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草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑱

1670年(康熙(こうき)9年)、親政(しんせい)開始(かいし)された康熙帝(こうきてい)は、(くに)(うち)をしっかりと(おさ)めることに(ちから)(そそ)がれていました。(さき)(しる)した学術(がくじゅつ)文化(ぶんか)復興(ふっこう)もその一環(いっかん)ですが、それだけではありませんでした。(とく)重要(じゅうよう)だったのは、長年(ながねん)中国(ちゅうごく)(なや)ませてきた黄河(こうが)淮河(わいが)氾濫(はんらん)対策(たいさく)です。


(はる)長雨(ながあめ)(つづ)くある()のこと、康熙帝(こうきてい)治水(ちすい)(かん)する報告書(ほうこくしょ)()(とお)していました。そこには、毎年(まいとし)のように発生(はっせい)する洪水(こうずい)によって、どれだけの田畑(たはた)(なが)され、どれだけの(たみ)(いえ)(うしな)っているかが詳細(しょうさい)(しる)されていました。


「また、これほどの被害(ひがい)が…」


康熙帝(こうきてい)は、(くる)しげに(つぶや)きました。黄河(こうが)は「中国(ちゅうごく)(うれ)い」と()ばれるほど、(いにしえ)から(たみ)(くる)しめてきた大河(たいが)でした。


その()午後(ごご)康熙帝(こうきてい)孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)寧寿宮(ねいじゅぐう)(おとず)れました。布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)顔色(かおいろ)(すぐ)れないことに気付(きづ)きました。


陛下(へいか)、何か(なにか)ご心配(しんぱい)(ごと)でもございますか?」


布木布泰(ブムブタイ)(やさ)しく(たず)ねると、康熙帝(こうきてい)(ふか)(いき)()()しました。


祖母上(おばあさま)黄河(こうが)淮河(わいが)氾濫(はんらん)(あたま)(なや)ませております。毎年(まいとし)のように()こる洪水(こうずい)で、(たみ)疲弊(ひへい)しきっております。歴代(れきだい)王朝(おうちょう)治水(ちすい)には苦労(くろう)してきましたが、根本的(こんぽんてき)解決(かいけつ)には(いた)っておりません。このままでは、(くに)安定(あんてい)もおぼつかないと(かん)じております」


康熙帝(こうきてい)言葉(ことば)には、(わか)皇帝(こうてい)としての責任感(せきにんかん)と、(たみ)(おも)(こころ)(あふ)れていました。布木布泰(ブムブタイ)は、(しず)かに康熙帝(こうきてい)言葉(ことば)(みみ)(かたむ)けていました。彼女(かのじょ)は、遊牧民(ゆうぼくみん)出身(しゅっしん)であるものの、長年(ながねん)中国(ちゅうごく)()()きてきた経験(けいけん)から、治水(ちすい)重要性(じゅうようせい)(はだ)(かん)じていました。


「なるほど、治水(ちすい)ですか…。それは、まことに重要(じゅうよう)課題(かだい)です」


布木布泰(ブムブタイ)は、(とお)()をして(かた)(はじ)めました。


「わたくしがこの紫禁城(しきんじょう)(とつ)いで以来(いらい)何度(なんど)となく黄河(こうが)氾濫(はんらん)(ほう)()いてまいりました。(たみ)(くる)しみは、わたくしの(こころ)にも(ひび)いておりましたよ。(おも)えば、わたくしの故郷(こきょう)である草原(そうげん)には、(おお)きな(かわ)(すく)なかったですが、雨季(うき)になれば、小川(おがわ)でもすぐに氾濫(はんらん)して、家畜(かちく)(なが)されたものです。(みず)(めぐ)みでもありますが、(とき)には(おそ)ろしい猛威(もうい)(ふる)いますからね」


康熙帝(こうきてい)は、祖母上(おばあさま)言葉(ことば)真剣(しんけん)(みみ)(かたむ)けていました。


「まさしく、その(とお)りでございます。(みず)(おさ)めることは、(くに)(おさ)めることと同義(どうぎ)であると、(わたし)(かんが)えております」


布木布泰(ブムブタイ)は、(しず)かに(うなず)きました。


「かつて、あなた(さま)父君(ちちぎみ)である順治帝(じゅんちてい)も、この治水(ちすい)(むずか)しさに(あたま)(かか)えておりました。しかし、あなた(さま)(わか)くして親政(しんせい)(はじ)められ、鰲拝(オボイ)という難題(なんだい)()()えられました。その胆力(たんりょく)知恵(ちえ)があれば、(かなら)ずやこの治水(ちすい)()()げられるはずです」


