フェアプレー
店の外は、かなり冷え込んでいた。とにかく僕は、一刻も早くクララをべルダの店から連れ出したかった。
まさか、あんな形で、クララがローランドの婚約を知ってしまうとは、思ってもいなかった。迂闊だった。
昨日の今日で、こんな電光石火に話を進めるなど、どう考えてもおかしい。
クララの様子を窺うと、やはり動揺しているようだった。
そうだろう。つい先日まで自分に愛を語った男のことだ。ショックを受けるのは当然だ。
しかも、相手の女性は自分の親友。聡い彼女のことだ、何か不自然な意図に、気がつくかもしれない。
僕の歩調が少し早かったからか、クララは息を切らしていた。
彼女は下を向いたままなので、その感情を読むことはできない。
それでも、吐く息はますます白く、とても寒そうに見えた。
僕は一旦立ち止まって、クララから離れた。
「寒いな。どこかでお茶を飲もうか」
「もう少し、このまま歩きたい」
クララは白貂のコートを来ているが、このままでは少し寒いだろう。
僕は魔法を使って、彼女を覆う空気を暖めた。そして、その手を取った。
「わかった」
さっきより速度を落として、僕はクララの手を引いたまま歩き出した。
高級店が立ち並ぶ通りはアーケードになっていて、地面に雪はない。だが、クララが倒れてしまうのではないかと心配だった。
この数日で、彼女の世界は激変したと言ってもいい。適応できなくても、不思議ではない。
僕らは手をつないだまま、ゆっくりとアーケードの中を歩いた。
ショーウィンドウに映るクララは、ずっと下をむいたままで、もしかしたら泣いているのかもしれない。
それなら、クララの気の済むまで、こうやって歩き続けよう。僕はそう思った。
昨日、執事が書斎に戻ってきたのは、僕が机に向かって数十分くらい経った頃だった。
「旦那様。ジャケットのポケットにこんなものが」
机の上に置かれたものは、黒いビロードの小箱で、誰が見ても中は指輪だと分かる代物だった。
「僕から返しておく」
「承知いたしました」
そのまま出ていこうとする執事を引き止め、クリーニングの必要はないと、ジャケットも置いていかせた。
ローランドにとって、クララが着ていたこのジャケットは特別なはずだ。この指輪も。
僕の勝手で、触れていいものではない。
だが、万一のこともある。中を確認しなくてはいけないだろう。僕はそっと箱の蓋を開けた。
そこにあったのは、筆頭公爵家の象徴であるエメラルドをダイヤが取り囲んだ、息を呑むような美しい指輪だった。
たぶん、王室御用達の宝石店で誂えたものだろう。あそこくらいでしか、こんな高級品は扱えないはずだ。
「べルダのオーダーメイドに、公爵家のエメラルドか」
僕には与えてあげられないような贅沢な生活を、ローランドは難なくクララに保証できる。財力も男の魅力の一部だろう。クララにとっても。
いや、クララはそういう生活を望むタイプではない。ローランドと自分を比較して、僕が単に卑屈になっているだけだ。
ローランドは本気だ。これは財力の誇示ではない。あいつの本気の証拠だ。
あの襲撃がなければ、あいつはクララにプロポーズしていただろう。
そして、今、クララと一緒にいるのは、僕ではなくてローランドだったかもしれない。
殿下との仲を疑っている今、ローランドに取り付くしまはない。だが、誤解はすぐに解けるだろう。
それなのに、それを待たずに攫うようにクララを連れてきてしまったことこそ、僕が恥じなくてはいけないことだ。
これは、彼にとってはフェアじゃない。
僕には殿下のような地位も、ローランドのような財力もない。
それならばせめて心だけは曇りなく、フェアな勝負をして、彼女の気持ちを勝ち取らなくてはならない。
それが、僕がクララにできる、唯一の本気の示し方だ。
