草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):②
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遥か昔、1624年のことでした。広大なモンゴルの草原には、ホルチン部という遊牧の民が暮らしていました。その首領であるジャイサンは、誇り高き、そして優しさを持つ人物でした。
ある日、彼の遊牧地に、大勢の兵を率いた後金の汗、ヌルハチという方が訪れました。ヌルハチは、後に清という大きな国を作る、とても偉い人でした。ジャイサンは、そのヌルハチをもてなすため、盛大な宴を開きました。
草原には、陽の光がさんさんと降り注ぎ、風が草を揺らす音が心地よく響いていました。宴は和やかな雰囲気で進み、肉が焼ける香りがあたりに漂いました。
ヌルハチは、その宴の席で、一人の少女に目を奪われました。彼女は、ジャイサンの次女、布木布泰でした。当時、まだ幼い彼女は、草原の風を吸い込み、太陽を浴びて育った美しさと、年に似合わぬ利発さを兼備えていました。彼女は、目を輝かせながら、大人たちの会話に耳を傾けていました。
ヌルハチは、そんな布木布泰の姿を見て、静かに微笑みました。
やがて、宴が終わりを告げる頃、ヌルハチはジャイサンに語りかけました。
「ジャイサン殿。今日は誠に、もてなし感謝いたします。」
ジャイサンは深々と頭を下げました。
「いえ、とんでもございません。ヌルハチ様がお越しくださり、光栄の至りでございます。」
ヌルハチは、ゆっくりと布木布泰の方へ視線を移しました。
「そなたの次女、布木布泰殿は、美しいばかりでなく、利発な光を宿しておる。わしの息子、ホンタイジの側室として、迎え入れることはできぬであろうか。」
ジャイサンは、ヌルハチの言葉に一瞬驚きましたが、すぐに顔を上げて答えました。
「ヌルハチ様のような偉い方に、娘を認めていただけるとは、親としてこれ以上の幸せはございません。娘がもし、ホンタイジ様のお役に立てるのであれば、喜んでお嫁に出させていただきます。」
その横で、布木布泰は、父とヌルハチの会話を、少し戸惑いながら聞いていました。まだ幼い彼女にとって、それは遠い国の、大きな話に聞こえたことでしょう。しかし、この瞬間が、彼女の、そして後に続く清という国の運命を大きく変えることになるのです。
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1625年3月、後金の都が、赫図アラから盛京(瀋陽)(しんよう)へと移されることになりました。汗であるヌルハチは、その理由を「盛京の地には、王の力を高める龍脈があるからだ」と説明したと伝えられています。
しかし、この大きな決定には、ヌルハチの第八子であるホンタイジ(後の太宗)をはじめ、一部の王子や重臣たちが、心の中で賛成していませんでした。彼らはそれぞれの思惑を胸に秘めていたのです。
盛京は、赫図アラに比べ、より広々としており、交通の便も良い場所でした。新しい都へと荷物が運ばれ、人々が慌ただしく動き回っていました。
ヌルハチは、新しい都の様子を満足げに眺めていました。その隣には、第八子のホンタイジが立っていました。ホンタイジは、父の決定に反対する一人でした。彼の顔には、わずかながらも不満の色が浮かんでいました。
ヌルハチが静かにホンタイジに語りかけました。
「ホンタイジよ。そなたは、この遷都に納得いかぬようだな。」
ホンタイジは、一瞬びくっとしましたが、すぐに姿勢を正し、口を開きました。
「父上の深いお考えを、私のような者が理解できるはずもございません。しかし、赫図アラは、我らが祖先から築き上げてきた都。そこを離れることに、少々の寂しさを覚える次第でございます。」
ヌルハチは、その言葉に小さく頷きました。
「わしにも、その気持ちは分かる。しかし、大いなる志を抱く者は、時に、これまでの慣わしを捨て、新しい道を選ばねばならぬ時がある。この盛京こそ、後金がさらに大きな力を持つための地なのだ。」
ホンタイジは、父の力強い言葉に、何も言い返すことはできませんでした。彼は、内心では不安や不満を抱えていましたが、父の決定に従う他ありませんでした。
盛京は、これから後金の中心となり、やがて「清」という大きな帝国の礎となる場所です。この地で、ヌルハチの夢はさらに広がり、彼の息子たちや、後に嫁いでくる草原の姫、布木布泰の運命も、新しい都と共に動き出すのでした。
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1625年(後金・天命10年)、数えで13歳になったばかりの布木布泰は、後金の四大ベイレの一人であるホンタイジ(後の太宗)の側室として嫁ぐことになりました。草原の風を肌で感じて育った彼女にとって、王宮での生活は、まるで別の世界のように思えました。
新しい都、盛京の王宮は、ホルチン部のゲルとは比べ物にならないほど、壮麗で広大でした。布木布泰は、案内されるままに歩きながら、壁に描かれた鮮やかな絵や、天井の高さに目を奪われていました。
「こちらでございます、布木布泰様。」
侍女の声に、彼女ははっと顔を上げました。そこには、温かい笑みをたたえた一人の女性が立っていました。彼女の顔を見た瞬間、布木布泰は思わず声を上げました。
「伯母様!」
そこにいたのは、ホンタイジの正室である孝端文皇后ジェルジェルでした。ジェルジェルは布木布泰の伯母にあたり、幼い頃から可愛がってくれた、優しい親族でした。
ジェルジェルは、布木布泰の手を取り、優しく微笑みました。
「よくいらっしゃいました、ブムブタイ。長旅、お疲れでしょうに。」
布木布泰は、不安でいっぱいの胸に、温かい光が灯るのを感じました。
「伯母様がおいでになるとは思いませんでした。心細うございましたが、お顔を拝見できて、安堵いたしました。」
ジェルジェルは、布木布泰の肩をそっと抱き寄せました。
「心配いりませんよ。これからは、ここがあなたの家です。慣れないことも多々(たた)あるでしょうが、私がついていますから。」
布木布泰は、ジェルジェルの優しさに、涙がこぼれそうになりました。 その夜、ヌルハチ(太祖)が主催する宴が開かれました。後金の王宮は、明るい光と賑やかな笑い声に包まれていました。布木布泰は、ホンタイジの隣に座り、まだ見慣れない人々(ひとびと)の顔をそっと見回していました。
ホンタイジが、布木布泰にそっと語りかけました。
「ブムブタイ、何か困ったことはないか? 遠慮なく申しつけるのだぞ。」
布木布泰は、顔を赤らめながら答えました。
「はい、ホンタイジ様。おかげさまで、伯母様が優しくしてくださるので、心強うございます。」
ホンタイジは、その言葉に満足げに頷きました。
「それは何よりだ。ジェルジェルは、昔から面倒見の良い者だからな。今後も、分からぬことがあれば、何でもジェルジェルに聞くといい。」
宴は夜遅くまで続きました。布木布泰は、慣れない環境の中で、疲れを感じていました。しかし、伯母であるジェルジェルの存在が、彼女の心を支えていました。
この新しい場所で、彼女の人生はこれから始まるのです。故郷の草原を離れ、異国の地で生きていくことへの不安と、新しい生活への期待が、彼女の胸の中で交錯していました。ヌルハチが存命中である後金王宮での生活は、彼女に何をもたらすのでしょうか。布木布泰は、静かに夜空を見上げ、これから歩む道に思いを馳せるのでした。