布木布泰(ブムブタイ)言葉(ことば)は、康熙帝(こうきてい)にとって(おお)きな(はげ)みとなりました。


祖母上(おばあさま) のお言葉(ことば)は、(つね)(わたし)勇気(ゆうき)(あた)えてくださいます。治水(ちすい)事業(じぎょう)は、短期(たんき)成果(せいか)()るものではありませんが、子々孫々(ししそんそん)にわたる(しん)基盤(きばん)(きず)くためにも、()けては(とお)れない(みち)だと心得(こころえ)ております」


康熙帝(こうきてい)は、決意(けつい)()ちた眼差(まなざ)しで(かた)りました。


(わたし)は、優秀(ゆうしゅう)治水(ちすい)専門家(せんもんか)各地(かくち)から(あつ)め、(あら)たな治水(ちすい)計画(けいかく)()てるつもりです。黄河(こうが)淮河(わいが)流域(りゅういき)全体(ぜんたい)見渡(みわた)し、堤防(ていぼう)補強(ほきょう)だけでなく、水路(すいろ)整備(せいび)や、治水(ちすい)技術(ぎじゅつ)革新(かくしん)にも()()みます。(たみ)生活(せいかつ)水害(すいがい)から(まも)り、農業(のうぎょう)安定(あんてい)させることが、(わたし)責務(せきむ)です」


布木布泰(ブムブタイ)は、満足(まんぞく)そうに(うなず)きました。彼女(かのじょ)(おし)えと(ささ)えが、(わか)皇帝(こうてい)を、(たん)なる統治者(とうちしゃ)ではなく、(まこと)(たみ)(おも)賢明(けんめい)君主(くんしゅ)へと(そだ)てていることを確信(かくしん)していました。


この()対話(たいわ)をきっかけに、康熙帝(こうきてい)治水(ちすい)事業(じぎょう)本格的(ほんかくてき)()()むことになります。それは、清朝(しんちょう)安定(あんてい)発展(はってん)(ささ)える(おお)きな(はしら)となっていったのです。



1673年(康熙(こうき)12年)、(しん)(みやこ)北京(ペキン)衝撃的(しょうげきてき)(しら)せが(とど)きました。南方(なんぽう)絶大(ぜつだい)(ちから)()っていた三藩(さんぱん)(ひと)つ、呉三桂(ごさんけい)反乱(はんらん)を起こ(おこ)したというのです。


(わか)康熙帝(こうきてい)は、この(ほう)せに顔色(かおいろ)()え、すぐさま朝議(ちょうぎ)(ひら)きました。


呉三桂(ごさんけい)反乱(はんらん)だと! まさか、この(とき)()るとは…」


康熙帝(こうきてい)(こえ)は、普段(ふだん)()()きを(うしな)い、わずかに(ふる)えていました。呉三桂(ごさんけい)は、(しん)中国(ちゅうごく)君臨(くんりん)する(さい)(おお)きな功績(こうせき)()げた漢人(かんじん)(かんじん)の将軍(しょうぐん)で、雲南(うんなん)広大(こうだい)領地(りょうち)強力(きょうりょく)軍隊(ぐんたい)()っていました。(かれ)筆頭(ひっとう)とする三藩(さんぱん)存在(そんざい)は、(しん)にとって長年(ながねん)懸念(けねん)事項(じこう)でした。康熙帝(こうきてい)は、(しん)支配(しはい)盤石(ばんじゃく)なものとするため、(かれ)らの権力(けんりょく)()決断(けつだん)(くだ)したばかりだったのです。


しかし、その決断(けつだん)は、(おお)きな代償(だいしょう)(ともな)うことになりました。呉三桂(ごさんけい)(つづ)き、広東(カントン)尚可喜(しょうかき)引退(いんたい)(ねが)()たものの、その息子(むすこ)尚之信(しょうししん)(ちち)()わって反乱(はんらん)(くわ)わり、福建(ふっけん)耿継茂(こうけいも)(すで)病死(びょうし)していましたが、その息子(むすこ)耿精忠(こうせいちゅう)反乱(はんらん)加勢(かせい)しました。清朝(しんちょう)支配(しはい)は、根底(こんてい)から()さぶられることになったのです。


