第1話 賑わいの開幕
大通りの中央に張られた巨大なサーカステントが、夕陽を浴びて鮮やかに染まっていた。
明日の本番に向けて、旅芸人一座は最後の猛練習に取りかかっている。
準備用の小テントには舞台装置や大道具が雑多に置かれ、あちこちから軽快な音楽や道化師の笑い声が聞こえる。
「シルヴァーノさん、大変です。
ベルフィーユが……足を挫いちゃったみたいで、踊れそうにないです。」
小柄な道化師が慌てた声で報告すると、座長のシルヴァーノは思わず額を押さえた。
口ひげを蓄えた顔には焦りがにじんでいる。
「どうしてこんな時に……看板踊り子がいないなんて。
せっかくの大興行が台無しだ。
仕方ない、演目を大幅に削るしか……いや、それじゃ客も集まらん……。」
途方に暮れた様子のシルヴァーノは、外から差し込むオレンジ色の光を見つめ、うなだれるばかりだった。
突然、テントの布が控えめに揺れ、ひょろりとした影がぬるりと入ってくる。
黒と紫のローブに痩せた長身――シルヴァーノは見覚えのない男だと思ったが、男はまるで昔から馴染みかのように距離を詰めてきた。
その細い指先には奇妙な刻印があり、どこか妖しげな雰囲気を醸し出している。
「踊り子がいないなら、別の見せ場を作ればいいんじゃない?
踊りの代わりに派手な演出で、お客を沸かせるのも悪くないだろう。」
掠れた声音でそう囁くと、男は座長の傍に立ち、舞台セットに視線を走らせた。
シルヴァーノは驚き、道化師も目を丸くしている。
「失礼だけど、あなたは……?」
「サイラス、とでも呼んでくれればいい。
踊り子の代役は無理だけど、ショー全体を盛り上げる演出ならできる。
……興味あるでしょ?」
サイラスと名乗った男の瞳には、冷たく光る琥珀色が宿っていた。
シルヴァーノは思わず言葉に詰まる。
とりあえず彼を外へ追い出すべきか、それとも話を聞くべきか。
だが、ベルフィーユ不在の穴をどうにか埋めたいという切実な思いが、彼の背中を押した。
「報酬は出せないかもしれんよ。
それでも構わないというのか?」
「金なんて要らないさ。
俺はただ――大勢の人間が驚いたり、怖がったりする顔が見たいだけだ。」
サイラスは無邪気な子どものように唇を歪め、テントの天井を仰いだ。
その異様な空気に道化師が怯えたようにたじろぐが、シルヴァーノは背に腹は代えられず、首を縦に振る。
「わかった。
何としても公演を成功させたいんだ。
君の“特別な演出”とやら……頼めるか?」
「任せといて。
明日の舞台、少しばかり騒がしくなるよ?」
サイラスはそう言うと、テントの内部を眺め回しながら歩き回る。
道具類が積まれた山や客席に使う折り畳み椅子をチェックし、セットの構造まで念入りに調べている。
その姿はあたかも職人気取りにも見えるが、薄暗い光の下で時おり見せる冷たい微笑みには、危うい輝きが宿っているようだった。
「舞台裏に立体的な幻影を投影して……花火の音だけを客席全体に響かせて……。
観客が一番多く集まる場所には猛獣の幻影でも走らせてみようか。
悲鳴が上がったら面白いだろうね。」
サイラスが呟くたびに、シルヴァーノはその案の大半を聞き流そうとするが、内心では「派手さが増すなら悪くはないかもしれない」と思い始める。
ただ、その言葉の端々に滲む“人を混乱させる目的”がどうにも気になった。
「……あまり、客に怪我をさせないでくれよ?
大騒ぎになっても、後処理に追われるんじゃ困るんだ。」
「わかってるさ。
ギリギリのところで楽しませるだけだよ。
痛いのや怖いのは、ほどほどにしたほうが長く遊べるってね。」
本心かどうかは不明だが、サイラスは軽く肩をすくめてみせる。
その背後では、道化師が聞き耳を立てており、どこか落ち着かない表情で視線をさまよわせていた。
「おい、兄ちゃん。
ショーに危害はないんだろうな?」
「さあね。
安全だって信じるなら、それもまた自由だろう?」
さらりと答える声に、不気味な余裕がにじむ。
やがて日が暮れ始め、テントの外には街の灯りがともりだした。
明日はこの場所が満員の客で賑わい、歓声や笑い声があちこちで溢れるはずだ。
シルヴァーノは最後の舞台確認をしながら、ちらりとサイラスを伺う。
そこには相変わらずの冷たい笑みが浮かんでいる。
「……本当に大丈夫、なんだろうな?」
「大丈夫かどうかは、あなたたち次第じゃないかな。
俺はただ、華やかさとスリルを用意するだけさ。」
その言葉に、シルヴァーノは微妙な不安を覚えつつも、背に腹は代えられないと自分に言い聞かせる。
ベルフィーユの代わりとなる目玉がない今、少しでも派手さを演出できるなら、どんな手でも使いたい。
そうして旅芸人一座は、明日の公演に向けて危うい期待と焦りを胸に、夜を迎えようとしていた。
サイラスは暗いテントの中をしばらく歩き回り、観客席を見下ろすように足場を確認する。
「花火の音と、猛獣の影。
スパークの幻を混ぜれば、火柱が立ったようなド派手な演出もできる。
客が歓声を上げつつ、一部は悲鳴を上げる……。
楽しそうじゃないか。」
喉を鳴らすように小さく笑った彼の瞳には、もはや興行の成功など関係ないと言わんばかりの好奇心だけが宿っていた。
明日は大勢の人々が、このテントに足を運ぶ。
サイラスにとってそれは、数多くの“顔”を同時に観察できる最高の舞台。
幻影がどんな効果を生み出すか、彼の胸は高揚でいっぱいだ。
入口に佇むシルヴァーノは、そんなサイラスの様子を見守りながら、ぎゅっと拳を握りしめる。
背後には怪我をして休むベルフィーユが不安そうにこちらを見つめている。
誰もが明日の興行に一抹の恐れを抱きながらも、どこかで“上手くいく”ことを祈っていた。
夜風がテントを揺らし、舞台の小道具がかすかにきしむ。
サイラスはその音に耳を澄ませ、まるで次の獲物を待つ獣のように微笑んでいた。