一章 旅立ち 5
翌日から何となく視線を泳がすと、自然と霜月さんを見るようになってしまっていた。授業中だろうが、休憩時間だろうが、霜月さんは曇り空な表情を変えることはなかった。
そんな暗い顔を見ていると、どうしても彼女の前の世界のことが気になった。
『帰れるとは思いますよ。私はしようとしたことがないので知りませんが』『桃源郷とはほど遠い場所でした』
いったいどれほどの経験をすればあそこまで表情が死んでしまうのだろう。
家族が死んだとか、恋人が死んだとか、色々考えたが、きっと僕の考えが及ばぬものなのだろう。
それに霜月さんが二回世界移動をしているということは、二回死んだっていうことでもある。人は早々死ぬもんじゃないと思う。だから霜月さんはもしかして、前の世界で殺されたりしたんじゃ……
溜息をつくと、隣の鮮川が先生にバレないように「どしたー?」と小声で顔を覗いてきた。
「恋について悩んでる」
「マジぃ!?」
「嘘だよ」
鮮川は肩を落とし、溜息を吐いた。それにどんな意味が籠っているのかは分からなかった。
「嘘とか普段言わないからビックリしたじゃん」
「僕はとっても嘘つきだよ」
同じことを言えば何か分かる気がしたが、やっぱり分からなかった。
この世界に来てから一ヶ月が経った。
状況は相変わらず進展しておらず、むしろ段々と僕はこの世界での生活に馴染み始めていた。
登校すれば隣の鮮川と談笑し、たまに緒方とも談笑し、未だに名前を覚えられないクラスメイトと上辺の会話を交わす。前の世界と大して変わらない。
確かに前の世界には帰りたいが、別にこれといった帰りたい理由や、前の世界に残した未練などはないので、最近は前の世界に帰る方法を探すのはおざなりになっていた。
今ではたまに、前の世界の方が夢だったのでは、僕は最初からこの世界の住人だったのでは、と思うこともある。
そんな時は霜月さんを見ることにしていた。
一ヶ月前に川辺した霜月さんとの会話を頭の中で繰り返し、僕はこの世界の住人ではないことを思い出す。
あれから、霜月さんとはろくに会話もしていなかった。会話をしようとすると、つい世界がどうたらこうたらといった話をしてしまいそうになるからだ。
霜月さんはきっとその手の話題は嫌がる。そう思って以来、話題が見つからず結局話せないままでいる。
日がな一日、その姿を目で追うことだけが日課として残ってしまっていた。
いつだかのお昼休み、僕が弁当を取り出すと、群がる虫のようにいつも二人がやってきた。
「国語のプリントヤバくね?」
「あんなの十分もあれば終わるね」
汗臭い短髪くんとひょろ長い冴えない出っ歯くんだ。
「城嶋氏は古文出来るでありますか?」
出っ歯くんがねっとりとした口調で何かを言っていたが、僕はそんなことよりも女子の集団のために席を空ける霜月さんの姿を見ていた。
女子五人の集団は霜月さんが席を空けると礼なども言わず、席を動かして一つのテーブルを作り出す。まるで霜月さん何て初めからそこにいないかのような扱いだ。
その集団の常識のなさに怒りを覚えたが、それよりもクラスでの唯一の居場所を失った霜月さんが不憫でならなかった。
「城嶋氏、聞いております?」
「あ、ごめん、先食べてて」と僕はもう居ても立っても居られず、弁当を持って、教室を出て行った霜月さんの後を追い掛けた。
彼女の歩く速さは意外にも早かった。一人慣れしているのだろう。
小走りで追い掛けても中々距離が縮まらない。階段上に姿を消すと、ドアが閉まる音がした。
「屋上?」
ドアを開けると、突風が体を揺らした。
見える範囲に霜月さんはいなかった。
屋上って大体鍵がかかっているのが定番だけど、落下防止の背の高い鉄格子がしっかり建てられているを見ると、常時解放しているのかもしれない。
壁沿いに歩いていくと、校庭を真正面に向かえる所に霜月さんは座っていた。
「いた」
「……え?」
何でここにいるの? と言わんばかりに霜月さんの目が開かれていた。
「お昼、一緒に食べようと思って。いいでしょ?」
「……いいですけど……」
困惑しているのだろう。承諾したのも断る理由がないからといった感じだった。
霜月さんの横に腰を下ろし、弁当を広げる。
