默の森
森には近づいてはいけないと、小さなころから言われていた。
美しい森の主様が、人を魅了して自分の境界へと連れ去ってしまうのだと。
数十年に一度思い出したように主様へと捧げられる生娘は、若い姿のまま森の精になるのだと。
七つ年上の姉が、六十余年ぶりに森の奥へと向かった。
わたしは当時幼くて、ただ優しい姉がいなくなってしまうらしいことだけが悲しくて、泣きわめいて引き留めては大人たちを困らせた。
あねさまは立派なお務めを果たすのだと、言われてみても森は恐ろしかった。
あの時の姉の年を越えたころ、わたしは村を出た。
父の家業を継ぐことはなく、許婚者の涙を振り切り、街へと向かったのは強さを求めてだった。
かつてなにもできずに見送るしかなかった姉を、迎えに行くことができるだけの強さが欲しかった。
十年が過ぎて、わたしは村に帰る。
ただ腕によらぬ力を、身に着けたと確信できたため。
村の者はだれもわたしを見分けず、見知らぬ旅人が来たことに気を払わなかった。
わたしが身にまとうのは、思いを逸らす効果を持たせた外套だから。
いくらかの苦労により風貌が変わっている自覚もある。
許婚者であった娘は、子を背負って井戸水を汲んでいた。
父は亡くなり、母は家族のない者たちの集いに身を寄せていた。
村々のために愛娘を差し出した母として、森を鎮めるため犠牲になった者として、悪くはない扱いを受けているようだった。
わたしはそれに感謝し、集いの囲いへと持てる金をすべて置いてきた。
わたしは、その足で森へと向かう。
森の主と刺し違える覚悟を持って。
姉は今ごろ四十路に近い。
こんなに時間がかかってしまったことに、自分を責める言葉しか浮かばない。
固く閉ざされているはずの森の境界は、なんなくわたしを受け入れた。
聴こえたのは女性の歌声だった。
反響し、霧散し、そしてまた繰り返される。
それが姉の声なのか、はっきりとはわからなかった。
そしてしかと耳を澄ませば、それは唯一つの声ではなかった。
わたしは身震いする。
絡み合うそれらの美しい音は、人のものには思えなかったから。
もしや姉も、本当に人ならざる者になってしまったのではと危惧したのだ。
奥へ奥へと進むにつれ、どれだけ目印をつけていても来た道は失われてしまった。
わたしも森に魅入られるのだろうか。
意識をしっかりと保つために、わたしは拳を深く握った。
ふと思い立って、わたしは姉を呼んでみた。
幼いときのように、響く声へと向けて、あねさま、と呟いた。
一切の音が消えた。
歌声はもちろん、風も、鳥も、虫もそして獣の気配さえも。
瞬きの後に、わたしが立っていたのは光の中だった。
眩いのに、不思議と目を開けていられる。
音はない。
来たことはおろか想像したこともない場所であるのに、わたしはそこを懐かしいと感じた。
目の前に誰かが立っていた。
光ゆえにその姿は見えなかった。
けれど、それが森の主であることをわたしは確信した。
――人の子よ、なぜ来た。
声なき声が思考に見えた。
聴こえぬのに、それは男性のように思えた。
「わたしの姉を迎えに来た」
――ここは最奥、それを知ってか。
「元より承知」
――おまえの希はもはやない。
その言葉に身が竦む。
「確かか」
――ここに在るのは默のみ。
「姉はどのようになったのだ」
――ここに留まり、『声』となった。
「人ならざる者に、あなたが変えたのか」
――願いをもって、己が意志により。
「言葉によってわたしを謀るか」
――なんの、その必要はない。
光が動いた。
その中に、姉の姿を見てわたしは息を呑む。
「あねさま!」
応えはない。
その瞳はわたしを映さず、森の主を見ているようだった。
ほどなくこれは幻であると気づく。
若い姿のままの、記憶の中のままの姉は、その唇から語り始めた。
――あなたさまの慰めとなれるのであれば、この身になんの意味がありましょうや。
――わたくしはここに留まりましょう。
――あなたさまの『声』として。
――いついつまでもあなたさまとともに。
「うそだ!」
姉の幸せそうな表情に、わたしは戦慄く。
森の主は答えず、幻は無情にも続いた。
――ひとつだけ、思いを残したく。
――どうか、きっとあの子が来たならば。
――姉は幸せであったと。
――そう伝えていただきたいのです。
――いついつまでも愛しているよと。
――おまえを案じているよ、と。
ほろほろと溶けゆくように姉の美しい微笑みは消えて行った。
わたしはそれをじっと見つめた。
頬を濡らすのは姉の背を見送ったとき以来に思えた。
迷い子のような気持ちで光を見渡す。
ここは最奥、人が留まれぬ場所。
留まれば、人ならざる森の精になるのだと。
諾々と、姉がそれを受けたなど、どうして信じられようか。
森の主はわたしに告げる。
――人の子よ、疾く去ね。
――人として生きよ。
その言葉に主を見やると、色とりどりの感情が思考に見えた。
そして、わたしは理解する。
森の主は、元々なにも欲していなかったのだと。
崇められ、恐れられ、いつからか人の娘がやって来るようになり、その度にこうして人里へ戻るように説得してきたのだと。
ある娘はそれを喜び、ある者はそれを嘆き、そして願いを持った者だけが、最奥に留まり『声』になったのだと。
姉は、森の主の元で永遠にあることを選んだのだ。
默の森にあって、声なき主の『声』として在ることをよしとしたのだ。
孤独というにはあまりに高い、悲しみとするにはあまりに深い、人ならざる森の主の慰めとなるために。
気がつくと、わたしは森の外縁に立っていた。
心の奥をざらりと触った痛みのような記憶が、虚しさと渇きをわたしに教える。
姉の選択をわたしは理解できない。
人の基準で生きてきたわたしには、それは手に余る考えだ。
姉が森へと消えたとき、わたしはわたしの願いを捨てたと思っていた。
違う、わたしは選べなかった。
だから、留まれなかったのだ。
人であることに未練を残して、立つことのできぬ場所なのだ。
わたしは村に入らなかった。
街に帰ることもしなかった。
これからどこへなりと歩いて行こう。
いつか姉を祝福できるように。
読んでくださりありがとうございました