守ってほしい [クララの視点]
私は侍女職を辞し、これから王宮を去る。もう二度と戻ってくることはない。
王女様から、私の存在が婚約同盟の妨げになっていると聞いた。殿下にはお気に入りの側室がいて、形だけの婚姻による同盟は堅固なものではないと。
真実はどうであれ、そういう噂が、北方にまでも届いていることが問題だった。
「ごめんなさい。でも、どうしても婚姻同盟は必要なの」
王女様はそう言って、私に頭を下げた。
そんな必要はないのに。私はいつ侍女を辞してもいいと思っていたし、実際にあまり王女様の役には立っていなかったのだから。
学園で殿下と踊ってしまったこと。王女様のお使いで夜に殿下を訪ねたこと。そして、王女さまが侍女を側室候補だと公言したこと。
この事実だけで、私はなぜか殿下の愛妾に仕立て上げられてしまった。
「今からアレクがここに来るわ。最後にきちんと別れてほしいの」
もちろん、私に異存はなかった。殿下にも、きちんとお詫びを言いたかった。
私のうかつな行動が、殿下や王女様、そしてこの国までも危機に陥れてしまうところだったのだから。
そして、今、私が殿下と別れて部屋と出ると、通路の少し先に、カイルが控えているのが見えた。
私はもう、王女様の侍女じゃないのに、カイルが迎えに来てくれていた。これがカイルの最後の仕事かもしれない。明日からはもう、会うことはないのかもしれない。
そう思うと、胸がぎゅうっと締め付けられた。
それでも、前を向いて、カイルの方へ真っ直ぐに歩いていった。
後ろを振り返ることができなかった。殿下が今、どんな表情を浮かべているのか、それを知るのが怖かった。
カイルが白いコートを肩にかけてくれたとき、背後でドアが閉まる音が聞こえた。
その瞬間、私は張り詰めていたものが一気に崩れるのを感じた。
もう大丈夫。カイルがいるから、もう大丈夫。
そう思うと足に力が入らなくなり、私はその場にしゃがみこもうとした。
私の体は一瞬ふらっと揺れたけれど、すぐにカイルの力強い腕に抱きとめられた。
「大丈夫か」
「うん」
カイルに支えられて、私はゆっくりと歩きだした。
こうしていると、なんだかとても懐かしい気持ちになる。カイルといると安心できる。カイルは決して私を見捨てない。そう信じられる。
もうずっと前から、私はこの腕に、この人に、頼り切っていたのかもしれない。
「いつもありがとう」
「気にしなくていい」
あれ?なんかちょっと、いつもと雰囲気が違う?学園にいる頃のカイルみたいだ。
「口調が、違う」
「専属護衛の任務は解かれた。主従関係じゃない」
「え?じゃあ、なんでここにいるの?」
カイルは少し間を置いてから、無表情で答えた。
「いては悪い?」
「そんなことはないけど、別の仕事があるんじゃないの?」
「ああ。王女の命で、お前のお守りだ」
「何それ。じゃ、特に今までと変わらないじゃない」
カインはふっとため息をついたと思うと、私の頭をコツっと叩いた。ちょっと痛かったかもしれない。
「話、聞いてた?専属騎士じゃなくなった。もう主従関係じゃない」
「じゃあ、どういう関係なの?」
「対等」
対等……それって、どういう意味なんだろう。
学園では、いつも後ろ姿ばかりだった。話しかけても、まともに取り合ってもらえなかった。
専属の騎士になってからは、私を主として扱った。いきなり立場が逆転したようで、私は戸惑っていたのだ。
カイルには、いつも一線を引かれていた。
それが今は対等。私たち同じ位置に立ったの?
そう思うと嬉しくなって、私は少し笑ってしまった。
「少しは元気が出たか」
カイルは私のほうを見ずに、真っ直ぐ前を見て言った。
「うん」
私の返事を聞いて、カイルは私を支えていた腕を離した。少しさびしい気がしたのは、気のせいじゃない。
カイルに触れられるのは心地がいい。ずっと昔から、彼の温かさを知っていた気がする。
扉をあけて外へ出ると、そこは主に業者が使う西門へと続いていた。門の手前の目立たない場所に、ひっそりと黒塗りの簡素な馬車が停まっていた。
雪がひどくなっていて滑りそうなので、私はおっかなびっくりで足を運んだ。
そのとき、急に体が浮いて、私はてっきり自分が滑ったものだと思って目を閉じた。
そして、次の瞬間、私は雪の上ではなく、宙に浮いていた。
「やだ。恥ずかしいから下ろして!」
カイルにお姫様抱っこをされて、私は顔から火を吹くかと思った。
はじめて会ったときも、カイルは怪我をした私を抱きかかえて歩いた。あのときと同じなのに、今回のほうが数倍恥ずかしい。
それはたぶん、私のカイルに対する気持ちが変ったから。あのときとはもう違うから。
「危ないから動くな。つかまっていろ」
私を抱えて雪の上を歩くのだから、確かに足元が不安定かもしれない。私はあわててカイルの首に手を回した。
カイルからふわっと白檀のような香りがたって、私はすこしクラっとした。
カイルは相変わらずの無表情だったけど、髪の隙間にちょっと見える耳が、ちょっと赤い気がする。
……好き。
ふいにそう思って、急に胸が苦しくなった。そして、その胸の痛みで、殿下のことを思い出した。
王宮を退出することになったので、私は殿下と別れの挨拶を交わした。
殿下はいつもと同じに、アレク先輩だったときと変わらずに優しかった。
そして、殿下は最後にこう言ったのだ。
『君を愛している。私が愛するのは、生涯君だけだ。何があっても』
殿下の気持ちを聞いたのは、これが初めてたった。
それなのに、私は不思議な既視感を抱いた。同じ言葉を、前にもどこかで聞いたことがあるような気がした。
なぜか殿下といると、たまにこういう不思議な感覚がある。そして、その感覚が、いつも私の行動を鈍らせてしまう。
今夜も、殿下の腕から逃れることができなかったのは、たぶんそのせいだった。
「前世の恋人」
そうなのかもしれない。もしかしたら殿下が。王族の末裔だったあの人と、王太子である殿下には共通点が多い。
「何?」
私が無意識につぶやいた言葉だったのに、カイルは聞き逃さずに、私の顔を覗き込んできた。
あまりに顔が近づいたので、私は慌てて顔をそむけた。
カイルは、前世とか生まれ変わりとかを信じるタイプには見えない。言ったらきっと笑われてしまう。
「あ、ごめんなさい。そういう不思議体験?ちょっと憧れてて。小説みたいな」
私がそう言うと、カイルは小さく笑っただけだった。
「着いたよ」
いつのまにか馬車の前に着いていて、カイルはドアを開けると、私をそっと座席に下ろした。
あのまま抱っこされていたかった……と思ってしまい、私は自分に喝を入れた。
これはカイルの仕事!勘違いしちゃダメ!
