全てはあなたのために [クララの視点]
『誰?泣いているの?』
夜の薄暗いリネン室の隅に、うずくまったメイド服を見つけて、私は声をかけた。
それは仲良くしているメイド仲間だった。私は駆け寄って、その背中をさすった。
『どうしたの?具合が悪いの?』
心配する私を振り返った彼女は、目に涙をいっぱい浮かべていた。その顔は真っ青で、体がガクガクと震えている。
『ねえ、どうしたの?彼を呼んでこようか?』
料理人の一人は、彼女の恋人だった。二人は近く結婚することが決まっていたけれど、そのことはまだ公にはなっていない。
『ダメ!やめて。彼には言わないで!お願いよ』
そう言って必死に私に取りすがる彼女を抱きしめ、私はその冷えた体を温めるようにさすった。
『分かったわ。でも、大丈夫なの?こんなに冷えて。すぐに部屋に戻りましょう』
私の言葉に彼女は怯えたように叫んだ。
『ダメ!ダメよ。戻れないわ。もう迎えが来ているかもしれない!』
『……どういうこと?』
私は彼女を椅子に座らせて、お湯を沸かして飲ませた。彼女はそれでもまだ、ガタガタと震えていた。
『執事様がいらしたの。ご猶子様の夜のお相手をしろと』
私は持っていたカップを取り落した。石畳の床に木のカップが当たった音が響いた。
『そ、そんなこと!すぐにメイド長様に相談しましょう!大丈夫、きっとなんとかなるわ!』
気休めだとは分かっていても、私はそう言わずにはいられなかった。
実際は、誰も何もできないだろうことは知っていた。私たちメイドも料理人も、使用人すべてはご主人さまの所有物だった。
誰も逆らうことはできない。逆らえば死か、それ以上の苦しみが与えられる。
『彼と逃げて!まだ間に合うわ。私がなんとか誤魔化すから』
『そうね、ありがとう』
彼女はそう言って、少しだけ笑ったように見えた。そして、フラフラと立ち上がった。
『厨房へ行くの?ついていこうか?』
私は急いで、今にも倒れそうな彼女を支えた。そして、彼ならきっとなんとかできると信じることにした。
そうでなければ、私の心も潰れてしまいそうだった。
『大丈夫。あなたに迷惑がかかってはいけないわ。何も知らなかったことにして。お願いよ。じゃないと、あなたが行かされてしまう。そんなことになったら、私は生きていけない』
必死でそう言う彼女に、私は黙って頷くしかなかった。
彼女は厨房のあるほうへ向かって、壁を支えに使いながら歩いていった。その後ろ姿は頼りなげで、今にも夜の闇に溶けて、消えてしまいそうだった。
そして、私は、あのとき彼女の手を離してしまったことを、ずっと後悔することになった。
そのまま姿を消した彼女は、翌朝、城の裏手の塔の下で、冷たくなって発見された。その死はノイローゼによるものとされ、事件は闇に葬られた。
そして、数日後に恋人は厨房で首を括った。出入りの業者との癒着の発覚を怖れたためだと、みなにはそう説明された。
私たちは人間ではなかった。物であり駒。それが私たちの人生だった
―――――
「今夜、私のかわりにアレクのお世話をお願いしたいの」
休暇前の最後の夜に、王女様にそう言われたとき、私は最初、何のことなのか分からなかった。
そしてそれが、殿下の寝室に侍るということだと知っても、すぐにはその意味が理解できなかった。
「王女様、それは無理です!そんなことできません!」
これは当たり前の反応だと思う。
だいたい、殿下が私を閨にご所望されるはずもない。私が寝室に現れたら、たぶん腰を抜かすと思う。
それぐらい、ありえないシチュエーションだった。
「殿下はとてもお疲れなの。癒やしてさしあげる人が必要だわ。でも私は今日はお相手できない。クララ、あなた、相手がアレクでは不満なの?」
「王女様、そんな意味ではなくて!いくらなんでも無理です!殿下だって嫌がられます!」
王女様と押し問答の末、なんとかこの件は回避できたように見えた。
「そうなの。どうしてもダメなのね。そうよね、あなたにはローランドがいるものね」
ローランドはこの際あまり関係ないけれど、それで王女様が納得してくれたなら、まあ、嘘も方便だということだろう。私はほっと胸をなでおろした。
それなのに、その後の王女様の言葉を聞いて、私は気が狂いそうなほどの焦りと恐怖を感じた。
「今夜はヘザーにお願いしましょう。クララがローランドのために断ったと聞けば、ヘザーは引き受けてくれると思うわ」
「ちょ、ちょっと待ってください!ヘザーには好きな人がいるんです!」
「そんなこと言ってなかったわよ?」
「ヘザーがかわいそうです!いきなりそんなことになるなんて!」
ダメだダメだダメだ。ヘザーを私の身代わりにするなんてダメだ!そんなことをしたら、ヘザーが死んでしまう!
