騎士たちの決意
あれから、どのくらい時間が経ったのだろうか。嫉妬に焼かれる苦しみに耐えるため、僕はすべての思考を停していた。
永遠か、あるいは一瞬の後に、殿下の寝室のドアが開かれた。
ドアから出てきたのは殿下で、僕を見つけると近づいてきて、静かにこう言った。
「心配をかけたな。セシルには私から話をつける。クララを連れて戻ってくれ」
そして、殿下はそのまま、後宮への通路に去ってしまった。
それだけだったが、僕はすべてを理解した。
殿下はクララを過酷な運命から救った。クララを無事に、王女の奸計から逃したのだ。
それは、僕がしたかったこと、そして僕が成し得なかったこと。それを殿下は成し遂げた。僕との約束を守って。
「こっちを見ないで」
いつのまにか、クララが殿下の部屋から出てきていた。黒いベールをすっぽり被って顔を隠していたが、泣いているのはすぐに分かった。
あれだけ強かった結界が少し弱まり、彼女の感情が波のように僕に流れ込んできた。
クララはひどく混乱していた。
「お願い。見ないで」
僕はクララに腕を伸ばし、自分のほうへ強く引き寄せた。そして、無意識にその震える体を抱きしめていた。
彼女からベールが床に落ちて、暗い廊下にその白いドレスが浮かび上がる。
「大丈夫。大丈夫だ。君は間違っていない」
そう言って髪を撫でると、クララは僕の胸にしがみついて、嗚咽を漏らした。
「私はバカだわ。情けなくて恥ずかしい」
そうじゃない。それは違う。君は優しすぎるんだ。君は誰かのために、こうしようと思ったのだろう。それは殿下もちゃんと分かっている。
「殿下は君を、心から愛している。苦しまなくていい」
本当は、僕が君を愛しているんだと言いたかった。でも、僕には彼女に愛を伝える気はない。
愛する女を抱かなかった殿下の思いに報いるには、僕も彼女に愛を伝えてはいけないと思った。
「何があっても、僕は君の味方だ。忘れないで」
それを言うのだけで精一杯だった。
僕はそのまま、泣きじゃくる彼女を、後ろから支えて立たせた。そして、その真っ白なうなじに口付け、そのまま軽く吸った。
それは悪夢を見た子供に、母親がする古い呪いだった。頸動脈から術式をつかって、直近の記憶を取り除く。
今夜のことは、忘れたほうがいい。君が苦しむようなことは、何もなかったのだから。
薄暗い廊下に浮かぶクララの白いうなじに、薔薇の花弁のような紅が点したとき、彼女の体から力が抜けた。
これで、今夜のことは、彼女の記憶の中では夢のようにベールがかかったはずだった。
気を失ってしまったクララを、僕はそのまま抱き上げ、隠し通路を使ってクララの部屋まで送っていった。
通路の闇はさらに深くなり、そこは深淵の海底のようだった。
翌日の早朝、男爵家から遣わされた馬車まで見送りに出ると、クララは僕に微笑もうと努力していた。
だが、うまく行ったとは言い難い。誰の目にも、彼女は怯えて見えた。
王宮から、僕から離れるその瞬間に、そんな不安そうな顔は見たくなかった。
僕はこれから、彼女と永久に決別するために動かなくてはならないのに。
馬車が行ってしまうと、僕は急いで執務室に向かった。この時間なら、たいていは殿下とローランドしかいない。
殿下はここのところ王女に捕まっているので、朝は遅い。たぶん、ローランドと1体1で話せるはずだ。
執務室に入ると、やはりローランドが一人だけだった。ずいぶんと神妙な顔で書類を読んでいたが、僕の入室を知ると、席を立ってこちらへやってきた。
「クララはどうだ?」
ローランドは挨拶もなしに、いきなりクララをことを尋ねた。やはり気になっていたと見える。
「無事だ。そんなに気になるなら、自分で様子を見に来ればいいだろう」
僕がそう言うと、ローランドは心底、済まなそうな顔をした。
「お前がついているなら安心だからと、つい……な。政務に追われて」
「そんなにきついか」
「ああ、最悪だ。だか、婚約式については正式な日程が決まった。陛下も隣国の国王も参列する」
「いつだ?」
「十日後だ」
「急だな」
「もう、それしか北を牽制する方法がない」
情勢はさらに悪化しているようだった。王女が来て1ヶ月もたたないうちに、もう正式な婚約発表がなされるのだ。
「任せっきりにして済まなかった」
「いや、王女様は人使いが荒いからな。殿下もすっかり彼女のペースだ。お前もクララも苦労してると思ってた」
それを聞いて、僕はさっそく本題に入ることにした。ぐずぐずしている時間はない。
いつここに、殿下と共に王女が現れるか分からないのだ。彼女の計略を阻止するには、秘密裏に事を進めなくてはならない。
「クララのことなんだが、王宮から引かせてくれないか」
「殿下の宣下だ。覆せるのは、殿下と……国王陛下しかいない」
ローランドは不本意だが……という顔で答えた。
「それは分かっている。だが、正攻法じゃないやり方があるだろう。すぐに結婚するとか、既成事実を作るとか。子ができれば産休がとれる」