夕刻(ゆうこく)康熙帝(こうきてい)孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)寧寿宮(ねいじゅぐう)(おとず)れました。布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)(かお)()るなり、その心労(しんろう)(さっ)しました。


陛下(へいか)三藩(さんぱん)(らん)(ほう)せは、わたくしの(みみ)にも(はい)ってまいりました。さぞかし、お(こころ)(いた)めておられるでしょう」


布木布泰(ブムブタイ)(やさ)しく(かた)りかけると、康熙帝(こうきてい)(ふか)(いき)()()しました。


祖母上(おばあさま)(しん)は、かつてない危機(きき)(ひん)しております。南方(なんぽう)三藩(さんぱん)団結(だんけつ)し、(たみ)(なか)には、(しん)支配(しはい)疑問(ぎもん)(いだ)(もの)()(はじ)めております。(わたし)決断(けつだん)が、このような(おお)きな戦乱(せんらん)(まね)いてしまったのかと、(くや)やまれてなりません」


康熙帝(こうきてい)(こえ)には、自責(じせき)(ねん)(にじ)んでいました。布木布泰(ブムブタイ)は、(しず)かに康熙帝(こうきてい)(となり)(すわ)り、その()をそっと()りました。


「いいえ、陛下(へいか)。ご自身(じしん)()めてはなりません。三藩(さんぱん)存在(そんざい)は、(しん)にとっていつか()るべき問題(もんだい)でした。(おそ)かれ(はや)かれ、この決着(けっちゃく)をつける必要(ひつよう)があったのです。あなた(さま)は、(しん)未来(みらい)のために、(ただ)しい決断(けつだん)をされたのです」


布木布泰(ブムブタイ)言葉(ことば)は、まるで()てついた(こころ)(あたた)かい(ひかり)(とも)すようでした。康熙帝(こうきてい)は、祖母上(おばあさま)(ふか)愛情(あいじょう)理解(りかい)に、わずかな安堵(あんど)(おぼ)えました。


「しかし、祖母上(おばあさま)反乱軍(はんらんぐん)(いきお)いは(すさま)じく、鎮圧(ちんあつ)には(なが)時間(じかん)多大(ただい)犠牲(ぎせい)(ともな)うでしょう。(わたし)は、この重責(じゅうせき)(すべ)うできるのか…」


康熙帝(こうきてい)(かお)には、(わか)さゆえの不安(ふあん)色濃(いろこ)(あらわ)れていました。布木布泰(ブムブタイ)は、その(ひとみ)()()ぐに()つめ(かえ)しました。


陛下(へいか)。あなた(さま)は、(おさな)(ころ)から数多(あまた)困難(こんなん)()()えてこられました。先帝(せんてい)突然(とつぜん)崩御(ほうぎょ)(ほうぎょ)、そして摂政(せっしょう)鰲拝(オボイ)専横(せんおう)…。それらを、あなた(さま)(みずか)らの(ちから)()()え、親政(しんせい)開始(かいし)されたではありませんか」


布木布泰(ブムブタイ)言葉(ことば)には、(たし)かな自信(じしん)と、(まご)への()るぎない信頼(しんらい)()められていました。


「この(らん)は、(しん)(まこと)(つよ)さを(ため)(とき)です。困難(こんなん)(とき)こそ、皇帝(こうてい)たる(もの)真価(しんか)()われます。(たみ)は、皇帝(こうてい)決意(けつい)行動(こうどう)見守(みまも)っております。決して(けっして)(あきら)めてはなりません。知恵(ちえ)勇気(ゆうき)をもって、この危機(きき)()()かってください」


布木布泰(ブムブタイ)力強(ちからづよ)言葉(ことば)に、康熙帝(こうきてい)(こころ)()がともりました。


祖母上(おばあさま) のお言葉(ことば)(むね)(きざ)みます。(わたし)は、この(しん)(まも)り、(たみ)安寧(あんねい)確実(かくじつ)なものといたします。たとえどれほどの犠牲(ぎせい)(はら)うことになろうとも、この(らん)鎮圧(ちんあつ)し、清朝(しんちょう)支配(しはい)確立(かくりつ)してみせます!」


康熙帝(こうきてい)(ひとみ)には、(ふたた)決意(けつい)(ひかり)宿(やど)っていました。布木布泰(ブムブタイ)は、その成長(せいちょう)(たの)もしく見守(みまも)り、(こころ)(なか)(いの)りました。