「よくここに来るの?」
「まぁたまに……それより、何で来たんですか?」
霜月さんに同情したから、なんて言えるはずもなく「気まぐれだよ。最近話せてなかったし」と僕は目を見れずに言った。
「気まぐれ……ですか」
霜月さんがそれ以上追及してくることはなかった。無駄だと思ったのか、思い当たる節があったのかは分からないが、僕もこれ以上、言い訳めいたことを言わなくて済むのならそれで良かった。
「お昼サンドイッチだけ? 足りるの?」
「女の子は食事に敏感なんですよ」
「唐揚げいる?」
「いります」
「敏感とはいったい……」
それからの会話はよく覚えていない。会話は少なかった気もするが、目下で心配していた世界関連の話題を出すこともなく、冗談交じりな会話は苦痛ではなかった気もした。
僕と霜月さんは一週間に数回、こうして屋上で一緒にお昼食べるようになった。
最初こそ気恥ずかしさがあったから僕が屋上に行かずにクラスメイトと一緒にご飯を食べることもあり一週間に数回だったが、次第に頻度は増していき、六月になる頃には僕は毎回霜月さんとお昼を共にするようになっていた。
僕にとって、それは楽しみになり、料理が出来ない分、学校帰りにスーパーによって霜月さんと共有するための冷凍食品を買うようになっていた。
「あ、いた」
僕と霜月さんが声をした方を向くと、そこには鮮川が立っていた。
「最近昼休みに姿見ないなーって思ってたらここにいたのか」
「どうしたの? 何か用?」と訊くと、鮮川は僕の隣に腰を下ろし、「あたしもここで食べる」と言い出した。
「じゃあ僕達は他の所に行くよ」と腰を上げると「何でそうなるの!」と鮮川が声を上げた。
「冗談だよ。にしても何で一緒に食べようと思ったの?」
鮮川は少し黙ると絞り出したように「気まぐれ」と言った。
全く理由になっていないが、僕だって霜月さんに全く同じことを押し付けた手前、それについて追及することは出来なかった。
霜月さんの方を見ると、不思議に思っているようにも取れるし、興味なしとも取れる何とも言えない表情をしていた。
「僕は構わないけど、霜月さんは?」
「いいですよ」
やっぱりどっちか分からない。
だが鮮花はそれを肯定と捉えたようで「じゃ、よろしくー」と僕の唐揚げを持っていった。
「てかさ、二人付き合ってんの?」
「え? 付き合ってないよ」と事もなげに返事すると、「そっか」と何か一人で表情をころころと変えていた。
鮮川と一緒にご飯を食べていると、何だか緒方に対して罪悪感を覚えてしまう。
数日後、僕は我慢出来なくなり、霜月さんにだけ許可を得ると、緒方も誘った。
「何、お前ら付き合っての?」
「付き合ってないって!」
傍からしたらやっぱりそう思われるのか? 僕は霜月さんのことをどう思っているんだろう? 好きか? って訊かれたら、たぶん違うと思うのだが、何せ一度も人を好きになったことがないので、好きっていう感情がよく分からなかった。
一足遅く来た鮮川が既に三人でご飯を食べていた僕達を見ると「あれ、おっちゃんも来たの?」と少し驚いていたが、特に怒ったりすることもなく輪の中に加わった。
僕達四人は取るに足らない会話をした。
翌日も。その翌日も。
昼休みが終われば忘れてしまうような何でもない内容。
鮮川が友達の話をして、緒方が冷静なツッコミを入れて、僕が驚いて、それを霜月さんが眺めている。
この時間だけは、世界がどうとかそんな話を忘れられた。きっとこの時間が楽しかったんだと思う。
こんなありふれた日々が俺にも存在していたと考えると、嘘のように思えた。とても愛おしくて、眩しいほどに輝きを放つ時間。失ってから気付くという言葉が身に染みる。振り向くたびに、心の擦り傷に塩を塗るような痛みを感じるのに、振り向くことをやめることが出来ないのは、俺が弱いままだからなのだろう。
あの日も、俺は昨日と変わらない今日だと疑うこともせず、ただ漫然と過ごそうとしていた。
朝から霜月さんの様子がおかしかった。
鮮川と緒方からしてみたらいつも通りだとことだったが、僕からしてみたら、最近柔らいでいた頬が以前の仮面ように戻ったように思えたのだ。
授業中も気になって仕方がなかった。
