一章 旅立ち 3
朝、何事もなく自分のベッドで目を覚まし「全部夢だった。あー良かった」といつもの日常に戻れると思っていた。だが、現実はそうも甘くなく、目を覚ませば世界移動をしていたなんて、都合の良いことが起きるはずがなかった。
ソファから起き上がりカーテンを開けると、雨が降っていた。灰色帯びた模様が沈んでいる。
緒方も起きてきたようで、「おはよう」と挨拶すると「んー」と口を開くのも面倒といった具合だった。朝は弱いのかもしれない。
朝食のシリアルを牛乳で流し込み、制服に着替えていると緒方が「今日は学校行くな」と言ってきた。
「何で?」
「昨日霜月さんにプリントを届ける体で住所を教えてもらえたんだから、お前が休んでプリントを届けたいって言えば住所教えてもらえるだろ」
「あ、そうか、頭良い」
そういう流れで今日は学校をサボることになった。学校をサボったのは初めてだった。
長いこと母さんと二人で暮らしていると、いつからか学校を休むことは母さんに悪い気がしていたのだ。朝から晩まで働いていてほとんど家にいない人だが、それも僕が人並みに暮らせるようにするためと、心のどこかで分かっていたのだ。
もう二日も家を空けてしまっている。母さんは心配していないだろうか。
暇な時間を潰すためにテレビを点けたが、楽し気な笑い声が聞こえる番組がなんだかうすら寒く見えて、すぐにテレビを消した。
外を見ると大粒の雨がこれ見よがしに降り続いていた。当分止みそうにない。
時計を見ると、そろそろ一時限目が始まる時刻だった。皆が勉強しているのに自分だけ学校を休んでいるのは変な感覚だった。
この有り余る時間を使い、携帯のロック番号を虱潰しにしていく作業を始めることにした。携帯が使えるようになれば出来ることが増える。だが、百回やった所で飽きてしまった。
緒方が帰ってくるまで何もしないことにしよう。そうしてソファに寝転がった。
鳥の鳴き声に目を覚ました。雨は止み、時刻は夕方の五時になろうとしていた。
玄関で物音した。誰かの話し声と複数の足音。緒方と鮮川を連想するのは容易かった。
「たっだいまー」
「お前の家じゃないだろ」
「似たようなもんでしょ」
「違う」
騒がしい二人の声に混じって「……お邪魔します」と女性の声が聞こえた。
三人目?
居間のドアが開くと、緒方が「ただいま」と言い、鮮川が「でたー、サボり魔ー」と指差してきた。
「サボりたくてサボったわけじゃない」
緒方達が居間に入ると少し間を開けて、恐る恐るといった風に霜月さんが入ってきた。
「え」と思わず驚きの声が漏れる。
伏せ気味の目に、おさげに結ばれた髪。その姿は記憶の最後にある霜月さんのままだった。
鮮川が「登校してきたから連れてきちゃった」と霜月さんの肩を叩く。
「やっぱりお邪魔でしたよね……」
「い、いや、そんなことないよ」と反射的に答えて、後ろ頭を掻いた。一瞬目が合い、何だか照れくさくてすぐに視線を逸らす。
鮮川が深い溜息を吐き「やめて、その初々しいウブウブな中学生カップルみたいな反応」と軽蔑するような視線を送ってきた。
「いいから、城嶋、早く出掛ける支度しろ」
「どっか行くの?」
「お前なぁ……」と緒方が何枚かのプリントを取り出した。
「あ、そうだった。すっかり抜けてた」
「お前のことだろ……」
「もしかして設定にボロが出てきた?」
「設定じゃないって」
僕は借りていた緒方の服を脱ぐと、制服に着替えた。
どうせ知らない場所だろうと思いながらも一筋の希望を持ち、緒方に僕の家の住所を訊いた。案の定、知らない場所だった。
僕の家はこれまたやっぱり学校から徒歩圏内にあった。
緒方に連れられて行くと、そこにはこれまたボロそうなアパートがあった。
「ここ?」
「ここ」
表札には城嶋と書かれていた。
「どう? 自分家に帰ってきた感想は?」と嫌味のように鮮川が訊いてきたが「うん、僕ん家っぽい」と期待するような反応はしないでやった。
