第十六章 精霊女王
ヤエルはグラントの背中に手を添え、まるで大型犬にそうするかのように撫で繰り回した。
「良い! 魔王を前に膝を折り、青褪めて命乞いをする弱さ! 可愛らしいわ!」
何故そんなに目をキラキラさせているんだ。
「お前も魔力はあるみたいだけど……攻撃はほとんどできないようね。それもまた良いわ!」
「えっと、あの……?」
状況を呑み込めないグラントが、私とゼオとヤエルを交互に見る。
「お前、名は?」
「グラント・コラールです」
「グラントか。お前がアタシの奴隷になるのなら、あの魔王から守ってあげるわ」
「それは本当ですか! 是非お願いします!」
グラントが食いつく。
話の流れについて行けずにゼオを振り返ると、彼は頭痛を堪えるかのように額を押さえていた。
「……まさか、ヤエルが誘拐犯を気に入るとはな」
「つまり?」
「精霊女王の庇護下に入ってしまえば、魔族は手出しできん。まぁ、その男にとっても、良い事だけではないがな」
そう言いながらグラントを見るゼオの目に、哀れみのような同情のような色が宿る。
「……という訳で、この男はアタシがいただくわね」
「わかった。煮るなり焼くなり好きにしたら良い……それより、《精霊の宝玉》を……」
「わかっているわ。あれはあの小娘には渡さない。この男はもうアタシの奴隷だし、アタシを裏切れない……あの小娘にできる事はもうないでしょう」
「……これで諦めるようなら、俺も心配などしないんだがな……あの小娘は底が知れん……放っておいたら取り返しがつかない事になると、俺の勘が言っている」
「……アンタがそこまで言うって、よっぽどね。わかったわ。事が落ち着くまで、ケイロンを呼んで警護させることを認めるわ」
ヤエルが頷くと、グラントが露骨に「げっ」という顔をした。先程ぼろくそに負けた相手なのだから当然だろう。
「ケイロン」
「此処に」
ゼオに呼ばれたケイロンが顕現する。
「精霊の谷に留まり、あの小娘から《精霊の宝玉》を守れ」
「御意」
話の流れを聞いていた訳でもないのに、ケイロンは異を唱えることなく敬礼する。
そしてヤエルを振り返った。
「お久しぶりですね。ヤエル様」
「……お前は強いから嫌いよ。あまりアタシに構わないで」
「ええ。私はあくまでも魔王様のご命令で此処におりますので、精霊王の手を煩わせる事はありません」
「アタシは精霊女王だと何度言えばわかるの?」
ヤエルがじと、とケイロンを睨む。
彼は厭味ったらしく笑った。
「だって、ねぇ……」
言い合いが不穏過ぎるが、仲が悪そうなのを通り越して子犬と子猫がじゃれ合っているようにも見えてきてしまう謎現象が起き始めた。
「そもそも精霊には性別がないからな」
二人の様子を眺めていたゼオが呟く。私とグラントは同時に「えっ」とヤエルを振り返った。
グラマラスな体型で、どこからどう見ても美女でしかない。
「もぉー、魔王ってば野暮ねぇ。性別なんてどうだっていいじゃない。アタシはそんな小さな事にこだわらないの」
「それならばわざわざ女王を名乗る方がおかしいのでは? それに強い女と弱い男が好きだと豪語しておいて、性別に興味ないというのは無理があるかと」
すかさずケイロンがツッコミを入れる。
ヤエルは不愉快そうに眉を寄せた。
「だって、精霊王より精霊女王の方が可愛い感じがするでしょう?」
「そういう問題ですか?」
「それに、精霊女王って名乗っていた方が、人間の男を奴隷にしやすいんだもの」
うふふ、と笑う笑顔に凄みが増す。
グラントが早まったことをしたのではと、再び青褪めた。
「じゃあ、その見た目は……?」
「アタシは自分の好きな姿をしているだけ。まぁ、必要があれば姿は変えるけどね」
「必要があれば?」
「エレス、それ以上ヤエルの話を聞く必要はない。行くぞ。念のため、《悪魔の鏡》を奪い返した方が良い」
ゼオが身を翻す。
彼の言うことは尤もなので、私もそれに続いた。
《悪魔の鏡》は魔族の支配領域である場所に封印されていたもので、元々の所有権は魔族にある。
何故封印されていたのか、それは当然、《悪魔の鏡》がとても危険な代物だから。
《悪魔の鏡》は、その鏡に映った者の欲している光景を見せてくれる。
そしてそれは、必ず実現するのだ。
つまり、使い方によっては世界を思いの儘にできてしまうのである。
ただし、その実現する光景は鏡が選ぶ上に、本当に望む通りになるかはわからない。
例えば、金持ちになりたいと願った人間が、大金を手に入れる自分の姿を《悪魔の鏡》で見た場合、直後に自分の親や配偶者が死んで遺産が入ることになるなど、必ずしも本人にとって幸せとは限らない事態になる事が多いのだ。
加えて、使用者は何かしらの代償を支払わなければならないとされている。それが何かは人により異なるという。
結果として、何が起きるかはわからず、使用するにはかなりのリスクを伴うのである。
いずれにせよ、セリナが特級魔術が使えるようにならなかったとしても、彼女が《悪魔の鏡》を持っているのは良くない。
ゲームの攻略情報を知っている彼女が《悪魔の鏡》の危険性を理解していない訳はないが、《精霊の宝玉》の入手に失敗したことで、自棄を起こして使用してしまう可能性はゼロではないのだ。
セリナが妙な気を起こさないことだけを祈りながら、私はゼオの転移魔術でその場を離れたのだった。