どことなしか、その背中からも悲し気な雰囲気を感じた。
昼休みになり、弁当を持って教室を出ようとしたが、視界の隅に映る霜月さんは身動き一つとっていなかった。
どうしたのだろう。
女子五人組が邪険な視線を遠慮なく霜月さんに向けている。
さすがに声を掛けてみよう、と思い、僕は霜月さんの肩を叩いた。
「霜月さんどうしたの? お昼食べないの?」
顔を覗くと、霜月さんは机に目を落としたままゆっくりと首を横に振った。
「お昼忘れたの?」
「私としたことが、随分と贅沢なことをしてしまいました。私はこんなに幸せになっていい人間ではありません」
「どうしたの?」
霜月さんがゆっくりと顔を上げた。その目は赤く滲み、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「こうやって誠くんに心配してもらいたくて、心配してもらって嬉しくて、ほんと、反省してないですね」
「何を言って」
悲鳴が上がった。
ガラスが割れ、コンクリが砕け、机が飛び、人が宙を舞った。
突風のような強い衝撃に僕と霜月さんも吹き飛び、床に倒れ込んだ。
全身の鈍い痛みを堪え、体を起こすと、目に飛び込んできた光景に僕は言葉を失った。
壁の巨大な穴、散乱するガラス片とコンクリ、捩り曲がったクラスメイト、血、そして何より目を引いたのはその中心に佇む異様な存在。
何色も色を混ぜたような奇怪な黒色の怪物。人間のように四肢があり、二本足で立ち、猫背で、全身が岩のように歪に尖っている。
「な、な……」
何が起こっているのか分からなかった。頭の中が真っ白で、状況整理が追い付かない。
隣の霜月さんが起き上がった。
怪物を見ると、名前を呼ぶように「……イロナシ」と呟いた。
切れ長い赤い瞳が霜月さんを見据えた。
嫌な予感がした。全身を逆立つ感触が襲う。
「何してんだ!」
僕は立ち上がり、呆ける霜月さんの手を取った。
逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。
頭の中はそれだけでいっぱいだった。
手を引っ張ったが、霜月さんは動こうとしなかった。振り向くと、頬を涙で濡らした霜月さんと目が合う。
何で泣いているんだろうとか、何を知っているんだろうとか、疑問に思わなくちゃいけないものはたくさんあるはずなのに、霜月さんの泣く姿を見て僕は、ただ、何て綺麗なんだろう、と思った。
次の瞬間、体に走った痛みが僕の全てを支配した。
喉から声が漏れる。自分でも何を言っているか分からなかった。
視界が不自然に傾き、落ちていき、そこにあるはずもない僕の下半身だけが立っていた。
暗転。
一切の光もなく、どこまでも続く暗闇。全ての感覚がなく、自分が生きているのか、死んでいるのかさえも分からなかった。ただ、恐怖だけが胸の中で広がっていく。
嫌だ。怖い。ここにいたくない。
次の瞬間、奪われていた全ての感覚が蘇り、ハッとした。
一瞬で多くの息を吸ったせいか、咽てしまう。
「良かった。起きたか……」
そう言ったのは緒方だった。
体を起こし、辺りを確認すると、四角錐の空間にいた。恐らくテントだろう。
体を触ると、どこにも異常はなく、痛みもなかった。
「何があったの?」と緒方に訊く。
「急にお前が倒れたから慌ててテントを張ったんだ。息もしてなかったし、死んだかと思ったんだからな……」
そう語った緒方の服装は学校の制服ではなく、フード付きのローブだった。見ると、僕も同じような恰好をしていた。
「あれからどうなったの?」
「あれから? あれからって何にがだ?」
「あの怪物」
「怪物?」
そこで僕は、以前にも似た経験があったことを思い出した。
あれは四月の頭、四月四日のことだ。
僕は緒方の声を無視し、テントを出た。目の前に大きな影を作る砂の山があった。
体を焼くような暑さ、黄色い砂の山、ローブの服装。
まさか、そんなまさか、と自分の予想が外れることを期待し、山を登った。
そして頂上に着き、愕然とした。
僕は砂漠のど真ん中にいた。
360度、地平線の向こうまで続く砂漠の海。
後ろからやってきた緒方に「ここはどこ?」と尋ねる。
緒方は当然のように言った。
「ここは、新宿だ」