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六章 君の笑顔が見たい。それだけだ。 1

 咲楽の遺体を前に、涙が止まらなかった。何度も喉がひっくり返り、子供のように嗚咽する。

 もっと彼女の近くにいたい。もっと彼女と一緒にいたい。咲楽の遺体にしがみ付くと、生気のない体が否応にもなく、僕に非情な現実を突きつける。体を揺さぶっても、いくら声を掛けても、咲楽は一切反応しない。

 何時間そうしていたのか分からない。誰かが僕の体を引っ張ったが、僕は咲楽から離れたくなくて、その腕を振り払った。

 頭上で軋む音が聞こえた。辛うじて残っていた体育館の屋根が唸りを上げたみたいだった。

「早く逃げろ!」

 誰かが僕をまた引っ張る。だけど僕はそれを再び振り払った。

「やめてくれ!」

 僕の怒号に、その誰かはその場を引いた。

 周りなんて関係ない。君のために世界を巡り、君を中心に僕の世界は回っていた。そんな君がいない世界に意味なんてない。僕が生きている意味なんてない。

 遂に自重に耐え切れなくなったのか、屋根の一部が滑り落ちてきた。

 けたたましい音。きっと当たれば死ぬ。それでも構わなかった。もう一度君に会えるのなら、それでも。

 だが、鉄骨は僕を避けるように落ちた。

 さっきの誰かが、悲鳴を上げて遠ざかっていく。まるで化物に怯えて逃げるように。違和感のある悲鳴の上げ方に、僕は振り向いた。その正体に目を見開く。

「何で、お前がここに……」

「今はお前が主だ。だから死にはさせない」

 イロナシが、立っていた。

 咲楽から聞いて、その正体を知っている。咲楽のよって生まれた、咲楽のための怪物。しかし、これまで何十年と戦ってきた相手、溝を感じるのはしょうがなかった。

「……お前、今、僕が主って言ったか?」

 イロナシが頷く。その頷きで察してしまう。イロナシの能力と言うべき力、望んだ世界に変えてしまう力。

「……それじゃあ、これは、僕が望んだことだっていうのか?」

 遠くから聞こえるサイレン。イロナシは微動だにしない。それは肯定と受け取れる沈黙だった。

「違う。違う、違う、違う、違う。僕はこんなこと望んでなんか……」

 そう望んでない。僕はこんなことを願ってなんていない。

『私はね、昔に戻りたいの。誠君と一緒に学校に通えていた、花を移し替えたあの頃に。ねぇ、想像してみて』

 ハッとした。

「こんなのが、君の望みだって言うのか!?」

『ねぇ誠くん、君の望みは何なの?』

 違う。全然違う。僕はそんなこと望んじゃいない。僕はいくら傷ついたって構わない。君が笑った顔がみたいだけなんだ。生きることなんて望んでなんかいない。

「僕は……!」

 僕に世界を変える力があるというなら、願ってやる。

 瞬間、イロナシに胸倉を掴まれ、意識はそっちへと持っていかれた。

「お前は咲楽の想いを踏みにじるつもりか。自分を捨てでまで、お前に生きてほしいと願ったんだぞ」

「お前こそ、何がしたいんだよ! 咲楽のために俺を殺して、咲楽のために世界を壊して。今度は咲楽のために本人を見捨てるのかよ! 矛盾してんだよ!」

「違う。俺は咲楽の意思を尊重しているだけだ」

「そんな上辺で、あいつが救えるかよ! いつも自分が悪いって思ってる馬鹿なんだぞ! こうやって僕を救ったのだって、勝手で、我儘で、偏屈で、面倒臭い性格のせいだろ! 僕より長い間ずっと咲楽の傍にいたくせに、それが分からいのかよ!」

