三章 人類の希望 2
赤錆びた鉄パイプの羅列。視線を軽く動かし、自分がベッドで寝ているのを認識する。
ベッドから始まるはよくあることだ。世界移動した際に、一時的に気絶するらしく、近くにいた誰かが運んでくれたパターンだ。
体を起き上がらせると頭に痛みが走った。触れると包帯の感触があった。相当強く頭を打ったみたいだ。
辺りを見ると、白を基調としたカーテンやベッドが並んでいて、見るからに病室だった。しかし、壁の汚れや決して真っ白とは言えない濁ったカーテンなど、病院にしては些か清潔さが欠けているように思えた。
窓がない病室は初めてだった。
隣の敷居カーテンをこっそりと捲る。
向こう側には息を荒げた知らない人がいた。いや、人かどうか怪しかった。
包帯で全身を巻かれ、唯一鼻と口だけが空いていた。まるでミイラ。人間扱いされていないようだった。
僅かなレールの音に反応したのか「看護師さんかい?」と酷くしわがれた声で尋ねてくる。一語一語発声するのも大変のようだった。
「お腹の辺りがむずがゆいんだが」
僕は反応せず、黙っていると包帯の人は「気のせいか……」と頭を元の位置に戻した。
ただただ不気味だった。ホラー映画のワンシーンかのようにさえ思えた。
どの世界も必ず何らかの問題を抱えていたが、ここは飛び抜けて異質を放っていた。
次々にカーテンの中を覗いていく。
同じように包帯で巻かれた人、体の一部がない人、等々、まるで野戦病院のようだった。
ここはどういった世界で、何が原因であんな酷い怪我を負った人達がいるのだろうか。
一番に思い付くのは戦争が起きている世界だった。何回か経験したが、あまり長居はしたくない。苦い思い出しかない。
気味の悪さを感じる中、最後となった僕の真向かいに当たるカーテンの中を覗いた。そこにはすやすやと寝息を立てる霜月がいた。
霜月が寝ている姿なんて初めて見た。
ベッドの脇に立ち、注視する。僕と同じ様に頭に包帯を巻いているだけで、これと言った怪我はなかった。
ただ、上下する胸、乱れた病衣の隙間から垣間見える白い肌が視界に入ると、いけないことをしているような気がした。
誘惑に釣られて、駄目だと思いつつも手を伸ばす。起こさないように指先でそっと頬に触れた。
この世にこんな触り心地の良いものがあっていいのだろうか。
手を滑らせ、唇へと指を運ぶ。
突如、霜月の目が開いた。
「っぁ」
目が合い、僕の喉から変な声が出た。
直後、霜月は悲鳴にも似た声を上げた。
どんな世界であろうが、女性の悲鳴が良いものであったことなどない。
拒絶してくる霜月の腕を掴み「落ち着いて、僕だよ、城嶋だよ!」と言い聞かせようとしたが「誰ですかあなた!」と当然の返しをされてしまう。
また知らない霜月か。
「別に変なことをしようとしたつもりじゃない。本当だ!」
「じゃあ何で私の顔触ってたんですか!」
「それは……出来心?」
「やっぱり変なことしようとしてたんじゃないですか!」
「だから違うって!」
しばらく押し問答を続け、疲れてきたのか、次第に霜月の腕の力が抜けてきた。それに合わせて僕も腕の力を抜いていく。そこで霜月は「本当に何もしないんですか?」と改めて訊いてきた。
腕を離し、「本当に何もする気はない」と両手を挙げて見せた。何らなら回って見せた。
安心したのか、霜月がふぅと息を吐く。
ピエロを気取り「ね」と首を傾げた。
「何が、ね、だ。お前ら何している?」
振り向くと、そこには緒方が立っていた。使い古された枯色のローブを羽織り、腕を組んでこちらを見ていた。
「お、緒方……」
見られた。ばつの悪さに思わず目が泳いだ。
「元気そうで何よりだ」
「僕も緒方の元気そうな姿を見られて何よりだよ……」
緒方が大きな溜息を吐くと、カーテンを大きく広げた。泣きそうな鮮川が立っていた。
「ど、どうしたんだよ鮮川」
鮮川はぐしゃぐしゃになった声で何かを叫びながら僕を押し倒すと、霜月も巻き込んできつく抱きしめてきた。
涙を流して大声で泣いていて何を言ってるか分からなかった。
「お前ら二人が急に倒れたからスゲー心配してたんだよ」と緒方が説明してくれた。