僕は書斎を出て客間に入り、ベッドに横になった。まだ夜明けまで少しある。今は眠れるだけ眠っておいたほうがいい。
朝のうちにローランドに会って、もう一度だけチャンスをやろう。
もしも、ローランドが正気に戻っていたら、きっとクララを奪い返しにくる。そのときには、この指輪が必要になるはずだ。
そして、それを受け取るか受け取らないかは、クララが決めることだ。
僕がその選択肢を奪ってはいけない。彼女の人生は、彼女が選ぶべきなのだから。
だから、朝の比較的早いうちに、僕は屋敷を出た。
クララはまだ眠っていたようなので、好きなだけ寝かせておくように女中頭のマーサに指示した。
彼女には、できるだけゆっくり休んでほしかったから。
王宮に到着すると、僕は真っ直ぐに執務室に向かった。ローランドがいるとしたらそこしかない。
途中でヘザーとすれ違った。頬を染めて息を切らしていたが、僕に気がつくと立ち止まった。
「カイル様、クララのこと、ご存知ですか」
「ああ」
「元気ですか?」
「大丈夫だ」
ヘザーはほっとした様子で、よろしくお願いしますと僕に頭を下げた。
彼女はそれ以上のことは聞かず、そのまま王女のサロンのほうへ歩いていった。ずいぶんと急いでいるようだった。
彼女も休暇中のはずだ。なぜ王宮にいるのか知らないが、ずいぶんと幸せそうな印象を受けた。
そのとき、前からローランドが歩いてくるのが見えた。
あの色男が、今日はずいぶんと崩れている。昨夜はあのまま徹夜したのだろう。
ローランドは僕に気が付き、そして、僕が持っている物に気がつくと、その場で立ち止まった。
僕の手には、ローランドのジャケットがあった。
「そのジャケット、なんでお前が持ってるんだ」
僕は何も言わずに、ローランドにジャケットを放った。そして、ローランドがそれを受け取ったのを確認してから、今度は小箱を投げた。
有事には反射反応ができるよう、僕らは訓練を受けている。ローランドもなんなくそれを受け取った。
「悪いが、中を検めさせてもらった。貴重品だったから持参した」
「ああ、確かに俺のだ。わざわざ悪いな」
ローランドは小箱の蓋を開け、中の品物を見つめたまま言った。
お前の気持ちは知っている。だから返しに来たんだ。お前にもう一度、クララに渡すチャンスをやろうと。
それなのに、ローランドはそれ以上は何も言わない。
「渡さないのか」
「これは、もういらないものだ。悪いが捨ててくれないか」
ローランドは僕に、小箱を突き返してきた。
僕は聞き間違いをしたのか?捨てるだって?この指輪を。
クララへの気持ちを、ゴミとして捨てろと言ったのか。
僕はもう一度聞いた。
「渡さなくていいのか、と聞いているんだ」
「ああ」
「これ以上は譲歩できない。本当にいいんだな?」
「ああ。婚約指輪は、別のものを買う。さすがに使い回しはできないだろう」
「どういう意味だ」
「ヘザーと婚約した。指輪は、彼女が好きなルビーで用意する」
僕は頭に血が上るのを感じた。
昨日の今日で、なぜ別の女と婚約する。こいつはクララを忘れるために、ヘザーの好意を利用しているだけだ。
その証拠にどうだ。さっきのヘザーから感じたような幸福感は、ローランドからは微塵も感じられない。
自虐的な苦痛で、自己満足に浸っているだけだ。
気がつくと、僕はローランドの腹に拳を入れていた。ローランドは床に倒れ、メイドの悲鳴が聞こえた。誰かが衛兵を呼びに走っていった。
腹を抱えて床に座るローランドを見下ろしながら、僕は悔しくてたまらなくなった。
僕はこんな男に、クララを任せようとしたのかと。
いや、こいつをこんな風に追い詰めたのは、北方だ。あいつらさえ事を起こさなかったら、こいつも道を外れることなんてなかった。
だが、ローランドのしていることは間違っている。今のこいつは逃げているだけだ。
