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草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑰

1667年(康熙(こうき)6年)、(しん)宮廷(きゅうてい)では、(わか)康熙帝(こうきてい)親政(しんせい)開始(かいし)(のぞ)(こえ)(たか)まっていました。しかし、(かれ)の行く(ゆくて)(はば)(おお)きな存在(そんざい)がありました。筆頭輔政大臣(ひっとうほせいだいじん)であった鰲拝(オボイ)です。(かれ)(さき)()くなった索尼(ソニン)とは(こと)なり、権力(けんりょく)掌握(しょうあく)し、()のままに(ふる)おうとしていました。


その(とし)()れ、宮廷(きゅうてい)衝撃的(しょうげきてき)(ほう)せが()()みました。四大輔政大臣(しだいほせいだいじん)一人(ひとり)であった蘇克薩哈(スクサハ)が、鰲拝(オボイ)讒言(ざんげん)によって処刑(しょけい)されたのです。蘇克薩哈(スクサハ)は、鰲拝(オボイ)専横(せんおう)()(とな)(つづ)けてきた人物(じんぶつ)でした。(かれ)()は、鰲拝(オボイ)権力(けんりょく)一層(いっそう)強固(きょうこ)なものにし、宮廷内(きゅうていない)恐怖(きょうふ)不安(ふあん)(ひろ)げました。


孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)は、この事態(じたい)(ふか)憂慮(ゆうりょ)(いだ)きました。(あい)する(まご)である康熙帝(こうきてい)()(あん)じると同時(どうじ)に、(しん)未来(みらい)暗雲(あんうん)()()めていることを(さと)ったのです。


ある()のこと、布木布泰(ブムブタイ)は、静かに康熙帝(こうきてい)()()しました。玉座(ぎょくざ)のそばにある、()(ひかり)(やさ)しく()()部屋(へや)で、二人(ふたり)()かい()いました。康熙帝(こうきてい)は、祖母(そぼ)(かお)(きざ)まれた(うれ)いの(いろ)()づき、心配(しんぱい)そうな眼差(まなざ)しを()けました。


祖母上(おばあさま)、何か(なにか)ございましたか?」


康熙帝(こうきてい)の問い(とい)に、布木布泰(ブムブタイ)はゆっくりと(くち)(ひら)きました。


陛下(へいか)。あなたは、もうすぐ親政(しんせい)開始(かいし)するお(かた)です。しかし、(いま)宮廷(きゅうてい)は、鰲拝(オボイ)(ちから)があまりにも(つよ)すぎます」


康熙帝(こうきてい)は、ぎゅっと(くちびる)()()めました。(かれ)自身(じしん)も、鰲拝(オボイ)専横(せんおう)には(くる)しめられていました。(なに)かをしようとしても、鰲拝(オボイ)邪魔(じゃま)をしてくるのです。


(わたし)も、どうにかしたいのです。しかし、どうすればよいのか…」


康熙帝(こうきてい)言葉(ことば)に、布木布泰(ブムブタイ)(くび)()りました。


(わたし)直接(ちょくせつ)()(くだ)しても、うまくいきません」


康熙帝(こうきてい)は、(おどろ)いて祖母(そぼ)()つめました。聡明(そうめい)祖母(そぼ)ならば、きっと()(さく)(さず)けてくれると(しん)じていたからです。


「なぜです、祖母上(おばあさま)?」


布木布泰(ブムブタイ)は、(しず)かに(つづ)けました。


(わたし)は、後宮(こうきゅう)人間(にんげん)です。そして、(なに)よりも、あなたを(ささ)える存在(そんざい)でなければなりません。もし(わたし)直接(ちょくせつ)(うご)けば、かえって混乱(こんらん)(まね)き、鰲拝(オボイ)反撃(はんげき)機会(きかい)(あた)えることになります」


彼女(かのじょ)言葉(ことば)には、長年(ながねん)宮廷(きゅうてい)()きてきた(もの)だけが()つ、(おも)みがありました。


「これは、あなたが、あなたの(ちから)()()げなければならないことです」


布木布泰(ブムブタイ)視線(しせん)は、力強(ちからづよ)く、康熙帝(こうきてい)(こころ)(かた)りかけました。康熙帝(こうきてい)は、その言葉(ことば)に、(みずか)らの背筋(せすじ)()びるのを(かん)じました。


(わたし)(ちから)で…ですか?」


「そうです。あなたは、この(しん)皇帝(こうてい)です。皇帝(こうてい)としての威厳(いげん)と、これまで(まな)んできた知恵(ちえ)()くしなさい。あなたは、まだ(わか)いですが、(だれ)よりも(かしこ)く、そして(だれ)よりも(つよ)(こころ)()っています。(わたし)は、それを(しん)じています」


