第1話 吹雪の山荘
吹き下ろす寒風が、麓の村の屋根をことさらに軋ませていた。
霜の降りた木立の向こうには、雪山が白々とそびえ立つ。
そこに魔女が住んでいるという噂は、村人たちを震え上がらせるには十分だった。
「また遭難者が出たらしい。
やっぱり魔女の呪いだって話だよ。」
囲炉裏端で声をひそめる男の言葉に、周囲の者たちも息を呑む。
厳しい吹雪が続くこの時期、誰もが山へ近づくことを躊躇していた。
そんな中、場違いなほど落ち着いた足取りの男が、村の小さな酒場の戸を押し開ける。
黒と紫のローブをまとい、痩せた体つきに不釣り合いなほど気配は濃密。
サイラスは空席を見つけると、まるで日常を楽しむかのように腰かけた。
「魔女の呪い……か。
なるほどね、面白そうだ。」
彼は軽くつぶやき、酒場の隅で肩を寄せ合っている村人たちを横目で眺める。
低いざわめきは途切れることなく続き、視線がサイラスに集まった。
場の空気が突き刺すように冷えたのは、彼の雰囲気と雪山の話題が奇妙に重なったせいだろう。
「……あんた、見かけない顔だな。
あの山に用でもあるのか?」
ひとりの中年男が、おずおずと声をかける。
サイラスは唇を少しゆがめ、ローブの襟を撫でてから答えた。
「噂を聞いただけだよ。
魔女がいるとか、呪いがあるとか。
確かめたいんだ。
どれほど恐ろしい顔をする魔女なのか、楽しみじゃないか。」
その言葉に、男は明らかに困惑した表情を浮かべた。
雪山の魔女の話題は、人々の恐怖と結びついているはずなのに、まるでサイラスは新しい娯楽を探すかのようだった。
やがて村人たちが離れていき、サイラスはこっそり外へ出る。
風に吹かれながら、一息ついて雪山を仰ぎ見た。
暗い雲が垂れ込め、厚手のマフラーをしていないと肌が切れそうな寒さがある。
だが、その凍てつく景色さえ、彼にはどこか魅力的に映っているようだった。
翌朝、山道へと通じる標識には、奇妙な細工が施されていた。
本来であれば危険を示す赤い印が残され、遭難を防ぐための道しるべが整っているはずだったが、サイラスの幻術によって文字はすっかり書き換えられている。
村人が目にするのは「安全ルート」との表示だが、実際には谷底に続く危険な道。
あるいは「この先行き止まり」と書かれているはずの標が、いつの間にか「ここが唯一の近道」に変わっていたりする。
「魔女がやったに違いない……!」
朝早く山道に入ろうとした若者が、誤った標識に導かれて危うく谷へ足を滑らせそうになり、慌てて戻ってきた。
それを見ていたサイラスは木陰からくすくすと笑みを漏らす。
吹雪はまだ本格的ではないが、彼の仕掛ける些細な幻が人々の恐怖を増幅させるのを、興味深そうに眺めている。
「やはり魔女の呪いだ、あの山には近づくな。
大勢が遭難しているんだ……!」
村に戻ってきた若者は真っ青な顔で周囲に警鐘を鳴らす。
怯えた声を上げる人々の姿が、サイラスの目には実に滑稽に映った。
午後になると、さらなる吹雪が山肌を覆い隠し始めた。
視界が悪く、道を見失いやすい地形が雪に埋まっていく。
サイラスはローブを翻しながら、わざと吹雪の中へ踏み込んでいく。
足元を取られそうな雪道も、彼にとってはただの遊び場。
「さて、肝心の魔女に会えるだろうか。
噂ばかりじゃつまらないからね。」
そう呟いた矢先、吹雪の切れ間から木造の小さな山荘がちらりと見えた。
建物は雪に埋もれながらも、かすかな明かりを宿しているようだ。
その中で、白い毛皮のケープをまとった女性が静かに佇んでいた。
「あら……あなた、旅の人?」
か細い声が風にのって聞こえる。
一目で普通の魔女像とは違うと悟ったのか、サイラスの顔からわずかに興味深そうな色が消えた。
銀色の髪をまとめ上げたその女性――アミトリアは、寒さなど意に介さない柔らかな表情をしている。
サイラスは一歩近づいて顔を覗き込む。
「噂の魔女ってわけ?
ずいぶんと優しげな顔だね。
恐ろしい形相で呪いを振りまいてるって話だったが……拍子抜けだな。」
アミトリアは困惑するように首を傾げ、雪山の厳しい寒風を背にしながらサイラスを見つめる。
「私は治癒の技を少し知っているだけです。
病んだ人や傷ついた動物を見ると放っておけなくて、山の中でひっそりと暮らしているだけ。
村に呪いをかけるなんてことは……。
そんなつもりはありません。」
サイラスは苦笑まじりに肩をすくめる。
「それが本当なら、ますます面白い。
誰もが君を恐れ、呪いだの魔女だのと騒いでる。
本人はそのつもりがないなら、余計に不幸じゃないか。
まあ、俺は嫌いじゃないけどね。
無実なのに怖れられるのって最高だろ?」
アミトリアはサイラスの言葉にぎょっとした顔を見せる。
しかし、彼の瞳には好奇の光が宿ったまま。
悪意があるというより、まるで何か面白い玩具を発見した子どものようにも見える。
彼女が問い返そうとした瞬間、再び吹雪が強まり、雪煙が二人の間を巻き込んでいく。
サイラスは慌てる様子もなく、まるで嵐の行方を見定めるかのように目を細めた。
怯えた山荘の明かりや、慌てふためく村人たちの姿が、頭の中で楽しい光景として組み上がっていくのを感じる。
「噂通りの恐怖がないなら、作ればいいんじゃないか。
雪山はいい舞台になる。
あんたにも協力を頼もうかと思ったが……やめておく。
無実なら無実でいい。
こっちが一方的に楽しめば済む話さ。」
そう言い残して、サイラスはローブを翻し、吹雪に消えるように歩き出した。
雪にかき消される前にちらりと振り返ると、アミトリアは戸惑ったまま動けずにいる。
魔女扱いされ、誰からも理解されず、ただ静かに雪山に生きている。
彼女の困惑の表情こそが、サイラスには一番興味をそそる材料だった。