草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑮
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広大な清の宮殿に、再び静寂が戻りました。時は1661年、順治18年のことです。天然痘に罹患していた順治帝は、息子の玄燁の献身的な看病もあり、ついに病から回復されました。しかし、帝の心は、晴れやかなものとは程遠い状態でした。最愛の董鄂妃を失った悲しみ、そして自らの命を脅かした病の体験は、帝の魂に深い影を落としていたのです。
ある日のこと、順治帝は、人々に思いもよらぬ命令を下しました。
「朕は天然痘により崩御したことにせよ」
そして、彼は中国仏教の聖地として名高い五台山の山中へと向かい、僧侶として隠遁生活を送ることを決意されたのでした。俗世の苦しみから逃れ、仏の道に救いを求めるかのように、帝は静かに宮殿を後にされました。
この突然の出来事に、宮中には大きな動揺が走りました。しかし、このような緊急の事態においても、孝荘文皇后こと布木布泰は、冷静さを失いませんでした。彼女は、清の未来のため、そして何よりも幼い孫、玄燁のために、早急な決断を下す必要がありました。
布木布泰は、重臣たちを集め、毅然とした態度で語りかけました。
「帝は、もはや俗世に戻られることはないでしょう。清には、新たな帝が必要です。誰よりも聡明で、そして病に打ち勝った強さを持つ者、それが玄燁です。」
布木布泰は、当時まだ7歳であった玄燁を次期皇帝に指名しました。幼いながらも賢く、天然痘という大病を克服した玄燁こそが、清の未来を託すにふさわしいと、彼女は確信していたのです。
重臣たちは、布木布泰の言葉に、最初は戸惑いを隠せませんでした。特に、権力に野心を持つ者たちの中には、幼い皇帝の即位を快く思わない者もいました。
その中の一人、鰲拝が、不満げな表情で口を開きました。
「しかし、皇太后様。玄燁様は、まだあまりに幼すぎます。この混乱期に、幼帝を即位させるのはあまりにも危険ではございませんか?」
布木布泰は、鰲拝の言葉を静かに聞き、そして強い眼差しで彼を見つめました。
「確かに、玄燁は幼い。しかし、その幼さゆえに、どのような色にも染まることができるでしょう。そして、私たちが、彼を真の皇帝へと育て上げるのです。それに、幼い帝を支えるために、あなた方、経験豊かな重臣たちの力が必要となります。」
布木布泰は、鰲拝をはじめとする重臣たちの役割を明確に示し、彼らの協力を求めました。彼女の説得力のある言葉と、帝室への揺るぎない忠誠心は、やがて重臣たちの心を動かしました。
かくして、玄燁は幼くして清の第四代皇帝、康熙帝として即位することになりました。そして、布木布泰は、皇太后のさらに上位にあたる太皇太后という最高の地位に就かれました。
幼い皇帝を支えるため、清朝には新たな摂政体制が敷かれました。筆頭輔政大臣の索尼、蘇克薩哈、遏必隆、そして鰲拝という四人の有力な大臣が、若き康熙帝の政治を補佐することになったのです。
布木布泰は、太皇太后として、幼い康熙帝の精神的な支えとなりました。彼女は、混乱する政局の中で、常に冷静な判断を下し、幼帝を陰で支え続けました。清の未来は、この賢明な祖母と、幼いながらも聡明な皇帝の手に委ねられたのです。
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静謐な紫禁城の奥、太皇太后布木布泰は、新たな皇帝となった幼い孫、康熙帝の成長を見守りながら、清の未来に思いを馳せていました。しかし、外の世界では、清の支配を揺るがす大きな動きが始まっていました。
1661年、清・順治18年のことでした。明の滅亡後も清への抵抗を続ける明の遺臣、鄭成功が、遠く離れた台湾、当時の呼称でフォルモサ、に目をつけました。彼は、そこに築かれたオランダ東インド会社の拠点であるゼーランディア城を大軍で包囲したのです。
この報は、北京の宮廷にも大きな衝撃を与えました。康熙帝を補佐する四大臣、すなわち索尼、蘇克薩哈、遏必隆、そして鰲拝は、鄭成功ら明の残存勢力への対抗策を練るため、連日、議論を重ねました。
「鄭成功は、海上から我々を脅かしている。その補給を断ち切らねばならぬ!」
鰲拝が、鋭い眼光で他の大臣たちを見据えて言いました。
「沿海の民が、彼らの活動を助けているやもしれません。彼らとの接触を絶つべきです。」
索尼が、慎重に意見を述べました。
議論の末、四大臣が下した決断は、極めて過酷なものでした。「遷界令」と呼ばれるその政策は、沿海地域の住民を強制的に内陸へ移住させ、海上交易を一切禁止するというものでした。
この決定は、たちまち沿海地域の経済と住民の生活に甚大な影響を及ぼしました。長年築き上げてきた生業を失い、住み慣れた土地を離れなければならない民衆の悲痛な叫びが、遠く都にも届くようでした。
布木布泰は、この極端な政策に心を痛めていました。彼女は、民の苦しみを見過ごすことができませんでした。ある日の朝議の席で、布木布泰は四大臣に向かい、自らの意見を述べられました。