布木布泰(ブムブタイ)言葉(ことば)は、まるで魔法(まほう)のように、康熙帝(こうきてい)(こころ)勇気(ゆうき)(あた)えました。(かれ)は、これまで鰲拝(オボイ)巨大(きょだい)(かげ)(おび)え、(みずか)らの無力(むりょく)さに苛立(いらだ)っていましたが、祖母(そぼ)言葉(ことば)は、(かれ)(こころ)(ほのお)(とも)したのです。


「わかりました、祖母上(おばあさま)(わたし)は、(わたし)(ちから)で、鰲拝(オボイ)排除(はいじょ)してみせます」


康熙帝(こうきてい)(ひとみ)には、決意(けつい)(ひかり)宿(やど)っていました。その()から、(かれ)は、鰲拝(オボイ)対抗(たいこう)するための周到(しゅうとう)計画(けいかく)()(はじ)めました。それは、(かれ)祖母(そぼ)から(まな)んだ知恵(ちえ)と、(つちか)ってきた胆力(たんりょく)(ため)す、最初(さいしょ)(おお)きな試練(しれん)となるのでした。布木布泰(ブムブタイ)は、その様子(ようす)(あたた)かく見守(みまも)りながら、静かに康熙帝(こうきてい)成長(せいちょう)(いの)っていました。



1669年(康熙(こうき)8年)、(はる)(おとず)れとともに、紫禁城(しきんじょう)(なか)では緊張(きんちょう)(たか)まっていました。(わか)康熙帝(こうきてい)は、(さき)(とし)祖母(そぼ)である孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)から(さず)けられた言葉(ことば)(むね)に、()めたる決意(けつい)(かた)めていました。「あなたが、あなたの(ちから)()()げるのです」その言葉(ことば)が、(かれ)(こころ)(つよ)(ひび)いていました。


康熙帝(こうきてい)()の前に()ちはだかるのは、依然(いぜん)として絶大(ぜつだい)権力(けんりょく)(ふる)輔政大臣(ほせいだいじん)鰲拝(オボイ)です。鰲拝(オボイ)は、康熙帝(こうきてい)子供(こども)(あつか)いし、政務(せいむ)のすべてを(おのれ)()のままに(すす)めていました。康熙帝(こうきてい)は、親政(しんせい)開始(かいし)したいと(ねが)っていましたが、鰲拝(オボイ)存在(そんざい)がそれを(はば)んでいました。


ある()のこと、康熙帝(こうきてい)御花園(ぎょかえん)で、いつものように力士(りきし)訓練(くんれん)(なが)めていました。(かれ)は、少年(しょうねん)力士(りきし)たちを(あつ)め、(かれ)らが(ちから)(きそ)()様子(ようす)(たの)しそうに見ていました。鰲拝(オボイ)もまた、皇帝(こうてい)武芸(ぶげい)(この)むことを(よろこ)び、時折(ときおり)その()(かお)()していました。


陛下(へいか)は、本当(ほんとう)力士(りきし)たちがお()きですな」


鰲拝(オボイ)は、康熙帝(こうきてい)(となり)()ち、鷹揚(おうよう)(かた)りかけました。(かれ)は、まさかこの(わか)皇帝(こうてい)が、(みずか)らに(きば)()けるとは(ゆめ)にも(おも)っていませんでした。


康熙帝(こうきてい)は、にこやかに(こた)えました。


「はい。(かれ)らの(きた)()かれた(からだ)と、たゆまぬ努力(どりょく)()ると、(こころ)(ふる)()つのです」


その()も、いつものように少年(しょうねん)力士(りきし)たちの訓練(くんれん)(おこな)われていました。鰲拝(オボイ)は、皇帝(こうてい)のそばで、(かれ)らの(ちから)自慢(じまん)(きょう)じていました。その(すき)(ねら)い、康熙帝(こうきてい)(ひそ)かに準備(じゅんび)(すす)めていたのです。


「そこの少年(しょうねん)たち。鰲拝(オボイ)殿(どの)武勇(ぶゆう)並大抵(なみたいてい)のものではないと()く。ぜひ、その(つよ)さを間近(まぢか)()せていただきたい!」


康熙帝(こうきてい)突然(とつぜん)言葉(ことば)に、鰲拝(オボイ)得意満面(とくいまんめん)(えみ)()かべました。(かれ)(みずか)らの武力(ぶりょく)絶対的(ぜったいてき)自信(じしん)()っていました。


