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草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑲

1674年(康熙(こうき)13年)、(しん)の都、北京(ペキン)は、不穏な空気に包まれていました。前年から始まった三藩(さんぱん)の乱は、鎮まるどころか勢いを増し、清朝(しんちょう)の支配を大きく揺るがしていたのです。中でも、雲南(うんなん)呉三桂(ごさんけい)は、「(しゅう)」という新たな国号を名乗り、皇帝を(しょう)しました。


紫禁城(しきんじょう)の奥深く、康熙帝(こうきてい)玉座(ぎょくざ)に座し、臣下(しんか)たちの報告に耳を(かたむ)けていました。まだ若い(みかど)の顔には、この未曽有(みぞう)の危機に対する決意が宿(やど)っています。


呉三桂(ごさんけい)め、ますます増長(ぞうちょう)しておるな」


康熙帝(こうきてい)は静かに言いました。その声には、若さゆえの荒々しさではなく、深い思慮(しりょ)が感じられます。


陛下(へいか)のおっしゃる通りにございます。福建(ふっけん)耿精忠(こうせいちゅう)広東(カントン)尚之信(しょうししん)もまた、各地で反乱を激化(げきか)させております」


側近(そっきん)の一人、李光地(りこうち)が報告しました。


康熙帝(こうきてい)は深く息を()き、顔を上げました。


「この乱、必ずや(しず)めてみせる。孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)の教えにもあるように、果断(かだん)な決断こそが、この難局を乗り越える(かぎ)となるだろう」


(みかど)の脳裏には、いつも祖母(おばあさま) である孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)の言葉がありました。


(みかど)たるもの、いかなる時も冷静に、そして(おのれ)の信念に従いなさい。(おそ)れることはありません。あなたは(しん)の未来を(にな)う者なのですから」


その日の夕刻(ゆうこく)康熙帝(こうきてい)孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)の元を訪れました。


「おばあさま、三藩(さんぱん)の乱が激化(げきか)しております。この事態(じたい)をどう乗り越えるべきか、お知恵(ちえ)をお貸しください」


布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)である(みかど)の真剣な眼差(まなざ)しを受け止め、静かに微笑(ほほえ)みました。


玄燁(げんよう)よ(康熙帝(こうきてい)の本名)、そなたはもう、一人前の皇帝です。これまで、わたくしが教えてきたことを思い出しなさい。(たみ)のため、国のため、何が最善であるかを考え、迷わず進めばよいのです」


「しかし、未だ経験の浅い私に、これほどの大乱を鎮圧(ちんあつ)する力があるのか、不安でございます」


康熙帝(こうきてい)は正直な胸の内を明かしました。


「何を言うのですか。そなたは、天然痘(てんねんとう)を乗り越え、鰲拝(オボイ)専横(せんおう)を自らの手で排除(はいじょ)したではありませんか。その勇気と知恵があれば、必ずやこの乱も(しず)めることができるでしょう」


布木布泰(ブムブタイ)の言葉は、康熙帝(こうきてい)の心に温かい光を(とも)しました。


「わたくしは、そなたを信じております。漢人(かんじん)の将軍を重用(ちょうよう)し、兵力(へいりょく)南方(なんぽう)へ送る。その決断も、間違(まちが)ってはおりません。重要なのは、一度決めたことを最後までやり抜くことです」


康熙帝(こうきてい)祖母(おばあさま) の言葉に深く(うなず)きました。


「ありがとうございます、おばあさま。おばあさまのお言葉で、迷いが()れました。必ずや、この三藩(さんぱん)の乱を平定(へいてい)し、(しん)の天下を安泰(あんたい)にしてみせます」


その頃、宮廷(きゅうてい)では、康熙帝(こうきてい)第三皇子(こうし)となる胤礽(いんじょう)が生まれました。彼の生母(せいぼ)皇后(こうごう)孝誠仁皇后(こうせいじんこうごう))であったため、胤礽(いんじょう)は幼くして正式に皇太子(こうたいし)冊立(さくりつ)されることになります。清朝(しんちょう)の未来を担う新たな命の誕生は、乱の最中(さなか)にあって、かすかな希望の光となりました。