よく分かんなかったが、誰かが僕のためにここまで泣いてくれると思うと嬉しくて、もらい泣きしそうだった。
※
鮮川があそこまで心配してくれたのは、運ばれた時、僕達の心肺が停止していたからだった。
僕からしてみたら全然原因不明でも何でもなく、世界移動する時は決まってこうなるから、心配されるという発想がなかった。
やる気のなさそうな医者に事務的に検査してもらい、異常がないと診断されるや否や、早々にベッドから叩き出された。
時刻は午後五時。待ち合わせ場所である病院の外に向かった。
ドアを抜けても天井があった。だだっ広い空間の真ん中に時計があって、ベンチが並べられている。
そのベンチの一つに見慣れたシルエットが三つあった。
近くまで行くと緒方が気付き、鮮川が手を振ってきた。霜月もこっちを見てはいたが、それだけだった。
「どうだった?」と鮮川が訊いてきた。
特に異常はない。と返事をする所で僕は「だいぶ頭を強く打ったみたいで、一部の記憶がなくなっちゃったみたいなんだ」と噓をついた。
世界を渡る心得その一。世界観が分からない時は記憶喪失設定を便利に使うべし。
これで子供でも知っている当たり前のことが堂々と訊けるようになる。大抵の人は信じてくれないが、あまりにしつこくずっと使っているとその内信じてくれるようになる。
二人の反応に身構えていると、予想外なことに「城嶋もか……」と二人は暗い顔をした。
「も?」
霜月の顔を見ると、目が合い、すぐに逸らされた。
「咲楽も記憶喪失になったみたいで」と鮮川が言った。
鮮川が霜月のことを下の名前呼んだことにも驚いたが、それ以上に霜月も記憶喪失というのは驚きが隠せなかった。
こんなパターンは初めてだ。
「どういう記憶がないの?」
「人の顔と名前はある程度分かるけど、人間関係とか仕事のこととかほとんど分からないみたい」と喋らない霜月の代わりに鮮川が教えてくれた。
「城嶋はどうなんだ?」と緒方に訊かれ「大体同じようなものかな」と答えた。
緒方と鮮花が溜息をついた。鮮川に関しては酷く落ち込んでいるようで、何だか可哀想になってきた。本当のことを教えようとも思ったが、それに何の意味がある? と考え直した。
ところで、何で二人は記憶喪失をすんなりと信じたんだ?
「どうしよ」と鮮川が緒方に意見を求めると「とりあえず落ち着ける場所に行こう。俺の部屋でいいか?」と言った。
反対する理由も特にないので、首を縦に振ると僕達は、医療区を出ることにした。
医療区の出入り口となる三メートルはあろう巨大な門を潜った。その先こそは外だと思ったが、天井がある医療区と大して変わらない景観が続いていた。
薄暗い廊下が左右にも前に続いていて、蛍光灯が等間隔で並んでいる。長らく放置されているのか黒ずんでいるものもあった。まるで下水道だ。
緒方の部屋に行く間に何人かとすれ違ったが、皆元気がなく、疲れているよう見えた。
延々と続く薄暗さも相まって、空気が重い。
緒方の部屋は四畳半ほどあり、整理された部屋は彼らしさが伺えた。
全員が腰をつけると、緒方は「じゃあ歴史の勉強でもするか」と隙間の目立つ本棚から『誰でも分かる近代史』という本を取り出してきた。
鮮川が苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。霜月も眉を寄せているように見えた。
二人共勉強が嫌いなのか。情けない。
「三人共そんな顔するなよ」と緒方が肩を落とした。
緒方先生による近代史はみっちり三時間にも及んだ。
話が長すぎて細部はほとんど覚えていないが、要するに地上は塩の蔓延で住めなくなっていて、その塩を吸ってしまうと体が塩になってしまうことだった。
これまた癖の強い世界に来たようだ。
淀んだ空気から逃げるように緒方の部屋を出たが、薄暗い廊下のせいで大した爽快感は得られなかった。
時刻は二十一時。流石にお腹が減っていた。
僕と霜月が帰る場所を知らないと言うと、部屋まで送るついでにご飯を食べに行くことになった。
「もしかしておっちゃんの奢り?」
「はぁ? ……ったく、今日だけだからな」