「はっはっは。陛下(へいか)のお(のぞ)みとあらば、この鰲拝(オボイ)が少々(しょうしょう)手合(てご)いをいたしましょう」


鰲拝(オボイ)少年(しょうねん)力士(りきし)たちの(ほう)()(なお)ったその(とき)康熙帝(こうきてい)(しず)かに合図(あいず)(おく)りました。突如(とつじょ)訓練(くんれん)をしていた少年(しょうねん)力士(りきし)たちが一斉(いっせい)鰲拝(オボイ)(おそ)いかかりました。(かれ)らは日頃(ひごろ)から康熙帝(こうきてい)可愛(かわい)がられ、(ひそ)かにこの計画(けいかく)加担(かたん)していました。少年(しょうねん)たちの素早(すばや)(うご)きに、巨漢(きょかん)鰲拝(オボイ)戸惑(とまど)いを(かく)せません。


「な、(なに)をする!?」


鰲拝(オボイ)抵抗(ていこう)しようとしましたが、少年(しょうねん)たちは(かれ)()()き、地面(じめん)()さえつけました。多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)、そして油断(ゆだん)しきっていた鰲拝(オボイ)は、あっという()身動(みうご)きがとれなくなりました。


康熙帝(こうきてい)は、毅然(きぜん)とした態度(たいど)鰲拝(オボイ)見下(みくだ)ろしました。その(かお)には、もはや(おさな)皇帝(こうてい)面影(おもかげ)はなく、確固(かっこ)たる帝王(ていおう)風格(ふうかく)宿(やど)っていました。


鰲拝(オボイ)!そなたの(つみ)明白(めいはく)である。(なが)きにわたり、(わたし)(さげす)み、私利私欲(しりしよく)のために権力(けんりょく)(ふる)ってきたな。蘇克薩哈(スクサハ)無実(むじつ)(つみ)処刑(しょけい)したこと、その()悪行(あくぎょう)の数々(かずかず)。すべて、この康熙帝(こうきてい)見聞(けんぶん)してきたことだ」


鰲拝(オボイ)は、ようやく事態(じたい)理解(りかい)し、驚愕(きょうがく)()見開(みひら)きました。


陛下(へいか)…まさか…」


「もはや、そなたに弁明(べんめい)余地(よち)はない。(つみ)(みと)め、(さば)きを()けるがよい」


康熙帝(こうきてい)(めい)により、鰲拝(オボイ)はたちどころに捕縛(ほばく)され、投獄(とうごく)されました。権勢(けんせい)(ほこ)った大物(おおもの)も、(わか)皇帝(こうてい)周到(しゅうとう)計画(けいかく)(まえ)には、()(あし)()ませんでした。獄中(ごくちゅう)で、鰲拝(オボイ)(みずか)らの(つみ)()われ、()もなくして(いき)()()りました。


この鰲拝(オボイ)排除(はいじょ)により、康熙帝(こうきてい)親政(しんせい)本格的(ほんかくてき)開始(かいし)されました。(しん)未来(みらい)(にな)(わか)皇帝(こうてい)は、祖母(そぼ)(おし)えを(まも)り、(みずか)らの()強大(きょうだい)(てき)()(やぶ)ったのです。宮廷(きゅうてい)には、(あら)たな(かぜ)()(はじ)め、人々(ひとびと)は(わか)皇帝(こうてい)采配(さいはい)期待(きたい)()せるのでした。



1669年(康熙(こうき)8年)、(はる)(おだ)やかな日差(ひざ)しが紫禁城(しきんじょう)屋根(やね)()らしていました。先日(せんじつ)鰲拝(オボイ)排除(はいじょ)という大仕事(おおしごと)()えられた康熙帝(こうきてい)は、執務室(しつむしつ)(つぎ)なる政策(せいさく)について(かんが)えを(めぐ)らせていました。(かれ)脳裏(のうり)にあったのは、先帝(せんてい)である(ちち)順治帝(じゅんちてい)時代(じだい)()かれた「遷界令(せんかいれい)」という海禁政策(かいきんせいさく)です。


遷界令(せんかいれい)は、(みん)残党(ざんとう)である鄭成功(ていせいこう)らが台湾(たいわん)勢力(せいりょく)(きず)き、(しん)抵抗(ていこう)していた(ころ)に、(かれ)らへの物資(ぶっし)供給(きょうきゅう)()つためとして、沿海部(えんかいぶ)住民(じゅうみん)内陸(ないりく)移住(いじゅう)させ、海上交易(かいじょうこうえき)(きび)しく(きん)じるものでした。しかし、この政策(せいさく)は、沿海(えんかい)()(おお)くの(たみ)生活(せいかつ)(くる)しめ、経済(けいざい)にも深刻(しんこく)影響(えいきょう)(あた)えていました。


康熙帝(こうきてい)は、その弊害(へいがい)(はだ)(かん)じていました。(たみ)(くる)しみを()()ごすことはできません。しかし、(なが)(つづ)いた政策(せいさく)(きゅう)()えることは容易(ようい)ではありません。重臣(じゅうしん)たちの(なか)には、依然(いぜん)として強硬(きょうこう)海禁(かいきん)主張(しゅちょう)する(もの)もいます。康熙帝(こうきてい)は、思案(しあん)()れていました。