「……俺は人間じゃない。だから人間の複雑なことは理解出来ない。でも、お前が俺以上に咲楽のことを想っていることは理解出来た」

 胸倉を離された。イロナシが頷いた。目を閉じると、新たな世界を願う。

 君が笑う世界。くすぐったいから笑うとか、可笑しいから笑うとか、そういうのじゃなくて、君がずっと笑顔で居られるそんな世界だ。

 周りの喧騒が次第に遠くなり、聞こえなくなる。

 イロナシの声が聞こえた。

「お前はどうして、そこまでするんだ」

 愚問だった。

「咲楽を愛してる。それだけだ」


 ※


 目を開けると、心のささくれを刺激するような痛いほど懐かしい光景が広がっていた。

 行き交う車、雑踏、話し声。人の営みが当たり前に行われていた。この音が、風景が、何もかもが突き刺さる。だが、感傷に浸っている暇なかった。

 自分の姿を見ると制服を着ていた。見覚えのある携帯で時間を確認する。状況から察するに、通学途中だったのだろう。

 僕は踵を返すと、電車に乗って、彼女の住む町へと向かった。

もしもこの世界が、僕が望んだ通りの世界なら、咲楽は引っ越しをせず、高二の今も生まれ育ったあの町にいるだろう。僕が初めて緒方と鮮川に出会ったあの町に。

 到着したのは夕方だった。既に太陽の色が哀愁を漂い始めさせている。

 あの高校に到着すると、下校時刻だったのか、校舎から生徒達が次々と出てきている最中だった。

 校門前の隅に立ち、出てくる生徒を確認していく。

 十数分後、この世界は僕が望んだ通りの世界だということを知った。

 咲楽が鮮川と肩を並べて出てきたのだ。冗談でも言い合っているのだろうか。楽しそうに笑う彼女は、まるで別人だった。目の開き方も、立ち振る舞いも、僕の知っている憂いさを帯びてはいない。

 きっとあれが本来の咲楽の姿なのだろう。昔読んだ緒方の日記にも、それを示す描写が書かれていた。

 一瞬、彼女と目が合った。だけど、彼女はすぐに目を鮮川の方へと戻す。それもそうだ。僕が忘れてしまったように、彼女にもまた記憶がないのだ。

 僕のことを忘れて、あの日々を忘れて、今の世界で笑えているなら、それもまた良いのかもしれない。彼女は十分傷ついた、過去の傷を知る必要は、どこにもない。

 咲楽の姿が見えなくなると、僕も歩き出した。

 思い出に浸って、町を巡った。緒方に拾われた公園、寝泊まりした家、咲楽と歩いた川沿い。桜は完全に散っていて、夏に向けて緑の葉が背を伸ばし始めていた。

 道行く人は皆笑っているか、前を向いて歩いている。なのに、僕は俯いて、あてもなく歩いている。赤信号で止まると、隣に学生のカップルがやってきた。

 仲睦まじいその姿に僕は自分と咲楽の姿を重ねてしまう。

 青信号になった時、僕は歩き出せなかった。

 感じ取ってしまったのだ。この世界に僕の居場所がないことを。

 生きる気力が底を尽きていた。

 昔はたくさんあった。本能だったのかもしれない。何度も死ぬくせに、生きたいという思いだけは誰よりも強く持っていた。なのに、今は雀の涙ほども出てこない。

 死にたいという気持ちはないが、生きていもしょうがないと誰か僕に囁てくる。

 赤と青が何度か入れ替わるのを見た後、コンビニでも行くみたいに不意に、その気持ちが芽生えた。

「……死のう」

 どこがいいだろう。どうやって死ねばいいのだろう。散々経験したことのはずなのに、いざ自分から死ぬとなると、何も案が思い浮かばない。

 顔を上げると、右折のタイミングを計っていたトラックが視界から退いた。向こう側に、見覚えのある人が立っていた。時刻は二十二時過ぎ。バイトの帰りだろうか。何にせよ、僕は目を奪われ、動けなくなってしまっていた。

 青信号になり、その人がこちらに向かって歩いてくる。そしてすれ違い、離れていく。

 何か喋りたかった。衝動的に口が動く。

「あの」

 その人が振り返った。黒髪がふわりと膨らみ、憂いのない大きな瞳が僕を映す。さ、と思わず名前を呼びそうになり、呑み込む。

「えっと…… 海に行くにはどっちに行けばいいですか?」

 咄嗟にデタラメを言った。海なんて本当はどうでもよかった。

 その人は首を傾げながらも「それなら」と親切に教えてくれた。声を聴いているだけで、欠けた心が満たされる。そんな幻覚に襲われる。

 教えてくれた道は何となく分かった。もしかしたら以前咲楽が言っていた海へと逃げた道なのかもしれない。僕は理解出来ない振りをして、なんとか一言でも多くその声を聞き出した。

