五章 また明日迎えに行くよ 6
やっぱり私は、幸せを味わい過ぎたのだろう。世界は平等ではなく、一人一人に味わっていい幸せの量が決められていて、私はあらかじめ決められていた以上の幸せを堪能してしまったのだ。だからこれは神様からの罰なのだ。
目が覚めると知らない病院にいた。ちぐはぐな記憶のせいで何がどうしてここにいるのか、しばらく分からなかった。
「君は運が良かった。奇跡だよ。夜釣りしている人がいなかったら、君はきっと生きてはいなかった」
白衣の男性が言った。夜釣りから、夜の海を連想した。
「……私の他に高校生の男の子はいませんでしたか?」
白衣の人は首を横に振った。それから色んなことを訊かれたが、私は何て答えたか覚えていない。
五階建ての病院を半日以上走り回って、見落としがないか同じ病室を何回も覗いて、彼がいないことを実感した。
後悔して涙が溢れて止まらなかった。私があの時、自分の欲求満たす一心に、あんなことを言わなければ。
もう二度と、あの顔を、あの声を、あの匂いを、あの温度を確かめられないと思うと、私の心を全部持っていかれたような気さえする。
警察の人が来たが、泣き続ける私に見かねて「また明日来るね」と去っていった。
可哀想な目で見る警察も、忙しくそうなナースも、優しそうな主治医も、物思いに耽る患者も、リハビリを頑張る子供も、目に映る全てが妬ましくて、羨ましくて、気持ち悪かった。
一頻り泣くと急に涙が止まった。泣き疲れたわけじゃない。私の体以上に巨大な喪失感が、心に風穴を開けていたのだ。
何もかもがどうでもよかった。生きることは元より、死ぬこともどうでもよかった。あらゆる欲求が、底を尽きていた。
無視を決め込んでいたわけじゃない。どうでもよかったのだ。警察も主治医もナースも、彼ら彼女らが発する言葉は何一つとして私の中で止まることなく、風穴を通して向こう側へと通り抜けていった。当然、返す言葉なんて持ち合わせなかった。
主治医が私に、何か病名らしきことを言っていたが、そんなこともどうでもよくて、私はただ窓の向こうを見つめ続けた。八月の大きな雲が、ゆっくりと流れていた。
私が歩こうとしないので、半ば無理矢理に車椅子に乗せられ、ナースの引率の元、散歩することになった。
「香織さん、どこ行きますか?」
ナースが私に呼び掛ける。名前が分からない私を病院の人達はそう呼んだ。どうしてそうなったかは分からない。名前なんてどうでもよかったし、訂正する気も、喋る気もなかった。
「香織さんは空が好きですねー。じゃあ屋上に行きましょうか」
私がいつも空を見上げているからそう思ったのだろう。私はただ首を楽にしているだけだった。
病院の屋上は、洗濯された白いシーツが並んでいた。打ちっ放しのコンクリートの上を車椅子が進む。男女の子供が笑いながらシーツの間から顔を出し合っていた。
世界がこんなにも灰色だというのに、空は世界のどこかにいる主人公のために澄み渡る青空を広げていた。
「良い天気ですねー」
鬱陶しかった。耳障りな金切り声も、上辺だけの気遣う声も、夏を象徴する蝉の声も、皮膚を焼く日差しの暑さも、何もかも、何かも、何もかも。ゴミに集るハエのように頭の上をぐるぐる回る。うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざい。全部、全部、全部、全部、全部、全部、消えてしまえ。
衝動に駆られて立ち上がると、驚くナースに向かって車椅子を蹴り押した。ナースが短い悲鳴を上げた。
駆け出して、転落防止の柵を乗り越えた。屋上の縁に立ち、眼下を見下ろす。
白線が消えかけたアスファルトの駐車場。そこと私の間には小枝の一本さえなかった。
ナースが私の仮名を叫んでいた。違う。私の名前は
『咲楽』と頭の中で彼に名前を呼ばれた。まるで呼ばれているみたいだった。
両手を広げ、目を瞑る。恐怖はなかった。彼に会えるのなら死んでもいい。それだけだった。胸一杯に焦がれて、早く彼に会いたいと、私は何もなに所に一歩を踏み出した。
だが、浮遊感はいくら待っても訪れなかった。背後から子供やナースの悲鳴が聞こえた。不信に思い目を開けると、人型をした黒い塊が私を抱えて空を飛んでいた。
それは一見、怪物に見えるだろう。明らかにこの世のものではない。だが私はその存在を知っていた。中学を卒業するまで私は毎日、この塊に色を足していたのだから。
「……イロナシ……」
名前を呼ぶと、「死なせない」と想像より、随分と幼い声がした。
こんな幻を見て、私は遂におかしくなったと思った。同時にこれ以上何も失うものがない私とって、これが現実だろうが、偽物だろうが、どっちでもいいことだった。
「全部消す。それでいいの?」
私は頷くと、目を瞑った。そうしないといけないと何となく分かったのだ。
直後、周りの喧騒が次第に遠くなり、聞こえなくなった。
彼がいない世界なんて、消えてしまえ。そんな世界に、意味なんてないんだから。
※
目を覚ますと、照明から吊り下がる糸が揺れていた。目眩がしそうな陽光が一転、薄暗い部屋に私はいた。白い壁紙、水色のカーテン、統一性のない本棚の本、使い古した目覚まし時計、既視感の強いそこは、お母さんと逃げてきたボロアパートだった。お母さんが仕事に行く準備を進めている。
「あら、珍しく起きるの早いわね。って、そういえば今日から学校だっけ。寝ぼけてその頭のまんまで行かないでね。朝ご飯作っておいたから。それじゃ、行ってきます」
何事もなかったように、お母さんは家を出て行った。部屋を見渡すと、義父の暴走がなかったように、全てが元に位置にあった。
何が起きてるの?
