雪解けを想う
「学園、楽しかったね」
クララがそうつぶやいた。
僕にとっての学園は場違いな場所で、いつも身の置所がなかった。それでも、クララにはよい環境だったのなら、それはよかったと思う。
「うん」
僕は窓の外の雪を見ながら、学園の輝くような新緑の庭を、軽やかに歩くクララの姿を思い出した。
ローランドの許婚、殿下の思い人。僕の手の届かない女性。
それなのに、なぜか彼女は僕の近くにいた。だから、なるべく適当にあしらっていた。
それでも、姿を見ない日が続くと心配になったし、目の端ではいつもクララの姿を追っていた。
彼女が元気で明るく笑っていると、僕の心も軽くなった。
もっと笑ってほしい。いつでも光の中で、憂いを知らずにいてほしい。
そう願うようになって、そして、気がついた。
僕はクララに恋をしている。今、目の前にいる、このクララが好きだということを。
失ってしまった過去の恋ではなく、今ここで生きている彼女に、恋をしているんだということを。
でも、その恋に踏み込むことはできなかった。彼女を幸せにできる自信がなかったから。
殿下やローランドの側にいれば、それこそクララはどんな幸せでも手に入る。だから、諦めようと努力した。自分の気持ちをごまかして。
その努力は、上手くいっているように思えた。クララの専属騎士になるまでは。
彼女の側にいて守れるという幸福を知るまでは。
「ローランドに会うことある?」
「会いたいの?」
クララの口からローランドの名前が出て、僕の心に影が差した。無意識だが冷たい口調になってしまったのは、自分でもまずかったと思う。
案の定、クララはその後、少し遠慮がちに言った。
「借りている上着を、返したいの。ちょっと破けてしまったから、新しいものもプレゼントしたいんだけど」
そう言うと、クララは側にあった旅行かばんを開けて、仕立てのよいジャケットを差し出した。それは、袖のあたりが少しほつれていた。
ローランドがいつもつけている香水の匂いがして、僕はそれをクララが手にしていることに、強い焦燥感を覚えた。
「ローランドは、服はいつもどこで?」
僕はクララから服を受け取ると、タグを探してみた。もちろん、そんなものはない。思った通り既製品ではなかった。
「ガリア・ベルダだと思う」
王室御用達のオーダーメイドの店か。さすが公爵家のお坊ちゃんは格が違う。
僕は心の中で苦笑をもらした。これがクララのいる世界か。僕には手が届かない場所だ。
「店にサイズはあるはずだ。雪が落ち着いたら行こうか?」
「いいの?」
「ちょっとだけ変装が必要だ。それでいいなら」
「一緒に行ってくれる?」
「ああ」
クララの嬉しそうな顔を見て、たとえそれが他の男へのプレゼントのためでも、僕は役に立てるならいいと思った。
ローランドには及ばないが、殿下の円卓の騎士として、幸いにもそれなりにコネはある。ベルダなら門前払いということはないだろう。
僕はクリーニングするからと言って、そのままローランドのジャケットを預かった。
これをクララには返したくなかった。
雪が本降りになり、馬車はいつもよりも速度をゆるめている。それでも、石畳の敷き方が荒くなったのは揺れで分かる。
街灯の数も少なくなっていた。貴族の屋敷があるエリアを抜けて、商業地区に入ったのだろう。
そうなると、目的地はもうすぐだ。
クララの方を見ると、静かに寝息を立てていた。
それはそうだろう。もう深夜というよりも早朝と言っていい時間だった。昨日はいろいろとあって、クララは疲れているはずだ。
僕は、馬車に備え付けてあるブランケットを、クララにかけた。
僕の前で、こんな風に無防備に眠ってくれることが嬉しく、指でそっとその頬をなでた。
クララが目覚める様子はなかった。
やがて、馬車が速度を落とし、瀟洒な建物の前に停まった。
大きな正面玄関へ数段の階段が伸びていて、馬車はそのすぐ前の車道につけてある。
御者が僕らの到着を告げたらしく、階段の下側にある地下出口から、人がでて来た気配がした。
そして、馬車のドアがノックされた。
「おかえりなさいませ」
