side I
/ side I /
もう何年も昔の話。まだ僕は何処にでもいるただの不幸な子供だった。その頃は汚くて、寂れた貧民街に住んでいた。
いつの間にかその町に住んでいて、気が付いたら両親はいなくなっていた。幼い自分には、その状況を理解するより生きる事の方が大事で、そのために見よう見まねでスリと盗みを覚えた。失敗して血反吐を吐くまで殴られた事もある。
何度も何度も殴られ、蹴られ、地面に叩き付けられた。制裁が終わった後は呼吸をするのも苦しく、目に血が入って視界が霞んだ。薄汚い路地裏で、動けないまま二日ほど動けず、そのまま野垂れ死ぬかと思った。
もう痛い思いはしたくない。その思いが技術の上達に拍車を掛けのかもしれない。
男から、女から、老人から、子供から、時には共同で仕事をしていた仲間からも盗んだ。
明日を生きたかった。空腹を満たしたかった。暖かい寝床で眠りたかった。そのための選択肢が、自分には盗むという一つしかなかった。
仲間からの信頼も失って、次第に一人でいることが多くなった。盗みの回数も多くなり、手荒な事もするようになった。暴力に対する罪悪感も日に日に何も感じなくなり、唯日々を生きるだけになった。大旦那様と出会ったのはそんな生活がしばらく続いた頃。
いつもの様に石段に座りながら獲物を選別していると、通りの向こうから上等な着物を着た老人が歩いてきた。伸びた背筋は老いを感じさせない、歩き方から自信と威厳を感じさせる。そんな人だった。
明らかに町に不釣合いだったが、金を持っていそうだと思って跡をつけた。露店で何かを買っている時に財布の位置を確認して、立ち止まったところを後ろからぶつかって財布を掏る。
「あっ、すみません」
そう言って何事も無かった様に立ち去る。財布の重さを確認してニヤリと笑った。そのままどこかの路地にでも入って中身を抜き取り財布を捨てる……筈だった。
「止まれ」
言われた事はそれだけ。だというのに、聞いた途端体は動かなくなってしまった。形を持った言霊に体を締め付けているような、そんな気がした。
「こっちを向きなさい」
声に従い振り向く。そこには財布を掏った老人がいた。出店で買った饅頭を片手に持ち、モシャモシャと食べている。緊張感の無い姿だが、その視線は鋭く僕を射抜いていた。
「な、なんだよ! なんか用かよ!」
精一杯の強がりでそれだけ言う事ができた。ゴクリと、饅頭を飲み下し、老人は話し始めた。
「何のために人の物を盗む。何故だ?」
正直驚いた。質問してきたその表情に怒りは無く、あるのは純粋な疑問だった。どうしてそんな事をするのか知りたくてしょうがないという顔。しかしその時の自分には、何故だかその顔がどうしようもなく気に入らなかった。
「い、生きるためだ」
声が震える。緊張にも似た心地が全身を包む。
「ふむ、生きるために人の物を盗むか。なるほどなるほど、質問を変えようか。お前はその事についてどう思っている。悪事を働いているという自覚はあるのか?」
「当たり前だ。人の物を盗んじゃいけない。そんな事誰だって知ってる。それでも、俺にはそんな当たり前の事言っていられないんだ」
「何故?」
何故? 今何故と言ったか? この爺さんにはそんな事も分からないのか。
「爺さん、あんた金持ちだろ。見れば分かる。あんたみたいな金持ちには分からないだろうけどな、俺みたいなガキがこんな町で生きていこうと思ったら、盗んだり、人を傷付けないと生きていけないんだよ」
いつもより口調が荒くなる。言っていて悲しくなった。自分の置かれた環境の惨めさに。その事を他人に説明しているこの状況に。
「少なくとも、自分にはその選択肢しかなかったんだ」
吐き捨てるようにそう言った。
「選択肢とは、また随分と小難しいことを言う。私には言い訳にしか聞こえないが、まあいい」
どこか愉快そうに、その老人は笑う。
「何がいいんだよ!」
僕はその態度にひどく腹が立った。思わず大声を出す。通行人の何人かは驚いてこちらを振り向いた。老人はそれを気にした様子も無い。
「…………………………」
急に、老人は見定めるような目で僕を観察し始めた。上から下まで一通り観察が終わると、
「よし、それなら少年、お前に選択肢をやろう」
などと言い出した。自分では分からないが、その時僕は口を開いたまま、間抜け面で放心していたのではないだろうか。
「なっ」
「お前の言う通り、私は金持ちだ。それも使い道に悩んでいる程にな」
さらりと自慢をされた。いや、この老人は自慢をしたのではなく事実を言ったのだ。人を見下していたり、優越感に浸っている表情が見受けられない。その顔はただ楽しくて笑っているといった感じだ。
「私の屋敷に来なさい。ちょうど孫の付き人を探していてね。年も近そうだしちょうどいいだろう。それに――――」
不意に老人の手が伸びる。その手が半端に伸びた前髪に触れた。
「お前は役に立ちそうだし、何より面白そうだ」
手を離し、僕に向けてその手を差し出す。樹木の年輪を思い起こさせるような手だった。
「選択の時だ少年。ここに残るか、私と来るか。選びなさい」
「…………………………」