鮮川が「よっしゃ」と小さくガッツポーズをする。
僕らは四人で食堂へと向かった。
何だか、こういうのは懐かしかった。
思いっきり伸びをすると、指先から足先まで、全身漏れなく悲鳴を上げた。腕と足には無数の擦り傷が出来ていた。緒方班に入って一ヶ月。体は音を上げていた。
「痛そうな顔してるね」
訓練の合間の休憩中に鮮川が横に座ってきた。
「回復魔法かけてよ」
ハッと背中に平手打ちを入れられる。
「痛っ! ……死んだわ」
「情けない勇者よ、また死んでしまったのか」
冗談と分かるのだが、僕には微妙に笑えないラインだ。
僕と鮮川が雑談をしていると、吉野が「楽しそうだね」とやってきた。
思わず身構えてしまう。
「そんなに嫌いな奴に似ているのかい?」
「蛇に睨まれた蛙の気分になるんだ」
「それにしては随分と敵意がむき出しだけど」
かつて、僕の担任であったこともある吉野にはこれまで五回ほど殺されたことがあった。
やり口はいつも同じで、良い顔をして近づいてきて、信頼した所で後ろから刺してくるのだ。
あの細い目と吊り上がった口元が生理的に吐き気を起こす。
「まぁごめんよ。でも君の嫌いな人と僕は別人だ。僕は新メンバーの城嶋くんとも仲良くしたいだけだから、そこんとこ、分かっといてくれよ?」
吉野が早々に退散する。
肩を下ろすと「吉野さんが可哀想だよ」と鮮川が言ってきた。
そんなこと言われても、今回こそは大丈夫を繰り返して殺され続けたのだ。性根から腐った輩をまた信頼できるほど僕はお人好しじゃない。
霜月を横目で見ると、少し離れた所で体育座りをしていた。まるで体育を見学している生徒だ。
「咲楽、ほんとに別人みたい」
「え、どこが?」
「だって」と鮮川が続きを言おうとした所で、緒方が手を叩いて「皆、聞いてくれ」と声を張った。
「上からの指示で来週、地上調査に行くことになった」
吉野と鮮川が嬉しそうに声を上げた。
「地上って危険なんじゃないの?」
「地上に行けるのは地上調査隊の特権。昔の人達が住んでいた場所に行くのはロマンなんだから」
「廃墟に興味があるなんて初知り」
「そこ静かに」と緒方に注意された。めんご。
「任務内容は海水を採取してくること。そのため、スノーモービルを使って南西に移動し、東京湾沿いに北上しながら計十ヶ所の海水を採取する。質問がある人は?」
自分も参加するのに他人事のように思えて、興味が湧かなかった。
鮮川が手を上げた。
「日数は?」
「予定では二日間。採取し終わり次第帰還する」
吉野が手を上げた。
「海水の調査目的と理由」
「知らん。他にはいるか?」
塩対応されたのに、吉野は表情を一切変えなかった。不気味だった。
それからの一週間は何でもない日常が過ぎた。
訓練して、鮮川と冗談を交わして、緒方とご飯を食べて、霜月に話し掛けて……
こうやって、どんな場所でも僕のすることは変わらない。
霜月の姿を目で追って、日々を過ごすだけだ。
僕は物語の主人公じゃない。特別な力もないし、特別何かに秀でているわけでもない。
水増しカレーにも慣れたし、憂鬱を抱えた施設の空気にも慣れた。
目標がないのも相変わらずだ。
こんなことをしていて意味はあるんだろうか。
そんな漠然としたことをよく考えるようになった。
元の世界に帰る方法は分からないままだし、僕が世界移動をしてしまう理由も分からないままだ。
何も進展せず、日に日に焦燥感だけが積もっていく。今日も起きて、訓練して、談笑して、寝て、起きて、訓練しての繰り返し。
地上調査前の最後の休日に、元の世界に帰るために何か行動しようと思ったが、何をすればいいのか分からず、結局、軋む椅子に凭れて、天井のシミの数を数えて終わった。
嵐の前の静けさだと薄々分かっていた。だけど、この平穏が崩れるのが嫌で、自然とその考えに蓋をしていた。
どこに行っても、当事者意識は低く、他人事のように捉えているは自覚していた。
自分が特別ではないと気付いてしまって以来、僕を含めて、世界とかそういうのはどうでもよくなってしまったんだと思う。
ただ、霜月のことだけは必ず心のどこかで引っ掛かっていた。