一章 旅立ち 4
翌日は早めに登校した。霜月さんのあの台詞の意味を早く知りたかったからだ。
だが霜月さんは中々姿を現さず、朝のホームルームギリギリに登校してきた。まるで僕と話す時間を作らないためかのように思えた。
「最近よく見るね」と鮮川が耳打ちしてきた。
「昨日と一昨日だけじゃん」
ホームルームが終わるや否や、霜月さんに声を掛け、人気のない体育館裏へと連れ出した。
空気を和ますために「告白するつもりじゃないよ」と少し冗談めかしに言うと、つまらなそうに「知っています」と地面を見つめたまま返された。頭を掻いた。
意を決し「昨日のあれは何?」と切り出す。
「昨日の、とは何のことですか?」と返ってきたが、明らかに分かっている様子だった。
「この世界をどう思うかって質問に、霜月さんは『少しはマシかと思います』って答えた。まるで昔、別の世界にいたみたいな台詞だ。君はいったい……」
言葉選びにしては長い沈黙だった。選んでいるというより、悩んでいるように思えた。たっぷりとした間の後、彼女は口を開く。
「……私も、別の世界から来たんです」
可能性は考えてはいたが、実際にその口から聞くと、かなり衝撃的だった。
霜月さんも別の世界の人という事実と、本当に別の世界が存在しているという事実。
利便上他の世界から来たという設定を呑み込んでいたが、それが事実であったとなると、今こうして地に足をつけて立っていることに違和感を覚えた。
土も、葉も、水も、どれも偽物のように、幻想のように思えてくる。
「この世界は一体何なの?」
「漠然としていて何て答えたら……」
「パラレルワールドなの?」
「……パラレルワールドからしてみたら私達がいた元の世界もパラレルワールドです」
「宇宙人からしてみたら地球人も宇宙人、みたい屁理屈を聞きたいんじゃないんだよ」
そこでふと気が付いた。今霜月さんは『私達がいた』と言った。それは以前の反応と矛盾が生じる。この世界で初めて会った時、霜月さんは僕のことを覚えていないという反応をした。
「あのさ、もしかして霜月さんって僕のこと最初から知っていたんじゃないの?」
だが、霜月さんは僕が期待した反応は見せず、申し訳なさそうに首を横に振った。
「すみません。少し勘違いをさせてしまいましたね。私達というのは、同じ世界から来た者同士という括りではありません。世界移動をしてきた者同士という意味で使いました。私がこれまで経験してきた世界で城嶋くんと知り合ったことはありません」
「あぁ」そうか。別の世界というのは一つに限らないのか。
「世界っていくつあるの?」
「さぁ……私も二つしか世界移動はしていませんし……」
そこで僕はピンときた。
「世界を二つ移動したってことは、世界移動できる方法を知っているってことだよね! ってことは元の世界には帰れたり……」
「帰れるとは思いますよ。私はしようとしたことがないので知りませんが」
「おお! やっぱり! で、どうやって世界移動するの?」
「……それは」と霜月さんが言いかけた所でチャイムが鳴った。
「私教室戻りますね」と霜月さんは素早く僕に背を向けた。
「え、授業なんかより」
「私、真面目ですから」と霜月さん駆けていき、校舎の角に姿を消した。
「……だったら何で不登校なんだよ……」
授業の途中から参加して先生にどうこう訊かれるのは面倒だったから、結局一時限目は丸々サボった。
授業の合間の休憩時間に教室に戻ると、鮮川が「どしたー?」と訊いてきた。
「蟻の行進に見惚れてた」と適当な返しをすると机を蹴られた。
その後の授業は当然身に入らなかった。
机に伏せていた顔を上げると、つい斜め前の霜月さんに目がいってしまう。
霜月さんは何を思い、何を考えているのだろう。
さっきはスルーしてしまったが、霜月さんは元の世界に帰ろうとしたことがないと言っていた。普通は帰りたいと思うものではないのか?