僕がドアを開くと、予想通りに執事がいた。
家が没落した今となっては、執事というよりは管理人業務が主だろう。だが、それでも当家に留まっている忠義者だ。
「客人だ。主寝室に寝かすので、僕には別の部屋を用意してくれ」
「承知いたしました」
僕は眠っているクララを、ブランケットごと抱き上げると、そのまま階段を上って正面玄関から中へ入った。
ロビーには、女中頭のマーサが出迎えてくれていた。
「お待ちしておりました。お食事はおとりになりますか?」
「そうだな。彼女を寝かせたら書斎へ行く。そちらにコーヒーをもらえるか」
「かしこまりました」
彼女はクララについては何も聞かずに、そのまま頭を下げて僕を見送った。
説明は明日でいいだろう。今は一刻も早くクララを休ませてやりたかった。
主寝室は暖炉の火でほどよく暖められ、天蓋つきではあるが無駄な装飾はないベッドには、冬用のやわらかなリネンが設えてあった。
僕はクララをそこにブランケットのまま寝かせると靴を脱がせた。そして、上から毛布をかけた。
クララは気持ちよさそうにぐっすり眠っていた。
僕の寝室でクララが眠っている。いつもの夢の続きかもしれない。
その寝顔があまりに可愛くて、僕は思わずその額に口付けた。
そしてそのとき、クララの首筋から、殿下の魔力を感じた。
首筋の頸動脈。クララに小さな魔法を使った、まさにその場所だった。
僕はその場所に、もう一度口付けて、少しだけ肌を吸った。
時間が経っているので、襲撃の記憶は消せない。
それでも、立てなくなるほどのストレスは、これで薄らいだはずだ。
きっと悪夢を見ることなく、ぐっすりと眠れるだろう。
それは、体の良い言い訳だった。本当は他の男の気配を、クララから一掃してしまいたかった。醜い独占欲。
ローランドにクララを奪うようにけしかけたのは僕だ。そして、殿下がクララと別れたことも知っている。
僕はだれにも嫉妬する権利はない。それでも、クララを独り占めしたかった。
「重症だな」
僕はそうひとりごちて、クララのいる部屋を後にした。
そのまま書斎に行き、備え付けの簡易浴室でシャワーを浴びた。夜着にガウンを羽織って出ると、書斎にはコーヒーと軽食が用意されていた。
クララの荷物とローランドの上着も運び込まれており、控えていた執事が、僕用に客間の用意が整ったと告げた。
「あの方は、王女様の侍女ですね。男爵家のご令嬢でしょうか」
「しばらくこちらで預かることになった。よろしく頼む」
「承知しました」
僕はソファーに座って、コーヒーを飲んだ。
これからのことを考えれば少し眠っておくべくかもしれない。
なのに、クララがこの家にいると思うだけで、とても眠れそうになかった。
「彼女は僕の大切な人だ。篤くもてなしてほしい」
僕のその言葉を聞いて、執事は少し目を瞠った。
女性とは無縁できた僕が、いきなりそんな事を言うとは思わなかったのだろう。
だが、すぐに彼は柔らかく微笑んだ。
「旦那様の大切な方ならば、私どもにとっては、主と同等です。心を込めてお仕えさせていただきます」
「ありがとう」
明日になったら、クララの荷物を主寝室に運び、ローランドの服をクリーニングするよう、執事に指示を出した。彼は快諾して下がっていった。
そして、僕はそのまま書斎の机に移動して原稿用紙にペンを走らせた。眠れない日はいつもそうするように。
明日になれば王女の婚約の日程が発表になるだろう。今回の北方の襲撃から、殿下は時期を早めてくるはずだ。
国王陛下が戻るのは七日後だが、そのまえに披露式だけはすることになるだろう。
王女との猶予は婚約式まで。それまでにクララに僕を受け入れてもらはなくてはならない。
いや、僕の気持ちを伝えるところからだ。
僕は王女に大見得を切ったが、勝算については全く考えていなかった。
降り積もる雪は明日には凍ってしまう。すぐには溶けないだろう。
クララの凍えた心を、僕に融かすことができるだろうか。春には君がまた、花の中で笑えるのだろうか。
僕は凍てつく窓の外を見て、外の冷たさに思いを馳せた。