康熙帝(こうきてい)は、若き(みかど)として、孝荘文皇后ブムブタイの教えを胸に、果断(かだん)な行動を開始しました。漢人(かんじん)の将軍を積極的に登用(とうよう)し、精鋭(せいえい)(へい)を次々と南方(なんぽう)派遣(はけん)しました。三藩(さんぱん)の乱という大きな試練(しれん)は、康熙帝(こうきてい)を、そして清朝(しんちょう)を、さらなる高みへと導くこととなるのです。



1681年(康熙(こうき)20年)、(しん)の都、北京(ペキン)は、歓喜(かんき)に包まれていました。約8年間にもわたる三藩(さんぱん)の乱が、ついに完全に鎮圧(ちんあつ)されたのです。


紫禁城(しきんじょう)の大広間では、康熙帝(こうきてい)臣下(しんか)たちに囲まれ、その顔には達成感(たっせいかん)自信(じしん)が満ち(あふ)れていました。


「この日を迎えることができたのも、(みな)尽力(じんりょく)あってこそ。そして何よりも、祖母(おばあさま) の支えがあってのことと、深く感謝しております」


康熙帝(こうきてい)はそう述べると、居並(いなら)臣下(しんか)たちの視線(しせん)が、玉座(ぎょくざ)(となり)に座る孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)に集まりました。布木布泰(ブムブタイ)は静かに微笑(ほほえ)み、(まご)である(みかど)の成長を(ほこ)らしげに見つめていました。


乱の終結(しゅうけつ)を決定づけたのは、清軍(しんぐん)呉三桂(ごさんけい)の息子、呉世璠(ごせいはん)拠点(きょてん)である昆明(こんめい)陥落(かんらく)させたことでした。呉世璠(ごせいはん)自害(じがい)し、ここに8年にわたる大乱(たいらん)は完全に(まく)を閉じました。清朝(しんちょう)中国全土(ぜんご)における支配は、()るぎないものとなったのです。


その日の午後、康熙帝(こうきてい)孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)私室(ししつ)を訪れました。


「おばあさま、ついに三藩(さんぱん)の乱が平定(へいてい)されました。これも、ひとえにおばあさまの教えと、(かげ)ながらの支えがあったからこそです」


康熙帝(こうきてい)は深々と頭を下げました。


布木布泰(ブムブタイ)は、(やさ)しい眼差(まなざ)しで(まご)を見上げました。


玄燁(げんよう)よ、よくぞ成し遂げましたね。そなたは、この大乱(たいらん)を乗り越えることで、その政治(せいじ)手腕(しゅわん)統治能力(とうちのうりょく)国内外(こくないがい)に示すことができました。わたくしは、そなたを本当に(ほこ)りに思います」


「しかし、乱が始まった当初は、正直なところ、どうなることかと不安でたまりませんでした。おばあさまの『果断(かだん)な決断こそが(かぎ)となる』というお言葉に、どれほど勇気づけられたことか」


康熙帝(こうきてい)は、あの激動(げきどう)の数年間を振り(ふりかえ)るように語りました。


「わたくしは、ただそなたが本来持っている力を信じていただけです。そなたは幼い頃から、聡明(そうめい)で、何よりも(たみ)を思う心がありましたから」


布木布泰(ブムブタイ)は、(とお)()をしながら言いました。(おさな)玄燁(げんよう)を自らの手で育て、(きび)しくも愛情(あいじょう)深く教育(きょういく)してきた日々(ひび)が、彼女の脳裏(のうり)(よみがえ)ります。天然痘(てんねんとう)に苦しんだ幼少期、専横(せんおう)(きわ)めた鰲拝(オボイ)との対決、そして今回の三藩(さんぱん)の乱。数々の困難(こんなん)を乗り越え、立派な皇帝へと成長(せいちょう)した(まご)の姿に、彼女の(むね)(まん)たされていました。


「これからが、(しん)の真の隆盛(りゅうせい)の始まりとなるでしょう。これからは、(そと)(いくさ)だけでなく、内政(ないせい)の充実に力を注ぎなさい。(たみ)の暮らしを(ゆた)かにし、文化(ぶんか)(さか)えさせることが、真の天下泰平(てんかたいへい)(つな)がるのですから」


布木布泰(ブムブタイ)の言葉は、康熙帝(こうきてい)の心に深く(ひび)きました。三藩(さんぱん)の乱の平定(へいてい)は、康熙帝(こうきてい)の長い治世(ちせい)(いしずえ)となり、清朝(しんちょう)康熙帝(こうきてい)雍正帝(ようせいてい)乾隆帝(けんりゅうてい)と続く「康雍乾盛世(こうようけんせいせい)」と呼ばれる最盛期(さいせいき)へと向かっていくことになります。そして、その陰には、常に(まご)を信じ、支え続けた祖母(おばあさま) の存在があったのです。