「ありがとうございました」

 お礼を言うと、その人は会釈し、再びに帰路につこうと背を向けた。

 まだ喋りたりなかった。砂漠に一杯のコップの水じゃ足りないように、いくら聞いても聞き足りない。

 すみません、と執拗に呼び止めようとした。だが、これ以上はいけないと、言葉を再び呑み込んだ。これ以上は生きたくなってしまう。

 遠く、小さくなる背を見送り、僕は海へと向かった。


 足元の闇が満ち引きを繰り返している。足首まで入れると、靴の中に入り込んできて、一歩がとても重くなった。下からゆっくりと、体の感触が埋め尽くされていく。

潮の香り、波の音、水の感触、視界を埋める闇。味覚以外の五感が全て、侵略されていく。

 雲に、星に、夜空に、黒い海。それらと溶けて、一体になっていく。人を殺した僕の最期にしては、贅沢なシチュエーションではないだろうか。

 ドロドロと溶けて、腰まで浸かった時だった。

「待って!」

 声がした。聞き覚えのある愛おしい声。弾かれたように振り向くと、肩で息をしている咲楽がいた。

 何で…… どうして……

 制服が濡れることも厭わず、ずかずかと土足で踏み込んでくる。

「何をしているんですか、そんな制服が」

「制服なんてどうでもいい! それに何しているかなんてこっちの台詞!」

 理解が追いつかなかった。あらゆる可能性を考えてみるが、そのどんな可能性も咲楽は僕のことを覚えていないというたった一つの点で今の状況を否定させる。とにかく返事をしようと、また口から適当なこと言う。

「僕はその、泳ごうと思って……」

「絶対に嘘。泳ごうとする人は普通、服を脱ぐでしょ」咲楽が目の前までやってきた。

 合理的な答えが見つからなかった。どうして咲楽がここにいるのか、全く見当がつかない。

「もしかして、死のうとしてたの?」

「……違います」

「嘘」

「何で嘘だって分かるんですか」

「私も嘘つきだから、人の嘘は何となく分かるの」

「もしかして、僕が自殺するかと思ってここまで追いかけてきたんですか?」

 首を縦に振る咲楽。

「そんな、どうして、僕と君はそんな仲じゃ……」

 今の僕達の関係は道を訊いた人と訊かれた人だ。ここまでする道理も義理もないはずだ。

「仲とかそんなのどうでもよくて、助けないと駄目だと思ったの」

 雲から月が顔を出す。

「私は別に死ぬことが駄目だと思わない。どうしようもないことは世の中にはたくさんあるから。でも私は、暗い顔をすることは駄目だと思ってる」

 後ろ指の正体。咲楽が自己嫌悪をしていた理由だろう。校門から出てくる君を見て、明るく笑う君をどこか別人のように思っていたが、根はやっぱり僕の知っている君だった。

「だから私はあなたの自殺を止めに来たんじゃないの。笑わせるために来たの」

『霜月って全然笑わないよな』

『それはお互い様です』

 咲楽もずっと、笑った顔が見たかったんだ。

 僕は改めて彼女の顔をまじまじと見た。月に照らされて、幻想のように光を放つ。

 君は美しい人だ。夢みたいに儚いくせに、笑うと人懐っこい顔をする。感傷的な憂いさも、一度味わってしまうといつまでも後ろ髪を引かれてしまう。色白い肌もまるで花のように綺麗だ。でも惹かれるのは外見だけじゃない。どんな世界でも真面目で、人を大切に思う気持ちに揺るぎがない。その気持ちが強すぎて、時には勝手な押し付けもしてしまうけど、完璧な人間がいないように、その欠点も君の魅力だ。

 君みたいな人に出会えて、本当に良かった。

「ねぇ、君の本当の願いを教えてよ」

「願い?」

 僕は頷く。

 僕のためじゃない、君のための君の願いを。

「そうだなぁ……皆が笑ってくれることかな。皆が笑ってたら、私も心から笑えるから」

 そうか、それが答えだったのか。なら、僕が次に望むべき答えも決まった。

 後悔しないように、この光景をしっかりと目に焼き付ける。

 最後にずっと訊きたかったことを尋ねる。

「もし僕が一緒に死んでくれますか? って訊いたら、君はどうする?」

 彼女は一瞬の迷いもなく、笑って答えた。

「いいよ、あなたが笑ってくれるなら」

それは花を植え替えた時に見た笑顔だった。一点の曇りもない、他者にするための笑顔。

 僕が救われた瞬間だった。勝手に涙が溢れた。拭っても拭っても、拭い切れない。

 本当に人って、嬉しいと涙が出るんだ。

「……君を、死なせるわけにいかないよ」

 声が震えてみっともなかった。それを彼女は可笑しそうに笑うでもなく、優しく微笑んで、手を伸ばしてきた。

「じゃあ笑ってください」

 僕は彼女の手を握った。

 僕は願った。皆が笑顔でいられる、そんな世界を。

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