「あなた(さま)なら、できます。わたくしは、(つね)にあなた(さま)味方(みかた)です」


三藩(さんぱん)(らん)は、その()数年(すうねん)にわたって清朝(しんちょう)(くる)しめることになりますが、この()布木布泰(ブムブタイ)との対話(たいわ)は、(わか)康熙帝(こうきてい)が、この(おお)きな試練(しれん)()()えるための、(おお)きな(ちから)となっていったのでした。



1673年(康熙(こうき)12年)、(しん)(みやこ)北京(ペキン)衝撃的(しょうげきてき)(しら)せが(とど)きました。南方(なんぽう)独立(どくりつ)した勢力(せいりょく)となっていた三藩(さんぱん)(ひと)つ、呉三桂(ごさんけい)反乱(はんらん)を起こ(おこ)したというのです。


(わか)康熙帝(こうきてい)は、この(ほう)せに顔色(かおいろ)()え、すぐさま朝議(ちょうぎ)(ひら)きました。


呉三桂(ごさんけい)反乱(はんらん)だと! まさか、この(とき)()るとは…」


康熙帝(こうきてい)(こえ)は、普段(ふだん)()()きを(うしな)い、わずかに(ふる)えていました。呉三桂(ごさんけい)は、(しん)中国(ちゅうごく)君臨(くんりん)する(さい)(おお)きな功績(こうせき)()げた漢人(かんじん)将軍(しょうぐん)で、雲南(うんなん)広大(こうだい)領地(りょうち)強力(きょうりょく)軍隊(ぐんたい)()っていました。(かれ)筆頭(ひっとう)とする三藩(さんぱん)存在(そんざい)は、(しん)にとって長年(ながねん)懸念(けねん)事項(じこう)でした。康熙帝(こうきてい)は、(しん)支配(しはい)盤石(ばんじゃく)なものとするため、(かれ)らの権力(けんりょく)()決断(けつだん)(くだ)したばかりだったのです。


しかし、その決断(けつだん)は、(おお)きな代償(だいしょう)(ともな)うことになりました。呉三桂(ごさんけい)(つづ)き、広東(カントン)尚可喜(しょうかき)(しょうかき)は引退(いんたい)(ねが)()たものの、その息子(むすこ)尚之信(しょうししん)(ちち)()わって反乱(はんらん)(くわ)わり、福建(ふっけん)耿継茂(こうけいも)(すで)病死(びょうし)していましたが、その息子(むすこ)耿精忠(こうせいちゅう)反乱(はんらん)加勢(かせい)しました。清朝(しんちょう)支配(しはい)は、根底(こんてい)から()さぶられることになったのです。


夕刻(ゆうこく)康熙帝(こうきてい)孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)寧寿宮(ねいじゅぐう)(おとず)れました。布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)(かお)()るなり、その心労(しんろう)(さっ)しました。


陛下(へいか)三藩(さんぱん)(らん)(ほう)せは、わたくしの(みみ)にも(はい)ってまいりました。さぞかし、お(こころ)(いた)めておられるでしょう」


布木布泰(ブムブタイ)(やさ)しく(かた)りかけると、康熙帝(こうきてい)(ふか)(いき)()()しました。


祖母上(おばあさま)(しん)は、かつてない危機(きき)(ひん)しております。南方(なんぽう)三藩(さんぱん)団結(だんけつ)し、(たみ)(なか)には、(しん)支配(しはい)疑問(ぎもん)(いだ)(もの)()(はじ)めております。(わたし)決断(けつだん)が、このような(おお)きな戦乱(せんらん)(まね)いてしまったのかと、(くや)やまれてなりません」


康熙帝(こうきてい)(こえ)には、自責(じせき)(ねん)(にじ)んでいました。布木布泰(ブムブタイ)は、(しず)かに康熙帝(こうきてい)(となり)(すわ)り、その()をそっと()りました。


「いいえ、陛下(へいか)。ご自身(じしん)()めてはなりません。三藩(さんぱん)存在(そんざい)は、(しん)にとっていつか()るべき問題(もんだい)でした。(おそ)かれ(はや)かれ、この決着(けっちゃく)をつける必要(ひつよう)があったのです。あなた(さま)は、(しん)未来(みらい)のために、(ただ)しい決断(けつだん)をされたのです」


布木布泰(ブムブタイ)言葉(ことば)は、まるで()てついた(こころ)(あたた)かい(ひかり)(とも)すようでした。康熙帝(こうきてい)は、祖母上(おばあさま)(ふか)愛情(あいじょう)理解(りかい)に、わずかな安堵(あんど)(おぼ)えました。


