夢と小説と私 [クララの視点]
『僕は君が好きなんだ。君が君であれば、他は何も気にしない』
確かにあの人はそう言った。
あの人って誰?これは、あの流行りの恋愛小説の話だっけ? でも、彼は王族じゃない。騎士だわ。
『わが主君に永遠の忠誠を』
そう言うと、彼は自らの剣を鞘から抜き、私へと手渡した。
私はそれを受け取って、右手で高く掲げた後、自分の前に跪く彼の肩に、右、左と順に置き、彼の鼻先に剣を向ける。
これは騎士の儀式だ。このまま彼が剣に接吻をすれば、彼は私の騎士となる。
そう思ったとき、彼はすっと立ち上がり、剣を持つ私の右手の手首を掴んだ。
そして、あっという間に、その手を背後にある大木に押し付けた。彼は私のもう片方の手首も掴んで、同じように大木に押し付ける。
私はまるで、磔になったような格好になった。
白い簡素な服を着た私は、薄暗い森に浮かび上がる処刑者のようだった。
両手首を握る彼の力が強められ、自由を失った私は、目の前にある彼の長くて綺麗なまつげを見ていた。
そうして、その美しい瞳が近づいてくると、そのまま目を閉じ、彼を受け入れた。
それは初めての接吻だった。
やがて、しびれた私の右手が落とした剣が、地面にささってドサっという鈍い音を立てた。そして、その音は暗い森の深くまでこだました。
まるで処刑は終わったかのように、そのまま森は静寂に包まれた。
私は彼を、愛していた。
―――――
夢を見たんだと思う。
ぼうっとする頭を抱えて、私はベッドから出た。
ぼんやりとバスルームに向かうと、マリエルの元気な声が聞こえた。
「おはようごさいます、お嬢様。今日はどのドレスになさいます?」
そうだった。私は昨夜、学園から王都郊外にある男爵家のタウンハウスに戻っていたんだった。
うちは貧乏とはいえ、小間使いくらいは付けてもらえる。マリエルは住み込みで私の面倒を見てくれる、お気に入りのメイドだ。
というのは建前で、実は友達みたいに仲良し。姉妹がいない私にとっては、それこそ妹のような?
「マリエルはキスってしたことある?」
「え?ついにローランド様としちゃったんですか?」
「なんでいきなりローランド?」
「え?じゃあ、殿下ですか!わあっ!すごいじゃないですか!」
「いやいや、なんでそこで殿下が……」
「えー!他にもいたんですか!クララ様、やり手ですわ!」
マリエルは勝手にキャーキャー騒いでいるが、私はなんだかまだ頭が回らなかった。
昨夜のパーティーでちょっと、いや結構ワインを飲みすぎたせいだと思う。
だって、殿下とダンスしたり、ローランドに怒られたり、衝撃の事実が発覚したり、色々あって景気づけが必要だったから。
「ごめん、もういいや。ちょっとなんか食べる。じゃないと目がまわりそう」
マリエルは心得ましたとばかりに、朝食を取りに行った。
私は顔を洗うと手早く白のワンピースに着替えた。なぜか今日はこのワンピースが目についた。
窓際のテーブルの椅子に腰をおろしたとき、マリエルが朝食をトレイに乗せて持って来てくれた。
オレンジジュース、半分に切ったグレープフルーツ、そして蜂蜜をたっぷりかけたヨーグルトと紅茶。
「で、クララ様は誰とキスされたんですの?隠さずに教えてくださいませ!」
周囲に誰もいないことを確かめてから、マリエルは私の向かい側の席に座った。
屋敷にいるときは、こうやって朝から二人でおしゃべりするのが定番なのだ。
誰と言われても。いろいろと幼児チューとか事故チューとか牽制チューとかあるし。
人数としては二人?その相手はずばり、ローランドと殿下だ。マリエルの予想通り。
考えて見れば、私の周りにはほとんど男子がいないのに、その二人と、もれなくキスしちゃってる? うっ、なんか、私ってビッチ?私、ビッチなの?尻軽女?
いやいやいや。ないないない。そうじゃないはず!
ローランドのキスは不可抗力だった!それにカイルとは手しか繋いでない! 誰とでもホイホイとキスしてる訳じゃない……よね?
「ローランド様ですの?王太子殿下ですの?ちゃんと詳しく!」
さすが、使用人の朝は早いだけある。もうすっかりきっちり押せ押せモードだ。
どうしよう。墓穴を掘ってしまった。
私は紅茶にミルクをたっぷり注いで飲んでから、幼児でも事故でも牽制でもない、本当に愛する人とのキスを思い出そうとした。
マリエルは興味津々というふうで、少し頬を赤くして、私の答えを待っている。
「えーと、森の中でね、騎士の儀式で、白いワンピースで」
「はい? なんですか、それ。昨日発売の『真実の愛』の最新話じゃないですか!」
マリエルはどさっと背もたれにより掛かると、ちょっとつまんなそうな顔をした。
それでもすぐに目をキラキラと輝かせて、食い気味に話に乗ってきた。
「素敵ですよね。いよいよ彼は国を捨てて駆け落ちですよ!そして、ヒロインだけの騎士に!もう大興奮!昨日は寝ないで何度も読み返しましたし、メイド部屋はその話でもちきりですよ!あー、私も強引にキスされたい!」
朝の健全な光が入る窓辺のテーブルに、不埒な欲望に身悶えるメイドが一人。どんな絵だ。
私はまだ頭がよく回っていないので、ヨーグルトを頬張りながら考えた。
そうか、あれは小説の話だったんだ。でも、私、最新話、読んでないよね?