「遷界令は、鄭成功を抑えるためには必要なのかもしれません。しかし、民の生活をこれほどまでに破壊して、本当に良いのでしょうか? 彼らの苦しみは、清の安定にとって、決して良いことではないと存じます。」
布木布泰は、民の困窮を訴え、政策の見直しを求めました。しかし、鰲拝は、彼女の言葉を退けました。
「太皇太后様のお心遣いはありがたく存じます。しかし、これは国を守るため、やむを得ない措置でございます。目先の苦しみはあっても、これによって清の安寧が保たれるのであれば、必要な犠牲でございましょう。」
彼の言葉には、一切の迷いも、感情も感じられませんでした。他の大臣たちも、鰲拝の意見に同調し、布木布泰の訴えは聞き入れられませんでした。
布木布泰は、深くため息をつかれました。彼女は、自身の意見が通じなかったことに無念さを感じながらも、幼い康熙帝の治世を守るため、この困難な状況を受け入れるしかありませんでした。しかし、彼女の心には、いつか民の苦しみが和らぐ日が来ることを願う、強い思いが残されていました。
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1662年(康熙元年)2月1日、遠く離れた台湾では、明の遺臣である鄭成功が、ついにオランダ軍を降伏させ、ゼーランディア城を占領いたしました。これにより、台湾に鄭氏政権、「東寧」が樹立されたのです。大陸とは異なる地で、新たな歴史が刻まれようとしていました。
清の宮廷では、慌ただしい日々が過ぎていきました。幼い康熙帝は、まだ政務の多くを摂政の四大臣に委ねていますが、その成長は目覚ましいものがありました。しかし、帝の心には、満たされない寂しさが常に影を落としていたのです。
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翌年の1663年(康熙2年)、康熙帝の生母であるトゥンギャ氏が病に倒れ、帰らぬ人となりました。
「母上……」
幼い皇帝の声が、乾いた部屋に響き渡ります。康熙帝は、生母から十分な愛情を受けた記憶がありませんでした。その死は、彼にとって深い悲しみとなり、宮廷の者たちはその姿に胸を締め付けられました。
この時、布木布泰、後の孝荘文皇后は、孫である康熙帝の嘆きを目の当たりにし、深く心を痛めました。彼女は、自らもまた幼くして嫁ぎ、多くの苦難を乗り越えてきた人生でした。だからこそ、幼い孫の孤独が痛いほど理解できたのです。
布木布泰は、静かに康熙帝の側に歩み寄りました。
「玄燁……」
布木布泰が優しくその名を呼ぶと、康熙帝は顔を上げました。彼の瞳は涙で潤み、小さな肩は震えています。
「祖母上……母上が、逝ってしまわれました……」
か細い声で康熙帝が訴えると、布木布泰はそっと彼を抱き寄せました。幼い体に伝わる祖母の温もりは、康熙帝の心に深く染み渡ります。
「お辛いでしょう。よく頑張りましたね」
布木布泰の言葉は、まるで乾いた大地に降る恵みの雨のようでした。康熙帝は、祖母の胸に顔をうずめ、堰を切ったように泣き続けます。布木布泰は、ただ黙ってその背を撫で続けました。
これまでも、布木布泰は康熙帝の養育に心を砕いてきました。しかし、この生母の死をきっかけに、彼女は康熙帝へ、より深く愛情を注ぐことを決意します。
ある日、康熙帝が書の勉強をしていると、布木布泰が菓子を持って現れました。
「玄燁、少し休みなさい」
「祖母上……」
康熙帝は、顔に墨をつけながらも、嬉しそうに布木布泰を見上げました。
「いつも勉強ばかりでは疲れるでしょう。これは、お前が好きな菓子ですよ」
布木布泰は優しく微笑み、菓子を差し出しました。康熙帝は、その手から菓子を受け取ると、無邪気に頬張りました。
「美味しいです、祖母上!」
その屈託のない笑顔を見るたびに、布木布泰の心は温かくなります。彼女は、康熙帝がただの皇帝としてではなく、一人の人間として健やかに成長することを願いました。
「玄燁、立派な皇帝になるためには、学問も武術も大切ですが、何よりも民を慈しむ心が大切なのですよ」
布木布泰は、折に触れて康熙帝に教えを説きました。康熙帝は、祖母の言葉を一言一句漏らさず、真剣に耳を傾けます。
ある時、康熙帝が病にかかり、熱を出しました。布木布泰は、夜もすがら看病し、一晩中その側を離れませんでした。
「祖母上、休んでください」
朦朧とする意識の中で、康熙帝が弱々しい声で言いました。
「いいえ、玄燁の側にいたいのです。早く良くなるように、祖母が祈っていますからね」
布木布泰は、康熙帝の手を握り、額に濡れ布巾を乗せ続けました。その献身的な愛情は、康熙帝の心に深く刻み込まれ、彼の人格形成に大きな影響を与えることになります。
布木布泰の愛情に包まれ、康熙帝は次第に生母を失った悲しみを乗り越えていきました。彼は、祖母の期待に応えようと、より一層勉学に励み、帝王としての資質を磨いていきました。
清の宮廷には、再び穏やかな空気が流れ始めていました。それは、太皇太后の深い愛情と、それに支えられた幼い皇帝の健やかな成長によるものでした。この時、布木布泰は知る由もありませんでしたが、この愛情こそが、後に清朝の最盛期を築き上げる名君、康熙帝を育む礎となるのです。




