草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑥
〇
1634年(後金:天聡8年)の穏やかな日でした。盛京の宮廷では、布木布泰がホンタイジの五女となる固倫淑慧公主を無事に出産しました。小さな姫を抱いた布木布泰の顔には、母としての喜びと、安堵の表情が浮かんでいました。これで彼女は三度の出産を経験したことになります。
その頃の布木布泰は、後金の宮廷での生活にもすっかり慣れていました。伯母にあたる孝端文皇后(ジェルジェル)は、常に彼女を気遣い、温かい言葉をかけてくれる存在でした。
しかし、この年、布木布泰にとって、少し複雑な感情が胸をよぎる出来事がありました。それは、実の姉、ハルジョル(海蘭珠、敏恵恭和元妃)が、ホンタイジの側室として嫁いできたことです。
ハルジョル(海蘭珠)は、布木布泰よりも四歳年上で、幼い頃から姉妹は非常に仲が良かったのです。布木布泰は、故郷のモンゴル(もうこ)の草原で、姉と共に馬を駆け、羊を追いかけた日々(ひび)を懐かしく思い出しました。特に、姉が大切にしていた首飾りのことは、鮮明に記憶に残っています。
「お姉様!その首飾り、今日だけ貸してくださらない?」と、かつて自分が姉にせがんだ言葉が、今でも耳の奥に蘇るようでした。
「だめよ、布木布泰。貴女がもっと大きくなってからね。」と、微笑みながら答える姉の姿を、布木布泰は思い出していました。
しかし、今、その優しかった姉が、自分の夫の側室となるのです。姉妹として、共に故郷を離れ、異国の地で再会できた喜びは、確かにありました。しかし、それと同時に、複雑な感情が布木布泰の心を占めていました。
ある日、布木布泰は、ハルジョル(海蘭珠)の部屋を訪れました。
「お姉様。ようこそ、盛京へ。遠路、大変でございましたでしょう?」
布木布泰は、努めて笑顔で迎えました。ハルジョル(海蘭珠)もまた、優しく微笑み返しました。
「布木布泰、会いたかったわ。まさか、このような形で再会するとは、夢にも思わなかったけれど。」
二人は、しばらく故郷の思い出話に花を咲かせました。しかし、やがて話は、現実へと戻ります。
「お姉様は、ホンタイジ様の寵愛を大いに受けていらっしゃるとか。お喜び申し上げます。」
布木布泰は、精一杯の祝福の言葉を口にしました。しかし、ハルジョル(海蘭珠)の顔には、どこか寂しげな影が差しました。
「ええ……。ホンタイジ様は、私にとても優しくしてくださる。でも、貴女こそ、長年、ホンタイジ様を支え、二人の愛おしい姫を授けられた。貴女の功績は、誰よりも大きいと存じております。」
ハルジョル(海蘭珠)は、布木布泰の手をそっと取りました。姉の温かい手の感触に、布木布泰は、複雑な心境を覚えました。
実際に、ホンタイジはハルジョル(海蘭珠)をとても深く(ふかく)寵愛しました。彼女が宮廷に来て以来、ホンタイジはハルジョル(海蘭珠)の元へ足しげく通い、その寵愛ぶりは、宮廷中の知るところとなりました。それは、政略結婚が主であった後金の婚姻関係の中でも、際立ったものでした。
布木布泰は、そんな姉と夫の姿を、静かに見守りました。彼女は、生まれ持った聡明さで、この状況が清の未来にとって、決して悪いことではないと理解していました。ハルジョル(海蘭珠)がホンタイジの寵愛を受けることは、ホルチン部との関係をさらに強固にし、モンゴル諸部族の帰順を促す上で、大きな助けとなるからです。
布木布泰は、自らの感情を抑え、後金とホルチン部の関係を築き上げるため、これからも尽力しようと心に誓いました。宮廷の奥で、新たな時代の波が静かに寄せ始めていたのです。
〇
