。彼女の心には、新たな命への愛情と、清朝の未来への期待が入り混じっていたことでしょう。
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1638年(清・崇徳3年)の春、清の宮廷に新たな慶事が訪れました。3月15日、孝荘文皇后こと布木布泰は、ホンタイジにとって第九子となる男の子、後の順治帝となる福臨を出産したのです。
玉のように可愛らしい赤子の誕生に、ホンタイジは大層喜びました。長年待ち望んでいた、跡を継ぐ可能性のある皇子の誕生は、彼にとって何よりも喜ばしいことでした。宮廷には祝賀の雰囲気が満ち溢れ、ホンタイジは福臨を腕に抱き、その小さな寝顔をいつまでも眺めていました。
しかし、その喜びの影で、複雑な感情を抱く者もいました。ホンタイジの長子である豪格です。これまで、父であるホンタイジの後を継ぐ可能性が最も高いとされてきた豪格にとって、新たな皇子の誕生は、自らの立場を脅かすものに他なりませんでした。
ある日の夕暮れ時、豪格は、仲の良かった叔父であるドルゴンを訪ねました。ドルゴンは、ヌルハチの第14子で、武勇に優れ、周囲からの人望も厚い人物でした。
「ドルゴン、ちょっといいか?」 豪格は、どこか沈んだ声で尋ねました。 ドルゴンは、豪格の様子に気づき、気安く答えました。 「おお、豪格じゃないか。どうした、浮かない顔をしてるな。」
豪格は、本音を打ち明けるように、深い溜息をつきました。 「お前も知ってる通り、荘妃様が男の子を産んだだろ。」 ドルゴンは静かに頷きました。 「ああ、喜ばしいことじゃないか。陛下も大層喜んでるぞ。」 「喜ばしいこと、だって?」 豪格は、悔しさを滲ませながら言葉を続けました。 「今まで、俺が父上の後を継ぐって、みんな言ってたんだ。なのに、これで…」 豪格は、言葉を濁しました。彼の心の中には、焦りと不安が渦巻いていたのです。
ドルゴンは、豪格の肩にそっと手を置きました。 「豪格、気持ちはわかる。でもな、そんなに感情的になってどうする。天下を治める奴は、いつも冷静でいなくちゃいけない。」 ドルゴンの言葉は、豪格の心に深く響きました。 「新たな命の誕生は、清にとって縁起の良いことだと考えるべきだ。争うんじゃなくて、協力することで、俺たち清はもっと強くなる。」 ドルゴンは、諭すように言葉を続けました。 「それに、まだ何も決まったわけじゃない。お前がやるべきことは、これまでと何も変わらない。日々の鍛錬を怠らず、学問に励んで、父上を支えることに全力を尽くすんだ。」
豪格は、ドルゴンの言葉に深く頷きました。彼の心の中に渦巻いていた複雑な感情は、ドルゴンの冷静な言葉によって、少しずつ鎮まっていくようでした。 「ドルゴン、ありがとうな。俺は、まだまだだな。」 ドルゴンは、豪格の頭を優しく撫でました。 「それでいいんだ。さあ、そろそろ夕飯の準備ができた頃だろう。一緒に飯でも食うか。」
二人は、連れ立ってドルゴンの居室を後にしました。豪格の心には、まだ少しばかりの不安が残っていましたが、ドルゴンの言葉によって、前を向くことができるようになったようでした。清朝の未来を巡る皇位継承の物語は、この時、静かに幕を開けたのです。