「それにしても、昨日発売だったのに、もう読んでたんですか?あ、そうか。ヘザー様ですね!」
「え、ヘザー?」
私は親友のヘザーことを思い出した。
たしかに『真実の愛』は彼女のお気に入りで、私もときどき借りたりしているの。でも、それをマリエルに話したことあったっけ?
そう不思議に思っていると、マリエルは鼻息荒く続けた。
「私とヘザー様は読書仲間ですの!『真実の愛』が出るたびに、感想を交換しているんです!お嬢様の学園での様子もヘザー様から聞いていますよ!モテモテだとか!」
「え?そうなの?ヘザーが?知らなかった……」
あのヘザーが、そんなキャピキャピした話をするとは思えないけれど。おおかたマリエルの勢いに飲まれて、あれこれ聞き出されているのだろう。
それにしても、モテモテなのはヘザーで、私には何のことか分からない。どうせマリエルが盛りに盛っているだけに違いない。
この友人は、とても忠実な召使いだが、ちょっと私を過大評価するところがあるのだ。
「ヘザーさまは出版社にコネがあるそうなんです。最新刊も特別ルートで少し早く手に入るから、うちにも差し入れしてくれていて」
そういえば、昨日のパーティーでもヘザーはこの本のことを話していたような気がする。
カインと会場に戻ると、すぐに近くにいたヘザーたち文芸部の仲間に捕まり、質問攻めに合った。
私は殿下との、いや、アレク先輩との交流のことをあらいざらい白状させられる羽目になったのだ。
もちろん、どうしても言いたくないこと、言えないことは言わなかったけど。
そして、なんやかんやで、とにかくワインをガンガン飲みながら、本の話を聞かされたのだ。酔っていたのであまり覚えてないけど。
みんなはたぶん、私を悪意ある生徒たちから守ってくれたんだと思う。
だって、ちょっと、私たちの集団には、誰も近づけなかったと思う。ヘベレケで。
「そう言えばそうかも。なんか『真実の愛』の話はしたと思うわ」
よくよく思い返してみれば、カイルもなんかそんな話をしていたように思う。
そうか、そういうことか。私は一人で納得した。
ワインのせいで、現実と物語がごっちゃになっているのだろう。しかし、そこまでになるなんて、はっきり言って飲みすぎだ。
私は酔う前に起こったことを、もう一度よく思い出そうとした。
パーティーで殿下と踊ることになったこと、ローランドがそれに怒って絡んできたこと、カイルに連れられて会場に戻ったこと。断片的な記憶しかない。
どうしよう。飲んだら呑まれるな。呑まれるなら飲むな……だよ、正に。
「まあ、いいですわ!『真実の愛』の話はまたゆっくりさせていただきます!それより、今朝、王宮から通達がありましたの。今夜、隣国の王女様との謁見の儀が開かれますよ」
「隣国の王女様?王宮にいらしているの?」
「はい。今朝早く到着されたとか」
ずいぶんと急な来訪だ。普通ならもっと前に告示があるのに。
昨日、ローランドが殿下には婚約者がいると言っていた。それがその隣国の王女様なのかもしれない。
「旦那様は領地に視察にいらしてますし、男爵家の代表はクララ様ですわ。それ相当のお支度をしませんと!」
私を着飾るのが大好きなマリエルは、やってやるぜ的な顔をして言った。
昨日の今日でまたパーティーか。外国からの来賓がある場合、謁見後には歓迎の夜会ももれなく付いてくるのだ。
「こんな時節に。王女様の滞在は外交目的なの?」
「まだ正式ではありませんが、王太子殿下との婚約がほぼ決まったとか」
やっぱりそうか!王女様が殿下の婚約者なんだ。いよいよ、あの閨教育の出番なんだ!
殿下、頑張って!健闘を祈ってます!
殿下の奮闘を祈念して興奮する私とは対照的に、マリエルは膝の上に組んだ手に目を落としている。ちょっと気まずそうだ。
なぜだろう。まさか、噂好きなことを恥じているとか?
いや、そんなことはない!この子はゴシップが大好きなのだ。
私は昨日ローランドに聞いたばかりなのに、さすがはマリエルだ!メイドのネットワークは侮れない
「そんなこと、よく知ってたね」
私が感嘆の色を含んだ声で告げると、マリエルはキリっと私を見据えて断言した。
「お嬢様に関係することは、なんでも聞き逃しませんわ!私におまかせください」
どういう意味だろう?
私と王女様に関係があるとは思えないけど、とにかく何でもマリエルにまかせておけば大丈夫だろう。
貴族社会は色々と格式や作法を重んじるところだし、失敗したら恥をかくのはお父様になる。
それは避けなくては!
「ありがとう。じゃあ、支度をよろしくね」
「心得ております。私はいつでもクララ様のお味方ですわ!」
なぜか妙に熱く忠義をかたるメイドのそばで、私は謁見があるなら夕食はどうしよかなと思っていた。
そして、色気より食い気一辺倒で、私は今日の予定を立てたのだった。