次に霜月さんを捕まえられたのは放課後だった。昼休みは始まるや早々に姿を見失ったのだ。まるで僕から逃げているみたいだ。捕まえたのだって学内ではなく、帰宅途中の所をだ。
歩道橋を渡っているのを見かけ、追い掛けて、肩を掴んで、今に至る。
「何で逃げるの?」
「逃げているわけでないです。学校が嫌いなだけです」
僕達の横を生徒が通り過ぎ、足の下を車が行きかう。
場所を移そうという提案に霜月さんは素直に従ってくれた。
やってきたのは針之川という小さな川の河川敷。初めてこの世界にやってきた日の夜に、鮮川に連れられて緒方と三人で来た場所だ。
桜が生い茂り、川を中心にトンネルのようになっていて、その川も落ちた花びらが流れてピンク色に染まっているように見えるのだ。
ここに着くと、霜月さん「凄い」と呟き、川のすぐ近くにしゃがみ込むと物珍しそうに水の流れを眺めた。指先を水の中に入れると、思いの外冷たかったのか小さく声を上げた。
「朝の続き聞かせてよ」
「何でしたっけ?」
「世界を移動する方法だよ。どうすればいいの?」
「強く念じればいいんです」
「それだけ?」
「嘘です」
僕が顔をしかめると、霜月さんが笑ったような気がした。気のせいかもしれないけど。
「意外と嘘とか言うんだね」
「私はとっても嘘つきですよ」
反応に困る。
霜月さんはそんな僕を他所に一人楽しそうに飛び石に飛び乗った。
「それで、どうすれば世界を移動できるの?」
「死ぬ気になれば何でもできますよ」
「それはつまり死ねばいいってこと?」
「桃源郷にぐらいは行けるかもしれませんね」
「そういう死後の世界には行きたくないんだけど。というか話はぐらかしてない?」
「いえ、私は至極全うに城嶋さんの質問に答えていますよ。真面目ですから」
「嘘つきなんだろ?」
「それが嘘かもしれません」
僕をからかうのがお気に召したのかもしれない。霜月さんが楽しそうに目を細めた。にしても随分と機嫌が良さそうに見えた。珍しく足元を見ていない気がする。
「そろそろ核心に触れてくれないか?」
そう言うと霜月さんは何個か進んでいた飛び石から戻ってきて、僕の元までやってくる。
「はい、核心に触れました」と僕の胸に指を当てた。
「それは心臓だよ」
ふふ、と霜月さんが笑った。なんだかくすぐったかった。
「正直なことを言うと、明確に世界を移動する方法を言うことは可能です。ですが私の口からそれを言うのはとても酷なことなので言いたくありません。ですから限りなく答えに近いヒントを言うことしか出来ません。それでも城嶋さんは嫌がる相手に言わせようとしますか?」
「そこまで言うなら無理に言わせようとはしないよ。じゃあ、せめてこれだけは教えて。今までの会話に限りなく答えに近いヒントはあったの?」
「はい、ありましたよ」
「分かったありがとう。あとは自分で考えるよ」
「我儘ですみません。素敵な場所に連れ来てありがとうございました。では、私はこれで」
霜月さんが土手の階段を上っていく。
霜月さんはこれまで世界移動についてあまり話をしたがらなかった。だからこれで話を終わらせると、もうこの話が出来ないような気がして、僕は思わず、霜月さんを呼び止めた。桜の花びらと共に霜月さんが振り向く。その姿はあまりに美しかった。呼び止めたことに後悔しそうになったが、勢いに任せて気になっていたことを口にする。
「ねぇ、霜月さんが前にいた世界ってどんな所だったの?」
「桃源郷とはほど遠い場所でした」
霜月さんはそれだけ言うと、もう言うことはないというように去っていった。
しばらくしてから僕も帰路につくことにした。
霜月さんの言動からして恐らく死ぬことが世界を移動の条件なんだと察しがついた。アニメとかでよくある話だ。別にショックじゃなかった。それはきっと、現実感がないからなんだと思う。
足元を見ると、蟻の行列が蛾の死骸を運んでいた。
「死ぬって、よく分かんないな」
本当に死ぬことが条件とは限らないが、もしそれが本当だとして、死ぬなんて出来るはずがなかった。
車通りが多い所まで戻ってきた。
トラックが一台、けたたましい音と共に目の前を通過した。
足を踏み出す勇気なんて当然湧くはずがなかった。
ふと疑問に思った。
もしかして僕は、一度死んでいるのか?
手の甲をつねると、痛かった。
帰宅すると、テーブルの上にはラップを被せられた料理が並んでいた。
どうやらこの世界では僕と母さんはすれ違いな生活をしているようだった。
少し寂しい気もするが、それはそれで、僕が帰らなかった間、母さんに心配掛けていなかったと思うので安心もした。