北方の風が荒々しく吹き荒れる1634年(後金・天崇8年)、広大なモンゴルの草原は、新たな覇者を決めようとする激しい戦いの場となっていました。後金のハーン、ホンタイジの軍と、チャハル部最後のハーンであるリンダン・ハーンの軍が、それぞれの誇りと未来を賭けて激突しようとしていたのです。
________________________________
モンゴルの地に響く鬨の声
ホンタイジ軍は、規律正しく配置され、その数は膨大でした。一方、リンダン・ハーン軍もまた、モンゴル高原に生きる遊牧民の誇りを胸に、勇敢に立ち向かおうとしていました。
「皆の者、聞け!」
ホンタイジの声が、広大な平原に響き渡りました。
「今日、我らは大元ウルス(元)の支配権を取り戻すため、ここに集結した! リンダン・ハーンは、もはやモンゴルの民を導く器ではない。彼らは我らの前に屈するであろう!」
ホンタイジは馬上で剣を抜き放ち、その鋭い切先を西の空に向けました。兵士たちの間からは、地響きのような鬨の声が上がります。
一方、リンダン・ハーンもまた、兵士たちを鼓舞していました。
「我らはチンギス・ハーンの血を引く者たちだ! この草原こそ、我らの故郷! 蛮族どもに、この地を明け渡すわけにはいかぬ!」
彼の言葉は、モンゴルの戦士たちの胸に熱い炎を灯しました。彼らは弓を構え、馬を走らせる準備を整えていました。
________________________________
両軍の激突と戦いの様相
戦いの火蓋は、ホンタイジ軍の一斉攻撃によって切られました。まず、弓兵が矢の雨を降らせ、リンダン・ハーン軍の陣形を乱そうとします。モンゴル兵も負けじと、流鏑馬の技術を駆使し、馬上から正確な矢を放ち応戦しました。
「突撃せよ! 敵を蹴散らせ!」
ホンタイジの号令とともに、後金の騎兵隊が砂煙を上げながら突進しました。彼らは重厚な鎧を身につけ、長槍を構え、まるで嵐のようにリンダン・ハーン軍へと迫ります。リンダン・ハーン軍も、モンゴル騎兵の機動力を活かし、巧みに敵の攻撃をかわしながら、側面から矢を浴びせかけました。
戦場は混沌と化しました。剣と剣がぶつかり合う音、矢が風を切る音、そして兵士たちの叫び声が入り乱れ、草原は血と砂で染まっていきます。ホンタイジは自らも前線に立ち、兵士たちを鼓舞し続けました。彼の指揮は的確で、軍は一糸乱れぬ動きでリンダン・ハーン軍を追い詰めていきました。
リンダン・ハーンは、自らも馬を駆り、敵陣深く切り込みました。彼の武勇は並々ならぬもので、幾人もの後金兵を打ち倒しました。しかし、多勢に無勢、徐々に戦況はホンタイジ軍に傾いていきました。リンダン・ハーンの兵士たちは、次々と倒れていきます。
________________________________
最後の抵抗と玉璽の獲得
「ハーン、これ以上は持ちません! 撤退を!」
側近が叫びましたが、リンダン・ハーンは首を縦に振りませんでした。彼は最後まで戦うことを選び、最後の抵抗を試みます。しかし、ホンタイジ軍の猛攻は止まらず、ついにリンダン・ハーン軍は壊滅的な打撃を受けました。
リンダン・ハーンは戦場から逃れようとしましたが、ホンタイジ軍に追い詰められ、敗走を余儀なくされました。彼は力尽き、ついにその命を落とすことになります。
戦いの後、ホンタイジ軍はリンダン・ハーンの根拠地を制圧し、そこで元(大元ウルス)の玉璽を発見します。それは、かつてモンゴル帝国が中国全土を支配していた証であり、その獲得はホンタイジにとって計り知れない価値がありました。
ホンタイジは玉璽を手に取り、静かに言いました。
「これで、モンゴルの支配権は我らのものとなった。これは、大清帝国(清)の礎となるであろう。」
