二章 渦中
中学生の時、クラスの頭の悪いイケメンが「一億人の中から君と出会えた奇跡は運命としか言いようがない」とこれまた頭が空っぽそうなギャルに教室で告白をしていた。
社会の中年の先生はまさか授業中に公開告白が行われるとは思ってもいなかたようで、ただ茫然とそれを眺めていた。クラス中はそれはもう大歓声で、告白されたギャルも何か空気に呑まれて涙を流していた。
当時の僕は三文芝居を見せられているかのようなうすら寒い気分で、中身のない台詞だなーと静観していた。
家に帰った後も『きっとあのイケメンは東京のスクランブル交差点を歩いたら、奇跡の連続で目を回すに違いない』なんてことをずっと考えていた。
きっと当時の僕は妬ましかったんだと思う。
イケメンが大勢の中心にいたことが、その恋が実った瞬間が、僕の知っている常識と日常を飛び越えて、まるで世界の中心にいるかのよう見えたからだ。
口では人並みと謙虚に言っても、誰もが自分を特別な存在だと心のどこかで思っている。それは僕だって例外ではない。
だから、死ぬ度に世界を移動してしまい、二〇一五年の四月四日に戻ってきしまう法則性に気付いてしまった僕は、物語の主人公になったみたいで舞い上がった。
でもそれも束の間、三回も死ぬ恐怖を味わえば、夢から覚めるのは簡単だった。
それだけじゃない。現実はどこへ行っても現実のままだったからだ。
フィクションの世界のように魔王を倒す大冒険に出掛けたり、人類の命運を賭けた戦いがあったりするわけでもなく、日がな毎日談笑して、活動して、寝て、食っての繰り返しだ。
そこに物語は存在しない。日記を埋める出来事があったりなかったりする程度だ。
何のために世界を移動して、何のために時間が巻き戻るのかも分からない。
死んで、目を覚まして、死ぬ瞬間の恐怖を思い出して、嘔吐した。
何のために生きているんだろう。
誰かに生かされている理由を教えてほしかった。
もし生かされている理由があるのなら、それを全うして、生きる意味を完結させて、安らかに目を閉じて、刻み込まれた死ぬ恐怖を忘れてしまいたかった。
※
焼死、圧死、溺死、水死、ショック死、過労死、窒息死、失血死、餓死、病死。
死因は様々だが、最も多い死に方がイロナシに殺されることだ。
唐突に現れて、鋭利な指先で僕を斬り殺す。
こいつの正体はさっぱり分かっていないし、何故こいつは僕を殺しに来るのかも謎。ネットが普及している世界や色んな本で調べてみたがイロナシに関する情報は一文字たりとも見つからなかった。
憶測だが、きっとイロナシは世界移動することに何らかの関係があると僕は睨んでいる。
かつていた世界で、他の世界から移動してきた霜月さんはあの怪物のことをイロナシと呼び、知っている素振りを見せていた。そしてイロナシは僕が移動した先の世界でことごとく姿を現す。
繋がる接点は世界移動という点だけ。それが何を意味しているのかは分からないし、言葉の通じない怪物にその理由を聞くことは出来ない。
もしかしたらイロナシを倒せば元の世界に帰れるんじゃ? と思った時期もあったが、包丁も刺さらない頑丈な皮膚をした馬鹿力の怪物を、一般人の僕が倒せるはずがなかった。
イロナシに立ち向かったのは一回だけ。
前に立っただけで、威圧に心が折れそうになり、恐怖に冷や汗を掻いた。結果は言わずも知れている。
いくら死んでも元の世界に帰れないので、人は死んだら僕みたいに色んな世界を巡るのかもしれないと考えた。僕が巡っている世界は天国や地獄かもしれないし、何度も味合う死の体験からして、僕は地獄の道中にいるのかもしれないとも考えた。
イロナシは地獄の使いとも考えれば少し納得がいく。
まぁ地獄なんてオカルト、僕は信じていないんだけど。
※
「ねぇ、何で霜月さんって笑わないんだと思う?」
「知らねぇよ、そんなの」
緒方とそんな会話をしたのは、いつのことだったか。
砂に埋もれた東京。海に沈んだ日本。森に呑み込まれた都会。カビが充満した世界。死人が襲ってくる病。車が空を飛ぶ世の中。夕日が沈まない永遠。星が見えない夜空。雪が降り止まない国。言語統一された国々。夏しかない季節。
色んな世界を巡ってきたが、どの世界でも霜月さんは笑顔を見せてくれなかった。
つまらなそうだったり、憂鬱そうだったり、物思いにふけってそうだったり。
花を移し替えた時の笑顔と、あの学校で一緒に過ごした日々が僕の中でいつまでも残っていて、どの世界に行っても霜月さんの姿を目で追ってしまっていた。
だが、どの世界の霜月さんも、僕を知っている霜月さんではなかった。
話し掛ける度に「あなた誰ですか?」と言われた。
分かっていても、期待することはやめられなくて、その度に勝手に裏切られてショックを受けた。霜月さんは元からその世界に居る人で、全くの別人なのだ。
別世界はいったいいくつあるのだろうか。
僕が経験した世界だけでも百を超えているのは確実。じゃあ千個? それとも一万個?
