第1話 奇妙な来訪者
町外れにある花街は、空気が沈んだまま動きを失っている。
かつては華やかな装飾と人の声で満ちていた場所だと聞いても、それを思い出せる者はもうほとんど残っていない。
店先には色褪せたのれんが垂れ下がり、通り沿いの飾り花はとっくに萎れきっている。
女主人のロノワールはその姿を見つめながら、客足が途絶えたままの店に今日もため息を落とした。
「もう、どうにもならないのかしら。
いっそ店を畳むのも考えないと。」
ロノワールは静かに呟き、しわが寄った指先を見下ろす。
さほど年を重ねているわけではないが、疲労が表情を曇らせていた。
豪奢な刺繍の着物も色褪せ、かつての艶やかな雰囲気は微塵も感じられない。
そんな彼女の目の前に、ひょっこりと男が姿を現した。
黒と紫のローブをまとい、痩せた体つきに合わないほど張りのある声で店の様子を見渡している。
驚くほど細い指先には、奇妙な刻印が刻まれているようだった。
「ここ、昔はずいぶん賑わってたって聞いたんだけど。
今は廃墟みたいだね。」
男は顔だけをこちらへ向け、唇をゆがめる。
その目はどこか楽しげに光っていた。
「客なんて来ませんよ。
気の毒ですが、見る場所を間違えたんじゃないですか。」
ロノワールが少し苛立った調子で応じると、男はすっと距離を詰める。
そして、まるで魅惑的な景色を眺めるように目を細めた。
「そうでもないさ。
嘆いている人の顔を見るのが好きなんだ。
君は、いい表情をしてるね。」
その言葉にロノワールは戸惑い、次に来る台詞を探せずにいた。
男の口元には冷たい笑みが浮かんでいる。
「名乗るほどでもないけど……サイラスでいいよ。
さて、この寂れた花街をちょっとだけ賑やかにしてみようか。
もちろん、本当に活気が戻るわけじゃないが……。
少しぐらい幻想を見せてあげようかと思ってね。」
不意に告げられたその言葉に、ロノワールは怪訝そうな顔を向ける。
しかし、店を開けていても客が来ない現状を思うと、否定する気力も湧いてこなかった。
サイラスは通りへ出て、ひび割れた石畳を軽く蹴るように歩く。
しおれきった花の飾りを一瞥すると、空の彼方に向かって薄く指をなぞった。
その瞬間、ぼんやりとした光の粒が通り沿いに伸び、ふわりと形を成し始める。
遠目には鮮やかな衣装をまとった遊女たちが、通行人に愛想を振りまいているようにしか見えない。
だが、近づいてみると身体は透けており、笑い声はかすれた残響として風に消えてしまう。
「あら……。
なんて綺麗……。
だけど、なんだか妙に不気味ね。」
思わず路地を通りかかった若い娘が足を止めた。
彼女は綺麗な遊女を真似る幻影に手を伸ばしてみるが、幻はすぐに消え、代わりにかすかな嘲笑が耳元をかすめるだけ。
その声に驚いた彼女は、顔を強張らせながら駆け去っていった。
「楽しみ方をわかっていないんだね。
ま、嫌なものからは逃げたくもなるか。
でも、これで少しは人が集まるかもしれないだろう?」
サイラスは通りを見渡して言いながら、指先をもう一度ひらひらと動かす。
今度は風に舞う花びらのような光の粒が散らばり、見る者に束の間の幻の美しさを見せる。
しかし、手に取ろうとすると途端に消え失せ、何とも言えない虚しさだけが残る。
ロノワールは戸口に立ったまま、複雑な面持ちでサイラスの所業を見つめていた。
「客寄せになるかもしれないけど……本当の賑わいじゃないものね。
こんな偽物に騙されたって、後で余計に落ち込むだけだわ。」
そのつぶやきを耳にしてかしないでか、サイラスは肩をすくめる。
「ほら、店に入ってくる奴が一人や二人はいるかもよ。
幻だとわかっていても、綺麗なものに惹かれる人間は多いんだ。
まあ、俺は彼らがどんな顔をするか見られれば満足だけどね。」
彼は淡々と口にしながら通りの隅へと身を移し、幻影の配置を微調整しているようだった。
まるで一人の芸術家が空間をキャンバスに見立てて、好き勝手に絵を描いているようにも見える。
ロノワールはその背中を見ながら、大きく息をついた。
重苦しさは消えないが、奇妙な期待感が胸の奥に芽生えている。
この花街を賑わせるという目的よりも、サイラスという男がどこまで人を惑わせるのかを見届けたい気分だった。
やがて石畳の通りには、好奇心をそそられた数人の通行人が立ち止まるようになる。
幻の遊女が薄笑いを浮かべると、彼らはどことなく落ち着かない様子で足を交互に動かしている。
サイラスは建物の影からそれを眺め、ローブの襟元を撫でながら小さく笑みをこぼした。
「このくらいで怖がるとは、面白い連中じゃないか。
もっと魅せてやれば、花の街には相応しい悲鳴が響くかもしれない。
ねえ、ロノワールさん。
その顔、今は少しだけ生気が戻ったんじゃない?」
皮肉とも本心ともつかない問いかけに、ロノワールは半眼を向ける。
けれど、口には出さないまま店の戸を開けた。
怪しい幻術に手を貸すつもりはなかったが、今は状況を見守るしかない。
その決断がどんな結果をもたらすのか、彼女自身も見当がつかなかった。
サイラスの生み出す幻影は、今ここを歩く人間たちの心を少しずつかき乱し始めている。
廃れたこの花街に再び活気が戻るわけではないと、どこかで誰もがわかっている。
それでも幻のきらびやかさに引き寄せられた足取りは、気づいたときには抜け出せない深い迷路に迷い込みかけていた。