(シン)康熙帝(こうきてい)御代(みよ)、康熙20年(1681年)のことでございます。清朝(しんちょう)を揺るがした三藩(さんぱん)の乱は、ついにその終わりを告げようとしておりました。この間も、孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)こと布木布泰(ブムブタイ)様は、康熙帝(こうきてい)様を深く信頼され、その政務(せいむ)を陰で支え続けていらっしゃいました。


長きにわたる戦いの幕開けは、今から(さかのぼ)ること8年前。康熙12年(1673年)のことでした。清の功臣(こうしん)であった呉三桂(ごさんけい)は、清朝(しんちょう)政策(せいさく)に不満を抱き、反乱を起こしたのでございます。彼に続いて、尚可喜(しょうかき)息子(むすこ)である尚之信(しょうししん)や、耿継茂(こうけいも)息子(むすこ)である耿精忠(こうせいちゅう)も反乱に加わり、その勢いは清朝(しんちょう)を大きく揺るがしました。


康熙帝(こうきてい)様は、まだ(わか)いながらも果断(かだん)な決断を下し、この乱の鎮圧(ちんあつ)に全力を注がれました。


「この(いくさ)、必ずや勝利を収めてみせる。清の未来は、(ちん)双肩(そうけん)にかかっているのだから!」


康熙帝(こうきてい)様の力強いお言葉に、周囲の者たちは奮い立ちました。


康熙17年(1678年)、乱の首謀者(しゅぼうしゃ)であった呉三桂(ごさんけい)は、(やまい)に倒れ、この世を去りました。彼の死は、反乱軍の勢いを大きく衰えさせます。呉三桂(ごさんけい)息子(むすこ)である呉世璠(ごせいはん)が後を継ぎましたが、もはや劣勢(れっせい)(くつがえ)すことはできませんでした。


そして、康熙20年(1681年)。清軍はついに呉世璠(ごせいはん)拠点(きょてん)とする昆明(こんめい)包囲(ほうい)し、総攻撃(そうこうげき)を開始いたしました。激しい攻防(こうぼう)の末、城は陥落(かんらく)寸前(すんぜん)にまで追い詰められます。


昆明城内(こんめいじょうない)は、すでに清軍の猛攻(もうこう)(さら)され、火の手が上がり、煙が立ち込めていました。呉世璠(ごせいはん)は、もはやこれまでと悟り、自身の最期(さいご)を覚悟します。


(ちち)上、無念(むねん)です……」


彼は静かにそう(つぶや)くと、自ら命を絶ちました。彼の死をもって、約8年間にわたる三藩(さんぱん)の乱は完全に鎮圧(ちんあつ)されたのでございます。


この知らせが北京(ペキン)にもたらされると、宮廷(きゅうてい)歓喜(かんき)に包まれました。康熙帝(こうきてい)様は、長きにわたる戦乱(せんらん)を乗り越えられたことに、安堵(あんど)表情(ひょうじょう)を浮かべられます。


孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)様は、その(かたわ)らで、静かに(なみだ)を流されておりました。


陛下(へいか)……よくぞ、この困難(こんなん)を乗り越えられましたね」


孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)様のお言葉に、康熙帝(こうきてい)様は深く(うなず)かれました。


祖母(そぼ)(うえ)の支えがあったればこそです。祖母(そぼ)上が(つね)におそばで励ましてくださったからこそ、(ちん)は諦めずに戦い抜くことができました」


康熙帝(こうきてい)様は、孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)様の手をそっと取られます。その手は、幾多(いくた)苦難(くなん)を乗り越え、(シン)天下(てんか)統一(とういつ)を成し遂げた皇帝の手でした。


三藩(さんぱん)の乱の完全な平定(へいてい)は、清朝(しんちょう)中国全土(ちゅうごくぜんど)における支配を確固(かっこ)たるものとしました。康熙帝(こうきてい)様がこの乱を乗り越えられたことで、その政治(せいじ)的手腕(しゅわん)統治(とうち)能力(のうりょく)は国内外に示され、清朝(しんちょう)黄金時代(おうごんじだい)の幕開けとなったのでございます。

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