元の世界でも僕は似たようなアパートに住んでいた。だから特に抵抗とかはなかった。
二階の角部屋。インターホンを押そうとすると「ここ自分家なんでしょ?」と鮮川が言った。確かに自分家のインターホンを押すのはおかしい。
ドアノブを回したが、空いているはずがなかった。
「鍵とか持ってないのか?」
緒方の質問に「鍵なんて持って」ない、と答えようとした所で思い出した。あれだ、財布に入っていたあれだ。
鍵を取り出し、差し込んで回すと、ガチャリと音が鳴った。ビンゴ。
「ただいまぁ」と家の中を覗いた。人気はなく、嗅ぎなれた柑橘系の芳香剤の匂いがした。部屋の内装は全く違うが、至る所に物が置いてあるという点は自分の家のようだった。
「誰もいないみたい」と皆を中に入るように促すと、各々は博物館にでも来たかのように部屋の中を歩き回った。
「親は?」と奥の方に行った鮮川が訊いてきた。
聞こえるように少し声を大きくして「たぶん働きに行ってる」と元の家での事情を話す。
「そうじゃなくて、両親のこと」
「両親?」
鮮川の元に行くと、棚の上に飾られた写真を見ていた。小さい頃の僕と母さんが楽しそうに映っている写真が数枚飾られていた。それらの写真は元の家にも飾られていた見慣れたものだった。
「お父さんが映ってないと思って……あ、ごめん」
「死んじゃいないよ、たぶんどっかで生きてる。僕が小さい頃に離婚したんだ」
「じゃあ顔知らないんだ」
「いや、デカくなった僕の顔が見てみたいって何度か会った。ろくでもない顔してたよ」
父親の顔を思い出す前に僕は部屋を去った。
自分の部屋であろう場所を見つけ、適当に漁ったが、世界移動の手掛かりも、欠如した記憶の補完に役立ちそうなものも出てこなかった。
「城嶋、お前これからどうする? いちよここがお前の家らしいけど」
「んー、ここに泊まっていくよ。僕ん家みたいだし」
「そうか、じゃあ俺らはもう行くよ」と緒方が言い出したので、僕は適当な所まで見送ることにしたが、玄関まで行くと「見送りとかいいから」と鮮川が手を上げた。
「そう? 外はもう暗いけど」
「目付きの悪い人が一緒だから大丈夫」
「おいそれ誰のことだ」
「さぁね」
鮮川が外に出て行き、次は緒方が靴を履いた。
「緒方、色々ありがと」
「礼とかやめろ。明日も学校で会うんだからな」
「確かに……ところで緒方は、何で、その、助けてくれたの?」
「助ける?」
「泊めてくれたりとか、家探すの手伝ってくれたりとか」
「あぁ……テストと点数稼ぎだよ」
「どういうこと?」
「気にするな。俺の問題だから」
何が言いたいのかよく分からなかったが、気にするなというならそれを尊重するしか他にない。緒方が出て行くと、遠くに去っていく足音が聞こえた。
最後に霜月さんが靴を履いた。妙に動きがぎこちなくて、態とそうして遅らせているように見えた。靴を履き終えると、意を決したように息を吐き、僕を見てきた。
「どうした?」
「城嶋さんは、この世界をどう思いますか?」
「どうって……特に感想とかないけど……何その変な質問?」
「いえ、何でもありません。少し気になっただけです」
もしかして不思議ちゃん属性も入っているのか?
試すように僕は同じことを訊く。
「じゃあ霜月さんはこの世界をどう思っているの?」
「少しはマシかと思います」
えっ? 少しは?
「それじゃあ、また明日学校で」
「ちょっ」
霜月さんを掴もうとした手は宙を掻き、その姿はドアの向こうへと消えていった。
少しはってどういう意味だ? まるで前に別の世界にいたかのような口ぶりだ。
霜月さんは唯一の元の世界でも知る人物。この事実と霜月さんの言葉は、何か関連があるようにしか思えなかった。追い掛けようとも考えたが、その一歩は重く、踏み出すことが出来なかった。
その日、母さんは帰って来なかった。前の世界でもよくあったことだ。
ベッドから外を見上げれば、月が見えた。そういうところも同じだった。