前世の約束 [クララの視点]
「今日は泊まっていくよな?」
ローランド、ふざけるにも程がある!
私はローランドのお腹に向けて、思いっきり拳を突き上げた。
しかし、さすがに敵もさるもの。あっさりと躱された。残念!
ローランドは私の隣に座り直し、片膝に自分の額をつけた。心なしか肩が震えているような気がする。
何もそんなにウケなくても!今の拳技が、そんなにツボにハマったの?
「ローランド?どうかしたの?」
まさかこの人、壊れちゃった?
訝しむ私をよそに、ローランドは笑いを噛み殺したような顔をして、私の髪に手を伸ばし、一房を耳にかけた。
「お前、こんな目立つところにキスマークなんて付けてんじゃねえよ。萎えた」
キスマーク?これはおまじないでしょう……。
私はローランドの言葉に驚いて、私は首筋に残る印を触った。
覚えてないの?これはおまじないだよね?あれ?でも、それって子供の頃の話だよね?じゃあ、これはなんだっけ?
夢と現実がごちゃごちゃし、記憶にモヤがかかる。
混乱して隙だらけになった私を見て、ローランドは「しめた!」とばかりに技をかけなおした。なんと私の首を噛んだのだ!噛むのはプロレスでも反則技だ!いくらなんでもひどすぎる!
技をかけられた拍子に、ワンピースのボタンが数個飛んだ。私は思わず「ぎゃあ!」と悲鳴をあげてしまった。
だって、犬にいきなり噛まれたら、誰だって普通に悲鳴あげるでしょう?
私はなんとか体勢を逆転させようともがいたが、やはりもはや体格から違うのだ。
もう、負けを認めるしかない。私は諦めて、ゴングが鳴るのを待つことにした。
不本意にも、おまじないと同じ場所を齧られながら、私はこれだけは確信した。
あの男の子はローランドなんかじゃない。絶対に違う!
あの子のおまじないは、こういう攻撃ではなかった。優しさに包まれた温かい触れ合いだった。
もう一度、あの子に会いたい。そう思って目を閉じたとき、少しだけモヤが晴れて、瞼の奥であの子がこう言った。
『離れ離れになっても、いつか必ずまた巡り会う。僕を忘れないで。君のことも絶対に忘れないから。そのときには、君の幸せな姿を見せてほしいんだ』
視界の闇に消えていくあの子に、私は思わず手を伸ばそうとした。でも、それは記憶の中のことで、もちろん彼を捕まえることはできなかった。
そして、なぜか確信した。あの子はもういないんだ。もうどこにもいないんだと。
ローランドは技を解いて、勝利宣言をしたようだったけれど、私はあの子を失った哀しみの記憶に押しつぶされていて、もう何も聞こえなかった。
なんで?なんで?なんで、あんなに優しい彼が、消えなくちゃならないの。誰がそんなことをしたの?
「なんで」
そう口に出したとき、私は自分が泣いていることに気がついた。
自分でも混乱しているし、意味不明な行動を取っているのは分かっていた。でも止めることができなかった。
彼を返して!そう叫びたかった。
ローランドは自分がやりすぎたと思ったのだろう。上着を脱いで肩にかけてくれた。こいつは悪いヤツじゃない。
その温かさにホッとしたのも、つかの間のことだった。私を支えるローランドの腕に、急に不自然な力が入った。
私たちは北方の軍人に囲まれていた。それは少人数での奇襲だった。
どうしよう!どうしよう!どうしよう!
私は必死で、ブラックベリーの茂みの中を駆け抜けた。
ローランドが死んじゃう!ローランドが死んじゃう!殺されてしまう!ダメ!それだけは絶対にダメ!誰も死んではダメ!死なないで!
細かい棘が手足をひっかき、素足に石が食い込むのも気にせず、全速力で茂みを抜けると街道に出た。
そこにはフードを被った旅の魔道士様が立っていた。
「助けて!死んじゃう!殺される!」
私の叫び声を聞いて、旅の魔道士様がローランドがいる方に走っていった。
私は急いでその後を追ったが、素足ではすぐに追いつくことはできなかった。
果樹園にたどり着くと、黒マントの魔道士様と血まみれのローランドが軍服の男と対峙していた。
「私は旅の魔道士です。たまたまここを通りかかったら、こちらのご令嬢から助けを求められたので、加勢したまでのこと。それ以上の関わりはございません」
私を見つけたローランドがこちらに走り寄ってくる。よかった!ローランドは生きていた!