この勝利により、ホンタイジはモンゴルの支配権を継承する足がかりを築き、後の清朝の中国支配へと続く道を大きく開きました。この戦いは、モンゴル高原における覇権の移行を決定づける、歴史的な転換点となったのです。
〇
煌く陽光が宮殿の屋根瓦を照らし、盛京(瀋陽)の都は、新たな時代への期待に満ちていました。1635年(後金・天聡9年)、ハーンであるホンタイジは、長年の悲願であった民族の統一を進めようとしていました。
________________________________
女真族の新たな名「満洲」
ホンタイジは、広間に集まった重臣たちを前に、力強い声で語りかけました。
「我ら女真族は、これまで様々な部族に分かれ、それぞれが異なる名を称えてきた。しかし、もはやそのような時代ではない。我らは一つとなり、強大な力を得るのだ。」
彼の言葉に、皆が真剣な面持ちで耳を傾けていました。長年にわたる戦乱を経て、ホンタイジの指導力の下、後金は着実に勢力を拡大していました。
「これより、我ら女真族は、満洲という一つの名の下に統一する!」
その宣言に、広間にはどよめきが起こりました。それは、単なる名称の変更ではありません。満洲という新しい名は、彼らの民族意識を高め、より強固な国家を築くための第一歩となるでしょう。
ホンタイジは続けます。
「この名の下に、我らはさらなる高みを目指すのだ!」
________________________________
国号「清」の誕生と皇帝号の称揚
翌年の1636年(清・崇徳元年)、歴史的な転換点が訪れます。ホンタイジは、ハーンの称号を改め、皇帝の位に就くことを決意しました。そして、国号を「後金」から「清」へと改めたのです。
宮殿の広間は、厳かな空気に包まれていました。ホンタイジが皇帝の衣を身につけ、玉座に座る姿は、見る者すべてを圧倒しました。
側室である布木布泰も、その場に立ち会っていました。彼女の胸には、喜びと、そして幾ばくかの不安が入り混じっていました。
「これで、父上の悲願が叶うのですね…」
布木布泰は、隣に立つ伯母であり、ホンタイジの正室である孝端文皇后(ジェルジェル)にそっと語りかけました。
ジェルジェルは、静かに頷きました。
「ええ、まさに。ハーンは、満洲の民を、より高き場所へと導かれるでしょう。」
________________________________
妃嬪の序列と「荘妃」の冊封
新たな国号と皇帝号の制定に伴い、後宮の制度も改められました。ホンタイジの妃嬪たちの序列が定められ、それぞれに新たな称号が与えられることになったのです。
布木布泰は、この時「荘妃」に冊封されました。彼女よりも上位の妃もいましたが、ホンタイジからの寵愛は厚く、その存在は後宮において決して小さなものではありませんでした。
ある日、布木布泰は、姉であるハルジョルと庭を散策していました。ハルジョルは前年にホンタイジの側室となったばかりで、ホンタイジからの寵愛を一身に受けていました。
「姉上は、本当に幸せそうですね。」
布木布泰が微笑みながら言いました。
ハルジョルは、頬を染めながら答えます。
「ええ、この身に余る光栄です。でも、ブムブタイも『荘妃』に冊封されたのでしょう? おめでとうございます。」
「ありがとうございます、姉上。しかし、姉上の寵愛には及びませんわ。」
布木布泰は少し寂しげな表情を見せました。ハルジョルのように深く愛されることに、密かな憧れを抱いていたのです。
ハルジョルは、そんな妹の心情を察し、優しくその手を握りました。
「心配いりませんよ、ブムブタイ。私たちは姉妹なのですから。それに、ハーンはあなたのことも深く信頼されています。」




