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草原の姫から帝国の賢母へ:孝荘文皇后(ブムブタイ):⑪

1645年(しん順治じゅんち2年)、清朝しんちょうは、漢民族かんみんぞくにとって衝撃的しょうげきてき布告ふこくしました。それは「剃髪令ていはつれい」とばれるもので、漢民族かんみんぞくたいし、満州族まんしゅうぞく伝統的でんとうてき髪型かみがたである辮髪べんぱつ強制きょうせいするという内容ないようでした。


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辮髪べんぱつへの抵抗ていこう


北京ぺきんまちは、この布告ふこくによっておおきな混乱こんらんつつまれました。漢民族かんみんぞくにとって、かみることは、おやからけた身体からだきずつけることであり、儒教じゅきょうおしえにはんする行為こういかんがえられていました。そのため、各地かくちはげしい抵抗ていこう反乱はんらんこりました。


紫禁城しきんじょうおくでも、この政策せいさくについて議論ぎろんわされていました。皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイは、モンゴルぞく出身しゅっしんであったため、辮髪べんぱつたいする特別とくべつなこだわりはありませんでした。しかし、漢民族かんみんぞく感情かんじょうかんがえると、強行きょうこうすることのリスクを懸念けねんしていました。


ある布木布泰ブムブタイ摂政王せっしょうおうドルゴンにたずねました。


摂政王せっしょうおうさま、この剃髪令ていはつれいは、本当に必要ひつようなのでしょうか? 漢民族かんみんぞく反発はんぱつ大変たいへんなものといております」


ドルゴンは、眉間みけんしわせながらこたえました。


皇太后こうたいごうさま、これぞしん中華ちゅうかおさめるうえで、けられぬみちなのです。われらの支配しはい確固かっこたるものとするためには、漢民族かんみんぞく満州族まんしゅうぞく風習ふうしゅうれさせる必要ひつようがあります」


布木布泰ブムブタイは、ためいきをつきました。


「しかし、無理むりいれば、さらなる混乱こんらんまねくことになりかねません。平和へいわ統治とうちのためには、かれらのこころれることも重要じゅうようなのではございませんか?」


ドルゴンはくびよこりました。


あまいことをおっしゃいますな、皇太后こうたいごうさま弱気よわき姿勢しせいせれば、漢民族かんみんぞくはつけんでくるでしょう。これからの時代じだいは、ちからさえつけることも必要ひつようなのです」


ドルゴンの言葉ことばは、確固かっことした決意けついちていました。布木布泰ブムブタイは、これ以上いじょうっても無駄むだだとさとり、しずかに視線しせんとしました。


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政策せいさく強行きょうこう反発はんぱつ


ドルゴンは布木布泰ブムブタイ反対はんたいを押しおしきり、剃髪令ていはつれい全国ぜんこく強行きょうこうしました。清朝しんちょう役人やくにんたちは、まち巡回じゅんかいし、かみらない漢民族かんみんぞくつけると、容赦ようしゃなくばつあたえました。「あたまのこすか、かみのこすか」という言葉ことばは、漢民族かんみんぞく抵抗ていこう象徴しょうちょうとなり、各地かくち衝突しょうとつこりました。


とく江南こうなん地方ちほうでは、はげしい反乱はんらん相次あいつぎました。かれらは、剃髪ていはつ拒否きょひし、清朝しんちょう支配しはいたいしてがったのです。しかし、清軍しんぐん容赦ようしゃなく鎮圧ちんあつすすめ、おおくのながれました。


紫禁城しきんじょうおくで、布木布泰ブムブタイは、各地かくちからとど報告ほうこくむねいためていました。


「これでは、漢民族かんみんぞくうらみをふかめるばかりではございませんか……」


おさな順治帝じゅんちていは、まだ政務せいむくわしい内容ないよう理解りかいしていませんでしたが、ははかおくもっていることをかんっていました。


母上ははうえ、どうかなさいましたか?」


布木布泰ブムブタイは、息子むすこきしめ、やさしいこえはなしました。


なんでもありませんよ、フリン。ただ、このくにが、みな平和へいわらせる場所ばしょになることをねがっているだけです」


布木布泰ブムブタイは、強硬きょうこう政策せいさくすすめるドルゴンとはことなる視点してんで、しん未来みらい見据みすえていました。彼女かのじょこころなかには、満州族まんしゅうぞくだけでなく、漢民族かんみんぞくも、そしてモンゴルぞくも、みなともきる平和へいわくに姿すがたがありました。しかし、いま彼女かのじょには、ドルゴンの決断けつだんめるすべはありませんでした。