僕はローランドの襟を掴んで、ぐっと引き起こして、耳元で言った。
「これはヘザーと、それからクララからだと思え。綺麗な顔を避けてやったこと、俺に感謝するんだな」
ローランドはかろうじて立ってはいたが、痛みに耐えているのか少し咳き込んだ。そして、苦しそうな声で聞いた。
「クララは、大丈夫か」
「お前には関係ない」
もう、こいつに遠慮することはない。僕はもう、二度と引く気はない。
こいつは自分で、自分の好機を逸した。それだけだ。
だが、この指輪はローランドのクララへの思いだ。その思いを捨てるか捨てないかは、クララが決めることだ。
それができなければ、クララの中でずっとしこりが残るだろう。
僕は床にころがった箱を拾い上げた。
そして、僕はその場にローランドを残したまま、執務室へと向かった。
私情でローランドを殴ったことは、処罰の対象だ。報告せずに帰ることはできない。
執務室から、同僚の書記官が飛び出してきた。僕を見ると、何も言わずに執務室にひっぱり込み、応接室へ連れていかれた。
どうやら、驚いたメイドが、執務室に駆け込んだらしい。
「お前、何したんだ」
応接室でそう聞かれたが、僕は黙っていた。話すことなどないし、もしあったとしてもそれは殿下に最初に報告すべきだった。
そのことは彼も心得ているので、深追いはされなかった。だが、殿下が来るまで彼は応接室を離れず、僕を監視し、警護していた。
ローランドを殴ったことに後悔はない。だが、同僚にまで迷惑をかけていることには、申し訳なく思った。
そして、殿下と王女が来るのと入れ替わりで、彼は黙って退室していった。
「話はセシルから聞いた。言いたいことはあるか」
「ありません。ただ、処罰をいただきたく」
「理由も聞かずに、罰することはできない」
「すべて私の責任です。ローランドに落ち度はありません」
「それなら尚更、理由は言えるだろう」
「ご処分を」
どんなことであっても、クララに関することを殿下に言うわけにはいかない。
殿下は昨夜、きちんとけじめをつけた。あれですべては終わったのだ。これ以上、煩わせる必要はない。
「私の側近と円卓が対立したとなると、軽い沙汰ではすまないが」
「心得ております」
殿下は僕の頑なな態度を見て、諦めたように言った。
「わかった。それでは謹慎を言い渡す。許しがあるまで出仕しないように」
「ありがとうございます」
たぶん、クララ絡みのことだと、見当がついたのだろう。僕とローランドがクララを慕っているのは、殿下の目には一目瞭然なのだから。
そして、だからこそ、それ以上の追求を控えたのだ。本当は、誰よりも殿下が、クララのことを知りたいはずなのに。
王室室から出ると、ローランドが戻ってきていた。特にひどい怪我にはならなかったようで安心した。
僕はローランドに頭を下げて、執務室を後にした。
ポケットに入っている箱がやけに重く感じ、クララに何かを贈りたい気持ちがこみ上げた。
ローランドからではなく、僕からのプレゼントを受け取ってほしかった。
いつの間にか、僕たちは馬車が止めてあるアーケードの端まで来ていた。
御者がドアを開けてくれたので、僕は俯いたままのクララを先に馬車に乗せた。
クララの手を離そうとしたとき、思いがけず彼女が僕の手を強く握った。
「もうちょっとだけ」
クララは、確かにそう言ったと思う。
僕はそのまま、クララのすぐ横に腰を下ろした。そして、手を彼女の頭に回して、自分のほうへ引き寄せた。
まだ泣いているのなら、顔を見られたくないのかもしれない。それなら、肩を貸してあげるのがいいだろう。
クララの髪から、やわらかいシャンプーの香りがし、抱きしめたい衝動を抑えるのが辛いくらいだった。
僕は御者に、わざとここから一番遠いカフェを目的地に伝えた。
ずっとこのまま、クララの体温を肩で感じていたかった。