以前、鮮川が僕に見せてくれた漫画の一説を真に受けるなら可能性の数だけ世界はある。だとしたら、きっと数として数えきれないほどあるのではないだろうか。
そんな中、僕とあの世界移動する霜月さんが出会い、一緒の時を過ごしたあれはきっと、本物の奇跡なんだと思う。
一つの世界で一億人の中から霜月さんと出会い、無量大数ある世界の中から僕らが再会するのは天文学的確率より低いだろう。
あの人は今、どこで何をしているのだろう。
日によっては四六時中考ええている時さえあった。
※
誰かに名前を呼ばれた気がした。
何度も呼ばれて、少しずつ声がはっきりと聞こえ出す。
「誠くん!」
目を覚ますと、霜月さんが両手を腰に当てて、不満そうに僕を見下ろしていた。
「やっと起きましたね。次は理科室まで移動ですよ」
「あれ、ここは?」
「またお得意の寝ぼけているフリですか? 私にしても先生は待ってくれませんよ」
そうだ、国語の授業中に眠ってしまったのだった。
「起こしてくれてありがとう。あれ、他の皆は?」
教室には僕と霜月さんしかいなかった。
「もう皆行ってしまいましたよ。緒方さんは『そんな奴ほっとけ』って言っていました」
「あいつの友情には涙が出るね」
「いいから早く行きましょう。遅刻してしまいます」
机から教科書とノートを取り出すと、僕と霜月さんは教室を飛び出した。
廊下を駆け足で行きながら、霜月さんが「今日はマグネシウムを使った実験をするそうですよ」と言ってきた。
「よくそんなこと知ってるな」
「隣クラスの鮮川さんから聞きました」
あんまりに楽しそうに話すから「何か良いことあったの?」と訊くと「特にはないですよ。強いて言うなら学校が楽しいからですかね?」と笑った。
僕は足を止めた。
分かっていた。
他のクラスにも誰もいなくて、同じ景色の廊下が永遠に続いていて、まるで世界には僕と霜月さんの二人しかいないようだったから、心のどこかで気付いていた。
「どうしました誠くん?」
そもそも霜月さんが誠くんなんて呼ぶはずもないのだ。
「まだこんなにも鮮明に、君の笑顔が思い出せるなんて思いもしなかった」
霜月さんは今一度笑うと、光と共に消えていった。
また霜月さんの笑顔が見たいな。
目を覚ますと、戦場だった。
砕け散った瓦礫に、至る所から聞こえる銃声と爆発音。
「起きたか! 早くここを離れるぞ!」と緒方が腕を引っ張ってくる。
手元にあった銃を担いで、緒方の後についていく。
瓦礫の角を飛び出そうとした瞬間、断末魔と共に誰かが倒れてきた。
緒方がすぐに壁を背にして、銃を構えた。僕も見よう見真似で銃を構える。
ここがどんな世界であれ、僕は生き残るまでだ。
「いいか、スリーカウントで向こう側まで走るぞ」
僕は頷く。
「3、2、1っ!」
地を蹴って、無我夢中で走った。
終わることのない命の繰り返し。そんな永遠とも言える途方にもない時間の中で、僕はその一瞬一瞬を確かに生きていた。
そうして僕はまた、四月四日に目を覚ます。