「しかし、祖母上(おばあさま)反乱軍(はんらんぐん)(いきお)いは(すさま)じく、鎮圧(ちんあつ)には(なが)時間(じかん)多大(ただい)犠牲(ぎせい)(ともな)うでしょう。(わたし)は、この重責(じゅうせき)(まっとう)うできるのか…」


康熙帝(こうきてい)(かお)には、(わか)さゆえの不安(ふあん)色濃(いろこ)(あらわ)れていました。布木布泰(ブムブタイ)は、その(ひとみ)()()ぐに()つめ(かえ)しました。


陛下(へいか)。あなた(さま)は、(おさな)(ころ)から数多(あまた)困難(こんなん)()()えてこられました。先帝(せんてい)(せんてい)の突然(とつぜん)崩御(ほうぎょ)(ほうぎょ)、そして摂政(せっしょう)鰲拝(オボイ)専横(せんおう)…。それらを、あなた(さま)(みずか)らの(ちから)()()え、親政(しんせい)(しんせい)を開始(かいし)されたではありませんか」


布木布泰(ブムブタイ)力強(ちからづよ)言葉(ことば)に、康熙帝(こうきてい)(こころ)()がともりました。


祖母上(おばあさま)のお言葉(ことば)(むね)(きざ)みます。(わたし)は、この(しん)(まも)り、(たみ)安寧(あんねい)(あんねい)を確実(かくじつ)なものといたします。たとえどれほどの犠牲(ぎせい)(はら)うことになろうとも、この(らん)鎮圧(ちんあつ)し、清朝(しんちょう)支配(しはい)確立(かくりつ)してみせます!」


康熙帝(こうきてい)(ひとみ)には、(ふたた)決意(けつい)(ひかり)宿(やど)っていました。


布木布泰(ブムブタイ)は、反乱(はんらん)(ほう)せを()いて以来(いらい)、その背景(はいけい)にあるものを見抜(みぬ)こうとしていました。やがて、彼女(かのじょ)脳裏(のうり)に、ある確信(かくしん)()かびました。


「あの呉三桂(ごさんけい)が、(いま)この(とき)反乱(はんらん)を起こ(おこ)したこと…。これは、かつて(かれ)呉三桂(ごさんけい)宿敵(しゅくてき)(しゅくてき)だった頃からの因縁…呉三桂(ごさんけい)は、ドルゴンに(やぶ)れた(あと)(なが)時間(じかん)をかけてドルゴンへの復讐(ふくしゅう)(くわだ)てたのだわ。でも、今はホンタイジ様も、ドルゴン様も、ホーゲ様も、ドド様もいない。強き将軍が居なくなった今…勝てるのかしら」


布木布泰(ブムブタイ)(しず)かに(つぶや)きました。そう、呉三桂(ごさんけい)(みん)滅亡(めつぼう)()(しん)味方(みかた)し、ドルゴン(ドルゴン)に(ひざ)(くっ)したのは、一時的(いちじてき)(さく)()ぎなかったのかもしれないと、彼女(かのじょ)洞察(どうさつ)したのです。呉三桂(ごさんけい)(こころ)奥底(おくそこ)には、(つね)にドルゴンへの屈辱(くつじょく)と、いつか(しん)支配(しはい)(くつがえ)すという野心(やしん)()められていたに(ちが)いない、と。ドルゴン()(いま)()(じゅく)したと(かんが)えたのかもしれません。


布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)である康熙帝(こうきてい)がこの難局(なんきょく)()()え、(しん)皇帝(こうてい)として君臨(くんりん)することを(しん)じていました。彼女(かのじょ)は、康熙帝(こうきてい)三藩(さんぱん)(らん)鎮圧(ちんあつ)することで、清朝(しんちょう)基盤(きばん)をさらに確固(かっこ)たるものにすると確信(かくしん)していたのです。彼女(かのじょ)は、その成長(せいちょう)(たの)もしく見守(みまも)り、(こころ)(なか)(いの)りました。


「あなた(さま)なら、できます。わたくしは、(つね)にあなた(さま)味方(みかた)です」


三藩(さんぱん)(らん)は、その()数年(すうねん)にわたって清朝(しんちょう)(くる)しめることになりますが、この()布木布泰(ブムブタイ)との対話(たいわ)は、(わか)康熙帝(こうきてい)が、この(おお)きな試練(しれん)()()えるための、(おお)きな(ちから)となっていったのでした。

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