私はなぜかそう確信した。なぜか分からないけれど、ヘザーは好きな人以外とそんなことになったら、絶対に自分自身を許せないだろうと思う。
王女様は本気だ。私が行かなければ、ヘザーが行くことになる。ここで止めなかったら、取り返しがつかないことになるかもしれない。
大事な親友を失いたくない。もうあんな思いは絶対に嫌だ。後悔はしたくない!
「さ、クララはもう戻っていいわ。ヘザーを呼びましょう」
「私が行きます」
気がついたときには、もうそう言ってしまった後だった。
王女様は嬉しそうに頷くと「ありがとう」と言って、寝室のほうへ退出してしまった。私は呆然とその場に立ち尽くした。
これはもう不可避だ。私は後宮の一室で、侍女長様のなすがままに、夜伽にための準備を受け入れた。
ちょうど支度を終えたとき、いつものようにカイルが迎えに来た。私はこんな成りをした自分が恥ずかしく、黒いベールですっぽり顔を覆った。
「カイル、クララを頼みます。なにかあればお前が守るように」
「心得ております」
カイルは侍女長様にそう告げると、私のほうは見ずに、後宮の少し先へと歩を進めた。
きっと私を軽蔑しているのだろう。
私がしようとしていることは、娼婦と同じだ。私はこれから、愛してもいない男に、抱かれに行くのだから。
カイルにだけは、こんな姿を見られたくなかった。
長く真っ直ぐに続く廊下は暗くて、その先は深い闇に吸い込まれているようだった。
その先に待ち受けているものが、何かは分からなかったけれど、実際にはカイルがいてくれなければ、怖くて一歩も進めなかったと思う。
どのくらい歩いたのだろうか。
カイルが立ち止まり、こちらを振り向かずにこう言った。
「この通路は、非常時の脱出用になっています。左に行けば王族の居住区へ、右へ行けば外へ出られます」
逃げてもいいと、カイルは言ってくれたんだ。
でも、ここで逃げれば、ヘザーが代わりに召される。ヘザーは逃げた私をかばって、自分が犠牲になろうとするだろう。
「どちらを選んでも、何があっても、必ず守ります」
カイルはそう言って、その場に跪いた。その肩が少し震えているような気がして、私はそっと自分の手を置いた。
心配かけてごめんね。大丈夫。私は大丈夫だから。
だって、カイルには他に好きな人がいる。私の恋は永遠に叶わないんだから。
こんなときになって、自分の気持ちに気がつくなんて、私は馬鹿だ。
ずっとカイルを頼っていた。支えてもらっていた。それを当たり前だと思っていた。学園にいたときからずっと。
カイルが側にいてくれるから、きつい仕事も頑張れた。ここにいる限りはカイルと一緒にいられるから、ずっとここにいてもいいと思っていた。
そう思ったのは、私がカイルを好きだから。いつの間にか、カイルを好きになっていたから。
「ありがとう」
私はその場にカイルを残して、殿下の部屋を目指した。
ドアをノックすると、中から殿下の声が聞こえた。
「誰だ?」
「クララです」
私が名乗るか名乗らないかのうちに、ドアが乱暴に開かれた。
「なぜここに?何をしてる?」
緊張で震え、歯が噛み合わずに何も言えない私を見かねて、カイルが助け舟を出してくれた。
「王女様のご命令にて、クララ様をお連れいたしました」
「馬鹿なことを!とにかく中に入りなさい。この通路は寒いだろう。こんなに震えて。セシルがひどいことをして、本当にすまなかった」
殿下は冷えた私の両腕をさすって、そのまま温かい部屋の中へ導いてくれた。そしてカイルにも入室するように促した。
「ここで控えております。何かあればお呼びください」
私はカイルの方を見ることもできなかった。それでも、カイルが待っていてくれることで、すこしだけ勇気が出た。
殿下に奉仕することは、国の繁栄のため、民の安寧のため。そして、国力が強まれば、おのずと戦争を回避できる。
騎士であるカイルを、戦場に行かせずに済む。
カイルからは、愛されることもなく、何も望まれていない。それなのに、私はいつも彼に甘えて、守られてばかりいた。
このお勤めは、そんな私がカイルを守るために、唯一できることなのかもしれない。あなたの盾となるための。
殿下はそのまま何も言わずにドアを閉めた。
私はこの後宮で、殿下の閨房で、カイルのために戦うんだ。私にしかできない方法であなたを守る。守ってみせる。
あなたのために、私は殿下の側室になる。
この運命を受け入れる覚悟は、そのとき既にできていた。