六章 君の笑顔が見たい。それだけだ。 2
ここで一つ、例え話をしよう。
もし、あの時あのタイミングでプランターが壊れなければ、僕達は再会することなく地震が起きて、全てはなくなっていただろう。僕と再会しなかった咲楽は後悔を抱えたまま、全てなくなった世界で一人生き続けたかもしれない。
他にもある。
もし僕が咲楽を迎えに行って父親と再会しなければ、もしどちらかが進路調査票を提出していれば、もし僕の両親が離婚していなければ、もし咲楽の父親が交通事故にあっていなければ……
どれか一つでも欠けていたら、僕と咲楽の物語は成立しなかっただろう。
この世界はたくさんの奇跡の連続で成り立っている。
同じ職場にいること、同じ学校に通うこと、同じ組織に属していること……
奇跡、運命、偶然、必然。それらは些細な言葉の違いでしかない。
誰かに出会うことも、誰かを好きになることも、誰かを想うことも。それらの上で存在している。それが両想いなら尚更だ。
僕はもう、充分に奇跡を経験した。だからそろそろ、この舞台から降りなければならない。
「本当に、それでいいのか?」
遠くなる波の音。イロナシが訊いてきた。
「うん。僕はもう、笑えないから」
笑えない僕が生きている限り、どんな世界を作っても咲楽が望む、皆が笑顔の世界は永遠に作れない。そして、イロナシがいる限り、僕は死ぬことが出来ない。
なら、取れる選択肢は一つだけ。
僕がそもそも、生まれなければいい。この選択は僕が人を殺した償いでもある。
「母さんと親父が出会わなかったことにすれば、僕は生まれなかったことになる。そうすれば咲楽のお母さんが俺の親父と再婚することもなくなる。家庭内暴力もなかったことになる。一石二鳥だ」
痣子と呼ばれることも、それが原因でイジメられることもなくなる。普通に友達を作って、普通に恋人を作って、人並みに幸せになれるはずだ。
「お前は本当にそれでいいのか?」
「ごめんなイロナシ。きっとお前の存在もなくなる」
「本当にそれでいいのかって訊いているんだ!?」
イロナシが怒鳴って面食らった。きっとイロナシも思うところがあるのだろう。
「……これでいいんだ」
別に悟っているとか、開き直っているとか、そんなんじゃない。
「愛した人が世界のどこかで笑っていられるなら、それだけでいいんだ」
僕は手を差し出す。仇敵にして、共に咲楽を想った友に。
恐る恐る伸ばされた歪な手を握る。
「ありがとう」
視界の隅から世界がゆっくりと消えていく。真っ白なキャンパスが裏に隠れていたように、夜の闇が純白に変わっていく。
色を失っていくイロナシが泣いていた気がした。自分の存在が消えるのが悲しいのか、僕と別れるのが寂しいからなのか、どういう理由で泣いているのかは分からないが、でも、もしその涙の理由が咲楽を思う嬉し泣きだとするなら、僕は嬉しい。
そして世界は、色なしの白へと戻る。これから新たな色を塗るために。
※
それは夢かもしれないし、思い出かもしれないし、願いかもしれない。
僕達は学校にいた。窓から差し込む夕日が、教室を赤く染めている。
僕は数学の問題が解けなくて頭を抱えていた。
「まだ解けないんですか? そろそろ十分経ちますよ?」
彼女がつまらなそうに文庫のページを捲る。
「そろそろ諦めたらどうですか?」
「あとちょっとで解けそうなんだよ」
「二日後のテストを今考えてもしょうがありません。それより不審者と遭遇して未来が潰されないように、早めに帰ることの方が賢明じゃありませんか?」
「……それ、どっかで聞いたことがある台詞だね」
「どこかの数学が出来ない人の台詞です」
「分かった。ギブ、ギブアーップ」
「ここまで数学音痴だと思わなかったよ。教えがいがありそうだ」
「先生、ご教授よろしくお願いします」
いつかのやりとりの再現。立場が逆なだけに僕達は吹き出す。
問題の解き方を教えてもらった僕は、片付けを済ませる。
「ほら、帰ろ」
促すと彼女は椅子から立ち上がって、名残惜しそうに机を撫でるように触っていき、窓際へと歩いていく。
「ねぇ、これは夢じゃないよね? また会えるよね?」
哀愁の夕日と、憂いの君、感傷的な光景に僕は心を奪われる。
これは夢かもしれないし、思い出かもしれないし、願いかもしれない。
まぁ、何でもいい。
僕は君に約束する。
「また明日迎えに行くよ」
彼女は笑う。
「あんまり遅かったら、私の方から行っちゃうんだからね」
僕は微笑んで、夕日の眩しさに目を瞑る。
こうして僕の旅が、終わりを迎えた。




