第2話 幻惑の頂上
白い稜線がうねる雪山の尾根に、濃い灰色の雲が重なっていた。
村から山道を登る者たちの足取りは、吹き荒れる風雪によってさらに重くなっている。
それでも、魔女の存在を確かめたいと思う村人たちは一塊になり、呼び交わしながら進んでいた。
「頂上近くの岩場で人影を見たって話だ。
絶対にあれが魔女の仕業に違いない。
このまま放っておけば、村が全滅するかもしれない。」
先頭を歩く男が声を張り上げ、仲間を鼓舞するように振り返る。
その顔には恐怖よりも憤りが浮かんでいた。
しかし、どれほど気を張っていても、サイラスの思惑までは察知できない。
山の中腹にあたる場所で、一行は妙な不安感に襲われ始めた。
ごつごつした岩肌に、まるで人の顔のような凹凸が無数に並んでいるのだ。
しかも風が吹き抜けるたび、その顔じみた岩々がじっとこちらを見つめ、口を開いて嘆くように聞こえる。
「幻なんてあり得るか……?
見ろ、あの顔、さっきと向きが変わってるぞ。
まさか、亡霊でも出るのか……。」
叫ぶような声がこだまするたび、緊張が全員に伝播していく。
その場にはいないはずの気配が、岩陰から息づくように感じられ、誰もが身をすくめた。
その様子を離れた崖の上から、サイラスは静かに見下ろしている。
黒と紫のローブを纏った長身が、吹雪の合間にちらりと立ち現れたかと思うと、すぐまた雪煙に溶け込んでいく。
彼の唇にはかすかな笑みがあり、手元で何かを繰り返し操るように、指先を器用に動かしていた。
「やっぱり人間はいいね。
些細な錯覚を少し煽るだけで、勝手に恐怖を増幅してくれる。
どんな表情になるのか、こんなに近くで眺められるとは。」
まるで大切な舞台を鑑賞する観客のように、彼は満足げに細い指を組んだ。
雪が音もなく降り続き、視界が極端に悪くなり始めた。
そこへさらなる幻が加わる。
風の音が不気味に低く響き、まるで亡者の声がこだまするように聞こえるのだ。
岩壁にあいた裂け目から、何者かが覗いているような気配まで生まれて、登山者たちは先へ進む気力を失いかけた。
「こんなの、ただの吹雪じゃない……誰かが仕掛けてるに違いない……。
やっぱり魔女が……!」
誰かがそう呟くと、他の村人たちも口々に同意する。
そしていつの間にか、“魔女アミトリア”への憎悪や疑念が膨れ上がっていった。
遠目にその光景を眺めていたサイラスは、ひどく上機嫌そうに雪を踏みしめる。
「ふふ、どうせなら村を総動員させてみたいところだ。
恐怖に駆られた人間ほど、行動が面白いものはないからね。」
彼が再び指を滑らせると、吹雪が一層激しく渦巻き、岩場の気味の悪い“顔”が歪んで笑っているように見えた。
一方で、アミトリアは山荘の窓辺に立ち、外の暗い空を見つめていた。
治癒の術で救える命があるなら、できるだけ助けたいと思って暮らしてきたはずなのに、いつの間にか噂話がひとり歩きし、自分が魔女として恐れられている。
「どうして……こんな争いになるのかしら。
私はただ、傷を癒したかっただけなのに……。」
憂いを帯びた声が風にかき消される。
そして彼女の脳裏には、先刻出会ったサイラスの顔がちらついて離れなかった。
凍える風の中、山道では再び悲鳴が上がっていた。
雪原に亀裂が走ったかのように地面が揺らぐが、実際には何も起こっていない。
恐怖に囚われた人々は互いに手を取り合い、必死で足場を確かめようとしている。
その姿に、どこかの岩陰でサイラスが笑みを抑え込みながら眺めている気配があった。
「俺のせいだとは言わないよ。
でも、勝手に騒いでくれるのは歓迎だね。
無実だろうが何だろうが、恐怖が盛り上がれば面白い。
魔女狩りだなんて言ってるけど……本当に狩る相手がいるのかどうかすら確かめもしないんだから。」
彼はそっと雪道に膝をつき、何かをつぶやいて小さな光の玉を生み出した。
その玉はふわふわと浮かびながら、登山者の集団のほうへ向かっていく。
すると光の玉が弾けたように消え、突如吹雪が増幅したように視界が歪む。
岩の“顔”が勢いよく開口し、じっとりとした涙を流しているかのように見えた。
「やっぱりこの場所は最高だ。
寒さと吹雪が幻術を引き立ててくれるから、余計にリアルな恐怖になる。」
サイラスは低い声で漏らし、片目を細めて笑う。
その頃、山荘ではアミトリアが炉に薪をくべつつ、外の気配に胸を締めつけられていた。
「もし、本当に大勢で押しかけてきて、私を追い詰めるなら……。
でも、争いたくなんてない……どうしたらいいの……。」
大きな決断を迫られているような気がしながらも、答えを出せずにいた。
そして雪山の岩場には、サイラスの作り上げた幻の亡霊たちが這い出すように揺らめいている。
村人たちは一向に頂上にたどり着けず、むしろ谷底へ足を滑らせそうになって必死に踏ん張っている。
そのうち何人かは恐怖に耐えられず、引き返そうと訴え始めた。
しかし、仲間はそれを許さない。
「魔女を放置すれば村が危ない」と言い合いながら、意地を張って進み続ける。
サイラスはその荒れ狂う人の群れを満足げに一瞥した。
「どうなるかな。
もっと声を張り上げて、恐怖を表に出してほしいね。
俺は見逃さないよ……どんな表情でも楽しませてもらう。」
吹雪の幕の向こう、遠くに微かに見える山荘の明かりを眺めながら、彼は静かに微笑んでいた。
山の岩肌をよじ登る影と、それを睨むような人の顔じみた岩の幻。
それはまるで、山そのものが人を拒んでいるかのような光景だった。
やがて空が茜色に染まりはじめても、吹雪は止む気配を見せないまま、ここを訪れた者すべてを翻弄しているように見えた。
胸の奥に不安を抱えながら、誰もが道を探し求めている。
その道が、本当に存在するのかどうかも知らずに。