その沈黙は選択に対する迷いの沈黙ではなく、あまりにも急な展開に対する惑いの沈黙だった。次第に状況は整理され、思考が現在に追いつく。
見上げれば、変わらず老人は笑っていた。
もし、神様がいるとしたら、こんな風に笑うのではないかとぼんやり思った。誰にでも平等に、機会と救いを分け与えてくれるような、そんな噂にしか聞いた事の無いような神様。
その神様が、今自分の目の前で、初めて選べと言ってくれたような気がしたのだ。それに対して迷う理由も、断るほどの余裕も、自分は持ち合わせていなかった。理由は定かではないが、初めて自分を必要としてくれた人。
僕は黙って、その人の手を取った。強く、老人は僕の手を握り返す。
「よし」
一言だけそういって。満足げに一つ頷く。
その日の事を、今でも覚えている。
老人は歩きだす。その後に続き、まだ見ぬ主の元へと、僕は歩き出した。
/I meeted S/
連れられて着いた屋敷はとてつもなく巨大な豪邸だった。
こんなにも大きなものに人が何人住んでいるのだろうかと思い、実際には使用人を含め15人程度しか住んでいないという事実に驚き呆れた。大旦那様曰く、
「言っただろう? 金の使い方に悩んでいると。その結果がこれだ」
だそうだ。しかし、すぐにそんなものに対する驚きは吹き飛んだ。
服装を正され身だしなみを整えられた後、僕は大旦那様にある部屋へ案内された。
「サンナ、入るよ」
ノックの後に入った部屋は殺風景で何やら虚しかった。六、七メートル四方の正方形、その中心に華奢な造りの円形のテーブル、天蓋付きのベット、大きなクローゼットだけが置いてある。
造りからしてどれも高価なものだと分かったが、照明やインテリア、時計さえその部屋には無く、広々とした部屋にしてはあまりに家具が乏しかった。
ドアの向かいの壁に窓が三つあり、白いカーテンが風に揺れ、ゆらゆらと陽光を部屋に招き入れていた。
天蓋付きのベットの上、一人の、恐らく少女が半身を起こすような体勢で身体を預けていた。薄いヴェールのせいでよく見えないが、大旦那様の声に気付いていないのだろうか、答える様子は見られない。
「着いてきなさい」
そう言って旦那様は彼女のベットに近付いていく、しばらくすると彼女も気付いたようで
「……誰ですか?」
と不安そうに声を漏らした。
「こんにちは、サンナ。私だよ」
「お爺様! 今日は着てくれたんですね」
嬉しそうに少女は老人とやり取りをする。位置関係上、まだ僕には旦那様と繋がれた少女の手しか見えていない。様子を伺うために位置をずらそうと身体を動かす。
「あっ、お爺様、もう一人いらっしゃるのはどなたですか?」
気付かれた。気まずそうに俯く僕を旦那様は楽しそうに見ている。
「そうだった。サンナ、今日は前から言っていたお前の付き人を見つけてきたよ。さぁ、こっちに来なさい。この子が今日からお前の使える主だよ」
そう促され前に出る。ヴェールが引かれその姿がはっきりと目に写る。
瞬間、その少女以外の物は視界から消失した。いや、彼女以外の一切が、僕にとって意味が無くなったとでもいえばいいのだろうか。
その日僕は神様に会い、そしてその神様に連れられてきた屋敷で天使に会った。一目でそう思えるほど彼女は美しく、また純粋だった。
奪われるばかりで一切反応できなった僕に向かって、おずおずと手が差し伸べられる。天使の表情は躊躇いと不安の色が浮かんでいる。それで正気に戻った。旦那様は変わらず微笑みながらその様子を眺めている。
この手をとっていいのだろうか? ほんの少しだけそう考えて、こちらもおずおずとその手を握った。少女の表情が明るくなる。嬉しくて安心したような、そんな顔だった。
「始めまして。私の名前はサンナです。これからよろしく。えっと……」
困ったような顔をしている少女の考えが分かったのか、旦那様は僕に向かって、本当にいまさらな質問をした。
「そういえば少年。君の名前は何という?」
名前……。一瞬考えて、それが自分の名称だという事を思い出した。誰かと交わらなかった自分にはそんなもの必要が無かった。誰かがいなければ自己の認識なんて意味が無い。最後に名前を呼ばれたのは何時だろう? 今となっては遠いように感じる過去を思い出す。
最後に呼ばれたのは、そう、仲間を裏切ったあの夜だ。後味の悪い思い出と共に、自分の名称を手に入れる。
「…………イト、イトといいます。えっと、サンナ……お嬢様? これからよろしくお願いします」
たどたどしい敬語で答える
「こちらこそよろしく。イト」
ぱぁっと、少女の顔が綻んだ。嫌な思い出しかない自分の名前も、彼女が呼べばとても素敵な物のように思えた。
そして、とても嬉しそうな少女の顔を見て、できるならばずっと此処に居たいと思った。彼女の傍に居ることができるなら、それだけで自分は幸せだろうと、何の根拠も無くそう確信できた。
握られたて手は、柔らかな陽光の中なお暖かく、深く心の奥に今でも残っている。それだけで何も無い自分には十分だった。初めて必要とされた日の事。
――――今でもそれを覚えている。恐らくはこれからも、遠く遠く、さらに先の未来まで。
初めての連載なので構成がヘタクソかもしれません。