「クララ!」
ローランドの無事を確認すると、私は急に足に力が入らなくなった。ローランドに抱きかかえられたとき、その心臓の確かな鼓動が聞こえた。
私はローランドの体温に、生きているぬくもりを感じ、安心して目を閉じた。
その後のことは覚えていない。気がついたら私はベッドの上に寝かされていた。
手足の傷はなく、きちんと夜着の着替えていた。あれは夢だったのだろうか。
そう思って周囲を見回すと、ベッドの側の椅子に、座ったまま目を閉じている王女様が目に入った。
私はまだ、夢を見ているのだろうか。
「……王女様?」
私の声を聞いて、王女様はゆっくりと目を開いた。そして、ベッドの上で半身を起こしている私を見て、椅子から跳ね起き、私をぎゅっと抱きしめた。
「クララ!よかった!気がついたのね。ごめんなさい、私のせいで怖い目に合わせてしまって!」
涙声で謝罪を繰り返す王女様の背中を、とんとんとさすりながら、私は北方の襲撃を思い出した。
そうだった。北方の軍人は、私を誘拐しようとしたのだ。あの男はこう言った。
「我が代表が所望するのは、お飾りの正妃ではなく、王太子ご寵愛の令嬢だ。閨に呼ばれたのは、そこにいる男爵令嬢のみ。王太子のただ一人の愛妾だ」
あの男は、確かにそう言った。
でも、そんな事実はない。王女様のお願いで、殿下のお部屋を訪ねたことはある。
それでも、殿下には怒られて追い返されたし、もちろん寵愛された覚えもない。
「欲しいものがあるならくれてやる!俺の命でもだ!だが、女には手を出すな」
ローランドは捨て身で私を守ろうとした。
怖かった。本当に怖かった。もう誰も死んでほしくなかった。もう誰も失いたくなかった。
あんな思いは、もうしたくない。ローランドを失うかもしれない恐怖で、体がガタガタと震えていた。
物心がつく前に、私の母はもう亡くなっていた。その後は、誰も亡くした経験はない。なので、私には喪失の記憶などないはずだった。今生では。
信じられないけれど、あれはたぶん、もっと昔の記憶。過去世とか前世とか言われるような、そういう記憶。
小説の話なんかじゃない。
あれは、昔の私の記憶なんだ。生まれ変わって、また会おうと約束した、前世の恋人の記憶。
「走れ!」
あのとき、ローランドは私をかばって、自分が盾になった。そんな彼を助けたくて、私はがむしゃらに走った。
大事な友達を、私のために死なせるわけにはいかない。
幼い頃から何度も遊びに行っていたので、幸いなことに果樹園のあらゆる抜け道を知っていた。
「ローランドは無事ですか?」
私は急に不安に襲われた。まさか、あの後、ローランドに何かあったんじゃ?
私に抱きついていた王女様は、目に涙をいっぱいためたまま顔を上げて、そしてゆっくり微笑んだ。
「もちろん、無事よ!無傷だったわよ!クララが気を失ったのと同時に、一緒にここへ転移魔法で避難してきたわ」
「転移魔法?それは、あの、旅の方の魔法ですか?」
私は黒マントの旅の魔道士様を思い出した。あの人が助けてくれたんだ。
「ええ、そうよ。気付かなかった?あれはレイよ。北方を追ってたの」
王女様は優しく微笑んだけれど、その瞳は悲しみに曇っていた。
もしや、王女様はレイ様のことを?王女様が愛する人というのは、レイ様のことだったんだ。
「知りませんでした。レイ様を巻き込んでしまって。申し訳ありません」
「いいえ。今回の襲撃の責任は私にあるの。レイは私の失敗をフォローしただけ。それにたぶん、領内に北方の軍師が入った気配を感じて、探索に出てたのよ。だから、あそこにいたのも偶然じゃないの。クララが気にすることはないわ」
王女様はそう言うけれど、私はレイ様やローランドを危険に巻き込み、王女様たちに心配をかけてしまったのだ。
なるべく早く、そのことを謝って、お礼を言いたかった。
「あの、レイ様は今どちらに?助けていただいたお礼を言いたいのですが」
「レイは旅に出たの。とうぶん帰らないけど、その気持ちは伝えておくわ」
王女様は少し目を伏せた。きっとレイ様の身を案じているのだろう。
「そうですか。じゃあ、あの、ローランドは?」
「ローランドは政務に戻ってもらっているの。今はちょっと忙しくて会えないと思うわ。今回のことで婚約同盟の披露を早めることにしたのよ。それにクララは少し休養してからのほうがいいわ!お腹すいたでしょう?なにか食べましょう!」
王女様がそう言って、給仕の呼び鈴を鳴らすと同時に、私のお腹もぐうっと鳴った。
お腹がすいたことに、生きていることに、私はとても嬉しくなった。