「おい!それ、本気で言ってるのかよ。俺とクララが?」
ローランドは、ずいぶん狼狽して書類を落とした。慌てて拾うやつの耳が真っ赤なので、それなりにクララとの関係を意識したはずだ。
「本気だし、正気だ。いますぐにあいつをかっさらえ
「無茶言うな。俺たちは許婚と言われているが、実際は婚約者でも恋人でもないんだ。そんな強引な真似できるか。クララに恨まれる」
拾った書類を棚に戻しながら、ローランドは怒ったように言った。
些細なことを気にして行動しないローランドに、僕は無性に腹が立った。
ローランドには、クララを手に入れるのになんの障害もない。それなのに、モタモタしているこいつの気がしれなかった。
「お前にその気がないなら、俺がもらう」
「なんだって?」
ローランドは、僕の言葉に驚いてこちらを見た。
彼がその先を言い出そうとした瞬間に、王女と殿下が入室してきた。僕らは会話を中断して、その場で礼をとった。
僕らを見た王女が、なぜか愉快そうに笑った。
「今日はこのまま、政務に参加させてもらうわ。ローランド、状況を聞かせて?」
ローランドは王女について、殿下の応接室に入っていってしまった。僕は殿下の許しを得て退室した。
殿下はクララのことを聞きたそうだったが、あえて気が付かないふりをして。
クララを選べない者にも、選ぶ気がない者にも用はなかった。
そして、騎士の間で修練を積んだ後、僕は再び執務室へ向かった。そろそろ側近たちが揃う時間だったから。
たまたま回廊を通りかかったとき、誰もいないはずの礼拝堂から物音が聞こえた。
刺客が潜んでいることも考え、僕は剣に手をかけて少しだけ開いたドアから様子を伺った。
そこにいたのは意外な人物だった。
男は膝をつき、女は自分の短剣を抜いて、男の肩に当てた。騎士の儀式だ。
儀式を終えると二人は抱き合い、長い接吻を交わした。僕は気づかれたないように、その場をそっと辞した。
だが、男が僕の気配に気が付かないはずはなかった。礼拝堂のドアは、すでに彼の結界の中だったのだから。
回廊を少し抜けたあたりで、僕は後ろから声をかけられた。
「覗き見とは悪趣味だな」
「偶然だ。邪魔をして悪かった」
僕はそう答えた。声の主はレイだった。
いつもの騎士服ではなく、異国ではよく見かける魔道士のマントを羽織っていた。
「冗談だ。だが、見たことは忘れてほしい」
「分かっている」
よく見ると、レイは旅専用のバックパックを携え、一般魔道士が持つ杖をつかんでいた。
「どこかへ行くのか」
「北に」
その答えに驚いて、僕はレイの肩を掴んだ。
「襲撃が始まるのか?」
「いや。単独で行く」
レイは不敵に笑った。一般の魔道士に身をやつしているのは、変装だということだ。
「早まるな。あと十日もすれば情勢も落ち着く」
「ああ、分かっている。だが、脅威がなくなるわけじゃない」
両国の婚約同盟は、確かに北方への牽制にはなる。だが、いずれは開戦を避けられないだろう。だから、今のうちに北の代表者を暗殺する。
レイはそう言ったが、どう考えても彼に分が悪かった。今、北に行ったら、待つのは死のみだ。
「お前が去ったら、王女は誰が守る?」
僕は肩を掴んだ腕で、レイを強く揺さぶった。
こいつを止めるには、今しかない。今を逃したら、もう永遠に次の機会はやってこないかもしれない。
「王女にはアレクシス様がいる。次期国王としても、伴侶としても、彼女を決して裏切ることはない。信頼に足る方だ」
「それでいいのか。王女はお前を」
「だからこそ、俺は消える。王女の憂いを断ち切る。それが僕の望みだ」
レイは僕の言葉を遮って言った。その考えは理解できる。僕が彼でも同じように思っただろう。
レイは王女の心の拠りどころだ。それはつまり、彼女の弱点にもなりうる。失った後の哀しみより、失うまでの恐怖のほうが深く、その苦しみは長い。
そして、レイがこの世に存在するかぎり、王女は殿下を愛することはないだろう。
「たかが女のために。お前は根っからの道化だな」
「お前に言われたかないね」
レイは楽しそうに笑って、自分の肩に置かれた僕の手に自分の手を重ねた。
その手の重みから、僕はレイの覚悟が変わらないことを悟った。
「死ぬなよ」
「ああ、また会おう」
レイは静かに笑って頷くと、そのまま踵を返した。
これが今生の別れになるだろう。レイが生き残る見込みなどなかった。
そして、レイにはそのつもりもなかった。
愛する女のために死ぬ気だと、僕にははっきり分かった。分かってしまった。
レイの後ろ姿を見送りながら、僕は自分の未熟さを恥じた。
僕はクララのために何をしただろうか?殿下やローランドに託すことばかり考えて、自分では何もしていない。
愛する者を守るために、騎士は戦うことができる。それこそ命を賭けて。僕は僕の方法で、クララを守れる。
その日、僕はやっと、自分の取るべき道を見つけた気がした。