この剃髪令ていはつれいは、清朝しんちょう中華ちゅうか支配しはいしていくうえで、大きな犠牲ぎせいともな政策せいさくとなったのです。そして、このあとも、清朝しんちょう中国全土ぜんど掌握しょうあくするために、様々(さまざま)な試練しれん直面ちょくめんしていくことになります。



1646年(しん順治じゅんち3年)、清朝しんちょうは、その支配しはい中国全土ぜんどへとひろげるため、南方なんぽうへの進軍しんぐん本格化ほんかくかしていました。とく重要じゅうよう目標もくひょうとされたのが、みん残党ざんとう樹立じゅりつした南明なんみん弘光帝こうこうてい朱由崧しゅ・ゆうそう政権せいけんでした。


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南明なんみん政権せいけん滅亡めつぼう


北京ぺきん紫禁城しきんじょうでは、皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイが、南方なんぽうからの戦況報告せんきょうほうこくみみかたむけていました。彼女かのじょかたわらには、おさな息子むすこである順治帝じゅんちていあそんでいます。


摂政王せっしょうおうさま江南こうなん状況じょうきょうはいかがですか?」


布木布泰ブムブタイは、報告ほうこくえたばかりの使者ししゃたずねました。


使者ししゃは深々(ふかぶか)とあたまを下げ、言葉ことばえらびながらこたえました。


皇太后こうたいごうさま摂政王せっしょうおうドルゴンさまと、アジケさま、ドドさま活躍かつやくにより、清軍しんぐん江南こうなん地方ちほう制圧せいあつを着々(ちゃくちゃく)とすすめております。南明なんみん弘光帝こうこうてい政権せいけんは、ついに南京なんきん陥落かんらくし、滅亡めつぼういたしました」


布木布泰ブムブタイしずかにうなずきました。弘光帝こうこうてい政権せいけん滅亡めつぼうしたことは、清朝しんちょう中華ちゅうか正統せいとう支配者しはいしゃとなるうえで、おおきな一歩いっぽでした。しかし、同時どうじに、彼女かのじょこころには、戦乱せんらんつづく人々のくるしみにたいするおもいがありました。


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南京なんきん陥落かんらく揚子江ようすこう以南いなん支配しはい


南京なんきん陥落かんらくしたというしらせは、しん宮廷きゅうてい歓喜かんきをもたらしました。揚子江ようすこう以南いなんゆたかな土地とちが、清朝しんちょう支配下しはいかおかれることになったのです。これは、物資ぶっし補給ほきゅうだけでなく、しん正統性せいとうせい内外ないがいしめうえでも重要じゅうよう意味いみっていました。


摂政王せっしょうおうドルゴンは、北京ぺきん凱旋がいせんすると、布木布泰ブムブタイ報告ほうこくしました。


皇太后こうたいごうさまながきにわたるたたかいでしたが、ついに江南こうなん地方ちほう制圧せいあついたしました。これにて、しん天下統一てんかとういつは、着々(ちゃくちゃく)とすすんでおります」


ドルゴンのかおには、疲労ひろういろえましたが、それ以上に達成感たっせいかん自信じしんあふれていました。


布木布泰ブムブタイは、ドルゴンをねぎらいながら、たずねました。


「ご苦労様くろうさまでございました。しかし、これで全てがわりではございませんね。これから、いかにして漢民族かんみんぞくこころつかみ、まこと安定あんていをもたらすかが課題かだいとなるでしょう」


ドルゴンは、布木布泰ブムブタイ言葉ことばすこかんがみました。かれは、武力ぶりょくによる支配しはい得意とくいとしましたが、文化ぶんか民心みんしん掌握しょうあくすることのむずかしさも理解りかいしていました。