その()午後(ごご)康熙帝(こうきてい)祖母(そぼ)である孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう)布木布泰(ブムブタイ)寧寿宮(ねいじゅぐう)(おとず)れました。布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)訪問(ほうもん)(あたた)かく(むか)えました。


陛下(へいか)、この(たび)鰲拝(オボイ)排除(はいじょ)され、(こころ)よりお(よろこ)(もう)()げます。あなた(さま)親政(しんせい)本格的(ほんかくてき)(はじ)まることを、わたくしは(こころ)から(うれ)しく(おも)っておりますよ」


布木布泰(ブムブタイ)言葉(ことば)に、康熙帝(こうきてい)(ふか)(あたま)を下げました。


祖母上(おばあさま)長年(ながねん)にわたるご指導(しどう)と、鰲拝(オボイ)への対抗策(たいこうさく)のお(かげ)でございます。しかし、まだ課題(かだい)山積(さんせき)しております。(とく)に、あの海禁政策(かいきんせいさく)について、祖母上(おばあさま) のご意見(いけん)(うかが)いたく(まい)りました」


康熙帝(こうきてい)は、海禁政策(かいきんせいさく)(たみ)(あた)える苦痛(くつう)と、経済(けいざい)への悪影響(あくえいきょう)詳細(しょうさい)説明(せつめい)しました。布木布泰(ブムブタイ)は、(しず)かに(みみ)(かたむ)けていました。彼女(かのじょ)自身(じしん)も、かつてこの政策(せいさく)反対(はんたい)していた経緯(けいい)があります。


「なるほど…。陛下(へいか)のお気持(きもち)は、(いた)いほどわかりますよ」


布木布泰(ブムブタイ)は、(おだ)やかな口調(くちょう)(かた)(はじ)めました。


「あの海禁政策(かいきんせいさく)は、当初(とうしょ)鄭成功(ていせいこう)孤立(こりつ)させるための()むを()ない措置(そち)でした。しかし、(とき)()てば、状況(じょうきょう)()わるものです。いつまでも旧弊(きゅうへい)(とら)われていては、(くに)疲弊(ひへい)してしまいます。陛下(へいか)のお(かんが)えの(とお)り、(たみ)生活(せいかつ)第一(だいいち)(かんが)えるべきでしょう」


康熙帝(こうきてい)は、祖母上(おばあさま)言葉(ことば)安堵(あんど)表情(ひょうじょう)()かべました。


「やはり、祖母上(おばあさま) もそう(おも)われますか」


「ええ。わたくしは、あなたが皇帝(こうてい)即位(そくい)した(ころ)から、この政策(せいさく)(なが)(つづ)くことの危惧(きぐ)(いだ)いておりました。ただ、当時は鰲拝(オボイ)らの輔政大臣(ほせいだいじん)たちが実権(じっけん)(にぎ)り、わたくしの意見(いけん)も聞き入れられませんでしたからね」


布木布泰(ブムブタイ)は、かつての(くや)しさを(にじ)ませながらも、毅然(きぜん)とした態度(たいど)(くず)しません。


「しかし、(いま)(ちが)います。陛下(へいか)はもう、ご自身(じしん)(ちから)(まつりごと)(つかさど)ることができるのです。(たみ)(こえ)(みみ)(かたむ)け、()いと(おも)われた政策(せいさく)は、(おく)することなく実行(じっこう)なさい。それが、(まこと)帝王(ていおう)(みち)というものです」


「はい、祖母上(おばあさま)祖母上(おばあさま) のお言葉(ことば)で、(わたし)確信(かくしん)()ました。海禁政策(かいきんせいさく)緩和(かんわ)を、早急(そうきゅう)検討(けんとう)いたします」


康熙帝(こうきてい)は、決意(けつい)()ちた表情(ひょうじょう)(こた)えました。布木布泰(ブムブタイ)は、(まご)成長(せいちょう)(あたた)かい()見守(みまも)っていました。彼女(かのじょ)(おし)えと(ささ)えが、(わか)皇帝(こうてい)偉大(いだい)帝王(ていおう)へと(そだ)てていくことを、彼女(かのじょ)確信(かくしん)していました。


この対話(たいわ)は、康熙帝(こうきてい)治世(ちせい)における重要(じゅうよう)転換点(てんかんてん)となりました。祖母(そぼ)(つよ)後押(あとお)しを()て、康熙帝(こうきてい)海禁政策(かいきんせいさく)緩和(かんわ)に向けて具体的(ぐたいてき)行動(こうどう)開始(かいし)することになります。それは、やがて(しん)経済(けいざい)再興(さいこう)させ、国力(こくりょく)増大(ぞうだい)させる(いしずえ)となるのです。

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