第3話 氷の女王と“瞳の罠”
山荘の前には一列に並んだ村人たちが、その中心にアミトリアを取り囲むようにして立っていた。
吹雪の中、騒ぎを聞きつけたのか、彼女は自ら外へ出てきて彼らを迎えようとしたのだ。
「誤解です。
私が呪いをかけた覚えなんてありません。
どうか落ち着いて話を――」
アミトリアの声は大人しげだが、そのか細い響きは誰にも届いていない。
村人たちは雪まみれになりながら、まるで化け物を見るような視線をアミトリアに注ぎ、後ずさりしながら石や棒を構えている。
そこへサイラスの姿がふわりと現れた。
崖の上から現状を俯瞰していたはずなのに、まるで風と一体になってきたような足取りだ。
黒と紫のローブが、吹雪の白さに溶け込みそうで溶けない。
彼はアミトリアの背後に目を向け、にやりと笑う。
「ああ、やっぱり来てたんだ。
さすがに無視はできなかったか。
優しいんだね、魔女さん?」
アミトリアは小さく眉をひそめるが、サイラスは気にする様子もない。
彼は視線を村人たちに移し、淡々と口を開く。
「そこまで恐れてるなら、もう少し決定的に怖がらせてあげようか。
ちょうどいい術があるんだよ。
……“瞳の罠”ってやつさ。」
その瞬間、彼の細い指が淡い光を描いた。
風雪を裂くような一筋の光が村人たちの視界をさらい、次の瞬間、誰もが目を見開いて絶句する。
「うわあああっ!」
先頭の男は膝を折り、アミトリアに向けて悲鳴を上げた。
彼の目に映っているのは、優しげな女性ではなく、凶悪な魔女の姿。
牙をむき、血走った瞳で呪いの言葉を吐きかける怪物のように見えるのだろう。
「こっち来るな!
化け物め!」
別の男は頭を抱え、後ずさるあまりに仲間の足を引っかけてしまう。
その弾みで数人が転倒し、まるで同士討ちのようにもつれ合った。
一人は絶叫しながら雪壁に激突し、また一人は斜面へ足を滑らせる。
幻の亡霊がわめき散らしているのだと錯覚し、何が本物なのか区別がつかなくなっていた。
「あの人たちは何を見ているの……?
私は……ただ……。」
アミトリアは困惑して両手を伸ばすが、誰もまともに聞く耳を持たない。
むしろ雪の女王にも似た銀髪の姿が、彼らにはさらに恐ろしい存在に思えている。
サイラスは崖の上から少しずつ近づいてきた。
吹きすさぶ風の音が一層強まったかと思うと、村人たちの耳元で“魔女の呪い”と囁くような幻の声が降り注ぎ始める。
心をかき乱された彼らは我先に逃げようとして、無我夢中で下山を試みる。
しかし雪と氷の斜面に足を取られ、思うように動けない。
パニックに陥った者同士がぶつかり合って転倒し、泣き叫ぶ声があちこちに響いている。
その惨状を、サイラスは見下ろすように眺める。
崖の先端でローブを揺らし、地面に手を当てながらそっと嗤う。
「恐れと混乱の表情って最高だね。
ほら、もっと叫んで、もっと逃げ惑って――君たちは勝手に騒ぎを大きくしてくれる。
俺は見てるだけで満足だ。」
アミトリアはようやく我に返り、暴走する人々を止めようと駆け寄る。
でも、その姿さえ彼らには怪物の襲来に見えているのだろう。
「近寄るな!」
「やめろ、助けてくれ!」
四方八方から怖気立つ声が飛び交う。
それを振り切るように、アミトリアは凍える手で必死に一人を捕らえ、回復の術をかけようとする。
男の顔に傷があり、血が薄紅色に雪面を染めていた。
しかし、その行為さえ誤解される。
男は悲鳴を上げ、アミトリアを振りほどこうとしてもがく。
彼女は正面から見つめられた途端、まるで強烈な拒絶感に押されるように後ずさった。
瞳の罠によって相手に映る“凶悪な魔女”の幻は、彼女の優しさを完全に覆い隠している。
サイラスはアミトリアの様子を見て一瞬だけ考え込む。
けれど、すぐに興味を失ったかのように首を振った。
「魔女なんて呼ばれてるけど、ただの隠遁者だね。
まあ村人の怖がる顔が見れたから十分だ。
特にこれ以上の用はない。」
彼の瞳には、厳しい寒さの中であえぐ人々の姿が映り、同時にどこか退屈そうな色が混じっていた。
ローブの裾を払うと、いつもの無責任な口調でつぶやく。
「ここらでお暇させてもらうよ。
もっと凄い混乱も見たかったけど……これで満足しておこう。
あんたたちがこの先どうなるかは興味ないしね。」
そう言い捨てると、サイラスは吹雪の中へ溶け込むように姿を消す。
村人たちはまだ混乱から抜け出せず、アミトリアだけが薄暗い雪山の空を見上げた。
彼女は震える手で地面を掴み、風に消えたサイラスの気配を追いかけようとするが、足に力が入らない。
「待って……こんな惨い――どうしてこんな……!」
しかし返事があるはずもなく、響くのは泣き叫ぶ人々の声と吹雪の唸りだけ。
やがて一部の村人は、アミトリアが回復の術を使おうとするのを目にして、彼女が本当に危害を加えるつもりがなかったのではないかと感じ始める。
それでも、ほとんどの者は幻影の恐怖を拭えず、我先に逃げていった。
雪山を覆う嵐はなおも激しさを増し、あちらこちらに足跡と血痕が散らばっている。
アミトリアは気絶した者を引きずるように山荘へ運び込み、必死で手当てを始める。
どれだけ自分が無実だと伝えようとしても、今の彼らにまともに聞く余裕はないだろう。
いつか誤解が解ける日が来るとしても、それはあまりに遠い未来のように思えた。
凍りついた雪山の頂付近で、静かに呼吸を整えながら、アミトリアは傷ついた男の脈を探る。
かすかな鼓動に安堵したのも束の間、外からは遠ざかっていく人影の叫び声が聞こえてくる。
「私は争いたくなんてなかったのに……。
どうして、みんな……。」
震える声に答える者はいない。
それでもアミトリアは治癒の力を注ぎ続ける。
彼女にできるのは、ただそれだけ。
遠く、崖を回り込んだ先で、サイラスの笑い声が微かに響く。
あとには荒れた雪山と、混乱と、冷たい風が残されていた。