「それは、これからかんがえるべきことでしょう。まずは、支配しはい基礎きそかためることが先決せんけつでございます」


ドルゴンはそううと、つぎ戦略せんりゃくるため、足早あしばやっていきました。


布木布泰ブムブタイは、南京なんきん陥落かんらく契機けいきに、揚子江ようすこう以南いなん支配しはい一気いっきかためられていく様子ようすつめていました。彼女かのじょは、たんなる勝利しょうりだけでなく、そのさきにある平和へいわ国家こっか建設けんせつ夢見ゆめみていました。おさな息子むすこである順治帝じゅんちていが、いつかしん皇帝こうていとして、この広大こうだいくにおさめるねがいながら、彼女かのじょしずかにいのりをささげたのでした。



1646年(しん順治じゅんち3年)、清朝しんちょうは、江南こうなん地方ちほう平定へいていすすめていました。そのなかで、沿岸部えんがんぶ制圧せいあつとく重要じゅうよう課題かだいでした。海上かいじょう勢力せいりょくとして強大きょうだいちからっていた鄭芝龍ていしりゅう存在そんざいは、しん支配しはいはばおおきなかべとなっていたのです。


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ドドの活躍かつやく鄭芝龍ていしりゅう降伏こうふく


北京ぺきん紫禁城しきんじょうでは、皇太后こうたいごう布木布泰ブムブタイが、戦況せんきょう報告ほうこくけていました。彼女かのじょは、おさな順治帝じゅんちていあそぶのを横目よこめながら、真剣しんけん面持おももちみみかたむけています。


皇太后こうたいごうさま福建ふっけんにおける鄭芝龍ていしりゅう討伐とうばつけんでございますが、摂政王せっしょうおうドルゴンさま弟君おとうとぎみであるドドさまが、多大ただい活躍かつやくをされました」


使者ししゃは、鄭芝龍ていしりゅう降伏こうふくさせることに成功せいこうしたことを報告ほうこくしました。


布木布泰ブムブタイほそめ、安堵あんどいきをつきました。


「ドドが、ですか。かれもまた、おおきく成長せいちょうしましたね。これで沿岸えんがん制圧せいあつすすむでしょう」


ドルゴンは、布木布泰ブムブタイ言葉ことばうなずきました。


「はい、皇太后こうたいごうさまのおっしゃるとおりです。ドドは、その武勇ぶゆう統率力とうそつりょく存分ぞんぶん発揮はっきし、鄭芝龍ていしりゅうを追いめました。鄭芝龍ていしりゅう本人ほんにんも、しんへの降伏こうふくれるにいたりましたので、沿岸えんがん支配しはいは、格段かくだんすすむこととぞんじます」


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鄭芝龍ていしりゅう抗清こうしん決意けつい


しかし、報告ほうこくは、おだやかなものばかりではありませんでした。使者ししゃは、つづけて言葉ことばぎました。


「しかしながら、一つ、憂慮ゆうりょすべきてんがございます。鄭芝龍ていしりゅうは、まだ若年じゃくねんであるにもかかわらず、ちち降伏こうふく反発はんぱつし、独自どくじしんへの抵抗ていこうつづけることを決意けついした模様もようです」


布木布泰ブムブタイ表情ひょうじょうに、わずかにかげしました。おさな順治帝じゅんちていが、いつか平和へいわおさめるためにも、あらそいはすこしでもってほしいとねがっていたからです。


ドルゴンは、眉間みけんしわせました。


なに? まだ年若としわかい者が、そのような無謀むぼう真似まねを。おやうこともかぬのか」


「どうやら、そうのようです。かれは、ちち決定けっていいさぎよしとせず、みずからの信念しんねんしたがってたたかつづける覚悟かくごであるといております」


使者ししゃ言葉ことばに、布木布泰ブムブタイしずかにかんがみました。わかかれ決意けついは、清朝しんちょう安定あんていにとって、またあらたな火種ひだねとなるかもしれません。


こころざしとうといものですが、無益むえきあらそいはけたいものです。かれ動向どうこうには、今後こんご注意ちゅういはら必要ひつようがありますね」


布木布泰ブムブタイは、そうって、使者ししゃを下がらせました。


清朝しんちょう支配しはいは、着実ちゃくじつひろがりつつありましたが、鄭芝龍ていしりゅうのような抵抗勢力ていこうせいりょく存在そんざいは、未来みらいへの課題かだい物語ものがたっていました。この時代じだいは、しん中華ちゅうか覇者はしゃとなるため、まさに激動げきどう只中ただなかにあったのです。

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