今朝は、もう昨日の朝になるけれど、こうやってローランドと向かい合って、馬車に座っていた。
あれからまだ、1日も経っていないなんて、なんだか信じられなかった。
「カイルは、何か聞いている?」
「ローランドから少し」
「そっか。ローランドは無事だよね?」
「ああ」
ローランドが無事でよかった。カイルも安心したと思う。カイルとローランドはいい友達だから。カイルはものすごくローランド贔屓だ。ヘザーと似ている。
「あいつが気になる?」
予想外の質問だったので、私はちょっと考えた。
「そりゃ、助けてもらったし」
カイルが黙ってしまったので、私はちょっと居心地が悪くなった。
なんでローランドのことなんて聞いてくるんだろう。
「僕が助けてやれなくて、悪かった」
少しだけ顔をしかめて、カイルは悔しそうにそう言った。なぜそんなことを言うのか意図がつかめず、私はぽかんと口を開けてしまった。
「そんなこと。勤務外なんだから、当然でしょう?」
「そうじゃなくて」
カイルはこちらを向いて、私の前髪に手を伸ばした。そして、私の目にかかっていた髪を、少し後ろにかき分けた。
カイル指が額を掠めたときに、体がビクッと反応してしまった。それがなんだか恥ずかしくて、カーっと頬に血が上ったのを自覚した。
「雪がついてた」
「あ、ありががとう」
カイルは私の髪から手を離した。私は火照った頬を冷やそうと、自分の両手で頬を包んだ。
ひんやりとした自分の手の冷たさに、私はまた殿下のことを思い出してしまった。
殿下は、冷たい私の手を、自分の首筋に当てて暖めてくれた。それは、アレク先輩らしい、優しい仕草だった。
もし、殿下の気持ちを聞かなかったら、私はそれを単なる親愛の情だと思っていたかもしれない。
「そうじゃなくて、僕が君を助けたかったんだ」
それを聞いて、私は顔を上げた。君……って言った? もう騎士じゃないのに、私をそう呼ぶの?
「僕じゃ、ダメだろうか」
もしかして、私は妄想を見ているのかな。それか幻聴。何かが勝手に,脳内変換されて、自分に都合がいい解釈になっているのかもしれない。
「僕に守ってほしいと、君に思ってほしいんだ」
私を守るのはカイルの職務で、私が望む望まないに関わらず、私を警護しなくちゃいけないんじゃないの?
なのに、どうしてそんなことを言うんだろう。それじゃまるで、カイルが私のことを……。
「そんなこと。ダメじゃないに決まってる。守ってほしいって、いつも思ってる」
私の返答を聞いて、カイルは目線を少し落として、そして照れたように笑った。
なにこれ。どうしよう。カイルのこんな笑顔、破壊力すご過ぎる。抱きつきたくなってしまう。
落ち着け。落ち着け私!痴女はダメ。勘違い女もダメ!
なんとか平静を保とうと努力していたのに、それはカイルの更なる爆弾で崩壊した。
カイルはこちらに真っ直ぐに向き直り、所在をなくしていた私の両手を取った。
「これからは、僕に君を守らせてほしい」
これは、まさか、愛の告白……じゃないよね?
だって、カイルは今まで、こんなことは言わなかった。彼はいつも、私からは何も欲しがらなかった。
そのカイルが、今初めて、私の気持ちを望んでいる。欲しがってくれている。
心臓が大爆発している私をよそに、カイルは何もなかったように、私の手を離した。
「王女の命で、婚約式まで君を匿うことになったんだ。万事、僕に任せてほしい」
それを聞いて、私は全身から力が抜けた。なんだ、そういうことなのか。やっぱり仕事のことだったんだ。
もう無理。今日のカイル、言動がややこし過ぎる。こんな風に、上げたり下げたりされちゃ、私の精神が持たない。
それでも、私は気を取り直した。カイルには別に変な意図があるわけじゃない。私が勝手に、自分の望む解釈をしたがっている。それが、物事をややこしくしているだけなのだから。
「うん。ありがとう。全部任せるね。よろしくお願いします」
こんな遅くに実家に戻るわけにもいかないし、たぶん王女様の命令はすでに届いている。
戻る場所がないのだから、カイルの言う通りにするしかない。
降り続く雪が、私たちの馬車の轍を埋めていく。後ろの道筋が消え、前にだけ続いていく今が、過去を振り返ってばかりいる私には新鮮に思えた。