目に入ったカレンダーは四月。そんな馬鹿な、とテレビを点ける。いつもの朝の情報番組の画面端に4/4と表示されていた。流れていた映像も『まもなく公開! SFファンタジー塩の世界』という七月に見た映画の特集だった。
もしかして今までのことは全部夢だったのでは、と思った。お母さんが死ぬはずない、誠君が死ぬはずないと。
ハッとした。そうだ、誠君だ。
ぼさぼさの髪を適当におさげにまとめ、急いで制服に着替える。登校するには早いと思いつつも、焦る気持ちが抑えきれず、学校へと向かった。
頭の中は誠君のことでいっぱいだった。
既にちらほらと登校する学生の姿があった。転校する前の制服のまま走る私を、彼らは不思議そうな面持ちで遠慮なく見てきた。息を切らして、校門へと辿り着く。胸も足も痛い。でもこの程度の痛みどうってこともなかった。あと少しで教室に着く。昇降口へ行くと、私は思わず固まった。
耳まで掛かる髪、ブカブカな制服、ボケーッとした顔は名前を呼ぶと犬みたいにハッとすることを私は知っている。愛しの誠君がそこにいた。外履きから上履きに履き替えている所だった。ずっと見たかったその顔に、心臓が跳ね上がる。彼がこちらに気付き、目が合った。
吊り上がる頬を隠すことさえも忘れて、私は彼の名前を口にする。
「まこ」
「転校生?」
耳を疑った。発言だけじゃない、彼は初めての顔を見るかのように、物珍しそうな視線をこちらに向けてきていた。崖から落とされた気分だった。覚えてないの?と問いかけることが、馬鹿げているような雰囲気だった。
そこで私は察した。今までのは夢ではなかったのだ。本当にお母さんが死んで、本当に誠君が死んで、本当にイロナシが現れたのだ。そしてイロナシによって、時間が巻き戻されたのだ。そうすれば、この段階では私達はまだ知り合ってもいないことになる。
今にも泣き崩れそうになるのを必死に堪え、目元に溜まる涙にまだ流れるなと必死に訴える。
「……はい。あの、その、職員室ってどこですか?」その場を取り繕う嘘を言う。
「それならこの廊下を真っ直ぐ行って、階段の目の前が職員室だよ」
「……ありがとうございます」
誠君は私に背を向けると、そそくさと教室へと向かって行った。
行き場のない激流に呑まれ、私はその場から動くことが出来なかった。視界が滲み、足元に雫が落ちた。私はまた、泣いてしまっていた。
トイレに駆け込み、我慢していた声を吐き出す。ピンク色のタイルに私の声が反響する。まるで赤ん坊みたいだった。
彼と過ごしたあの日々が、全部私だけの思い出なっていることを考えると、頭がおかしくなりそうだった。
しばらくして落ち着くと、私は考えた。
このまま、彼と出会うべきではないのかもしれない。私は彼から貰う一方で何もしてあげられなかった。その上、私の問題に巻き込んで、人殺しをさせて、一緒に死のうと言ったあげく彼だけ死なせてしまった。彼の幸せを望むのなら、私は何もしない方が良い。
やり直された世界で、私は彼を無視することにした。
「提出期限は一ヶ月だからなー。出せない人は放課後残ってでも出してもらうぞー」
進路希望調査票は配られたその日に、適当な企業名を書いて早々に提出した。彼と仲良くなったきっかけは進路希望調査票の提出が出来なかったからだ。これで彼と出会うことはない。




