エピローグ とある晴れた日のこと
私は至って普通の家庭に生まれた。お父さんが毎日コーヒー片手に新聞を読んで出勤前の日課を過ごし、お母さんと行ってきますのキスをする。そんなありふれた家庭だ。
休日には家族と買い物に行ったり、大学が終わった後には友達とオシャレなカフェに行ったり、日々思い出を作っていく。
毎日が楽しかった。そりゃ嫌なこともたまにある。バイトでミスしちゃったり、悪意ある人に嫌味を言われたり、面倒な課題に追われたり、意見の食い違いで喧嘩をしてしまったりすることもある。それでも私は、自分の生活を客観的に見ても幸せ者だと認識している。
そんな幸せ者の私なのに、たまに風が吹くみたいに不意に、自分が世間とはズレているような感覚に陥ることがある。
もしかしたら他の人も感じているどこにでもある感覚なのかもしれない。皆と一緒にいるのに寂しさを感じたり、不足はないのに満ち足りなかったり、こんなんじゃないと意味もなく不満を覚えたり。
この俗世間からズレたような感覚は、高校二年生の頃から突然胸の中に生まれた。感じ始めたのは四月の終わり。当時は五月病かな? なんて思っていたが、大学生になった今でもこびり付いたみたいに剥がれることがない。
当時、教室を見渡し度に隙間風が吹いているように思えて仕方がなかった。
優花と話していても、おっちゃんと話していても、皆で集まっていても、何かが足りない気がして堪らなかった。それが人なのか、物なのか分からない。
朝、お母さんが毎日朝食を作ってくれる。洗濯物を干している最中でも私が部屋から出てくると「おはよ」と笑ってみせてくれて、お父さんも私との距離感を測るように「おはよう」と言ってくれる。
この当たり前のことにさえ、私はたまにふと、ありがたみと感動を覚えてしまう。
優花もおっちゃんも、他の人も、このことを言うと「そんなこと思ったことない」と笑った。私自身、その高二の頃まで感じたことが一切なかったはずなのに。
何かが違う。
この当たり前の日常が、知っている日常に感じない。
春の陽気も、夏の青さも、秋の哀愁も、冬の人肌の恋しさも、何もかも決定的に何かが足りていない。ジグソーパズルの最後の一つだけが見つからない。
曲がり角にも、新聞の隅にも、電車の中にも、その最後の一ピースが見つからない。
その日も、正体の分からない何かを探すように、私は電車の車窓を眺めていた。流れていく景色。視線を下げると、サラリーマンの新聞が見えた。
『元高校教師、精神鑑定へ』という見出しが書かれていた。先日起きた殺人未遂の続報だろう。
すぐに視線を戻す。すると「そういや咲楽」と、さっきまでおっちゃんと週末のデートについていつもの痴話喧嘩をしていた優花がこっちを見ていた。優花の奥にいるおっちゃんを見ると、喧嘩なんてありませんでしたと言わんばかりにケロッとしていた。
「どうしてショートにしたの?」
優花のその質問に答えたくなくて、「黙秘」と言ったが「却下」と返された。
「ショートにした理由か……」
窓に薄っすらと今の自分が映る。肩甲骨まであった長い髪が、今では顎下辺りまでしかない。
優花のきらきらした恋バナを期待する目が突き刺さる。
「笑わない?」と予防線を張るが、即答で「笑わない」と返され、きっと予防線の意味をなしてないな、と溜息を吐きたくなった。変に溜めてハードルを上げないようにさっさと言ってしまおうと私は笑われる覚悟をする。
「……夢でね、誰かにショートカット結構似合うねって言われたの」
「それで切ったの?」
「……うん」
優花とおっちゃんは顔を見合わせると、一呼吸置いて「なにそれ」と案の定大笑いした。
「どういう夢だったの?」
当然の流れで二人は夢について訊いてきた。
「それが全然覚えてないんだよね」
電車を降りると、二人とは別の大学なので別れることになった。人波に乗るように、改札へと向かう。
全然覚えてない、というのは嘘だった。高二の頃から急によく見るようになった夢だ。
誰かと勉強したり、自転車に乗ったり、手を繋いだり、散歩したり、ご飯を食べたり、お見舞いに行ったり、髪を切ってもらったり、花を移し替えたり。誰かと様々なことをした夢をよく見る。その誰かはぼやけて分からないし、私自身、誰かとそんなことをした記憶を一切ない。なのに、何でこんな夢を見るんだろう。
原因が分かる当てもなかった。
だからその日も、当たり前の日になるはずだった。いつものズレた感覚をぶら下げて、夢について当てもなく考えるいつもの日になるはずだった。
改札を抜けると、何かが落ちる音がした。パスケースが落ちていた。鞄にしまい損ねたのだろうか。パスケースを拾う。辺りを見渡したが、誰のか分からなかった。
片面には電車の定期が入り、もう片面には学生証が入っていた。
同じ大学の学生証だった。苗字を読もうにも、漢字が難しくて読めなかった。しょうがなく名前を呼ぶ。
「えっと……誠さん?」
人混みに消えかけていた学生が一人立ち止まり、振り向いた。顔を見た瞬間、違和感を覚えた。
「あの、落としましたよ」
初めて会うはずなのに、どこかで会ったことがあるような既視感。
「これ」と差し出す。
「あぁ、ありがとうございます」と彼は笑う。
瞬間、止まっていた時計の針が、欠けていたピースが、ぼやけていた視界が、晴れた気がした。
雑踏も喧騒も、全てがなくなって、私達だけの時間が流れ始める。
たくさんの人混み。行き交う人々。たくさんの出会いと別れが繰り返される世界で、私達じゃなくても良かったはずなのに、奇跡みたいな確率で、私達は出会う。
「……あの、もしかして僕達一度、どこかで会ったことありますか?」
「ないと思いますけど…… 私もなんだか、そんな気がします」
この時の私はまだ知らない。
この人と、最期のその一瞬まで末永く一緒いることを、まだ知らない。
これにて完結です。
最後までお付き合いして頂いた方がいたらありがとうございます。
恐縮です。
折角なので少しだけこの作品について。
万人受けするような作品ではないと思います。あれやこれやと要素を入れたのでごった煮みたいになってますね。自分でもどう消化すればいいのか分からないぐらいです。
ただまぁ僕がどうしてこんな物語を書いたかって、好きな子の笑顔が好きだったとか、頑張った人が無理矢理にでも救われるようなのが大好きだからなんですよね。可哀想な人が幸せになるってのも好きです。
それだけです。ただそれだけです。




