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五章 また明日迎えに行くよ 5

 夏休みが始まるまで残り二週間。私は誠君と観た映画の主題歌を聞きながら登校することが癖になっていた。

 塩が降り積もる世紀末の世界で織りなされるSFラブストーリーもの。最初は興味なかったが、実際に見ると、幻想的な白い世界に流れる感傷的なBGM、エンディングで流れる余韻を引き立たせる主題歌は私を魅了させたのだ。

 登校すると、朝早い誠君が「おはよ」と今日も笑ってくれた。


 学校帰り、夕立に打たれて、私達はパン屋の軒下へと避難した。

 どうしよっか、と話し合い、ここから一番近い誠君の家に行くことになった。鞄を傘代わりに誠君のアパートへと駆ける。

 家には誠君の母親がいた。私達を見るや否や、「あらあら、風邪ひいちゃう。先にお風呂入っちゃいなさい。レディファーストでね。それとも二人一緒に入るつもりだった?」

「バッカか」と誠君は顔を真っ赤にした。私の顔も赤かったかもしれない。

 近頃、シャワーだけで済ませることが多かったので、湯船に浸かるといろんなものが溶けていくようだった。

 お風呂を出ると、私と誠くんの衣服が入った洗濯機が回っていた。洗濯機の上には、着替えとしてTシャツと短パンが置かれていた。それらを着ると、誠くんの匂いがした。

 下着がないことに違和感を覚えるが、贅沢を言える立場ではない。腕組みをして誠くんの部屋に行くと、「寒いの?」と訊かれた。

「女性の腕組みにはいろんな意味があるの」

「ん?」

居間に入ると「食べてくでしょ?」と私の分のカレーまで用意されていた。

「えっと、こちら霜月咲楽さん、クラスメイト」

「初めまして」と頭を下げる。

「もしかして、これ?」と小指を上げてくる。

「まだ違うし! 古いし!」

「まぁだぁ?」

「もう、すぐ揚げ足取るのやめろよ!」

 その場にいるのが凄く恥ずかしかった。

 晩御飯を食べ終え、部屋に戻る際、誠くんの母親は「この家、響くから」とニヤニヤしながら言った。ナンノコトカワカラナイナー。

 部屋に戻った私達は、暑さなど気にせず身を寄せ合った。そこで他愛もない話を繰り返した。クラスのあいつがどうだとか、あの授業はどうだとか、生産性もないどうでもいい話を続けた。このくだらない話にも私は愛おしさを覚えた。

「そういえば夏休みの予定は?」と誠くんは訊いてきた。

「何にもないけど」と私が返すと、誠くんは真っ白なスケジュール帳を手に取った。

「じゃあさ、予定立てようよ」

「いいね」と私は誠くんの筆箱を勝手に漁り、ペンを取り出した。

 そうして私達は肌を合わせて、スケジュール帳を埋め始めた。海に行こうとか、花火を見ようとか、スカイ割りしてみたいとか、肝試しに行こうとか、一緒に宿題をやろうとか、くだらない話を交えつつ、スケジュール帳を予定でいっぱいに埋めていった。

きっと私にとって人生で一番楽しい夏になる。夏の青さをぎゅっと詰め込んだ夏にだ。

 私の半生を知っている人ならすぐに気付くだろう。山を迎えれば谷が来る。こんなに楽しみな夏休みが私にやってくるはずがないのだ。私は何故だか、それを理解していた。だからこそ、この瞬間がとてつもなく愛おしくて、かけがえのないものだった。


 七月の終わり。私は真澄さんに浴衣を着させてもらっていた。青を基調とした生地の中を赤い金魚が泳いでいる。

 誠君とお祭りに行ってくるというと、「じゃあいいものがあるわ」と箪笥の奥から出してくれたのだ。

「真澄さん、私ね、最近色んなものが以前と違って見えるの」

 夕日が沈む。夕焼けの名残りが失われて、藍色の空が広がり出す。

「不快だった夜の暗さも誰かの笑い声も、全部が愛おしく思えるの。変な風に言うなら輝いて見えるの」

 そう感じるのはきっとあの人のおかげ。あの人のおかげで、私の世界は姿を変えた。

 帯を締める背中から相槌が聞こえる。

「だからね、帰ってきたら色々お話しよ」

「咲楽がそんなこと言うなんて珍しいわね」

「はい、出来た」と背中が叩かれた。私はお礼を言うと、テーブルの巾着を手に持つ。

「気を付けてね」と言ってくる声に背を向け、緊張に背中を押されて、小走りで玄関へ向かった。

 既に照れくさくなっていた私は、高まった肺の空気を一息に吐くと「それじゃあ行ってくるね、お母さん」とドアノブに手を掛けた。

 帰ったらどんな顔をすればいいだろう。自分で言っておきながら顔から火が出そうだった。

 ドアを開けた瞬間、隙間から手が入ってきた。驚いて数歩下がる。ドアが無理矢理開かれる。そこにいたのは、義父だった。

「何で、ここに……」

 散らかったような髭に、ねっとりと光沢を持った髪。悪人のようにやつれた人相に、私は動けなくなった。義父は何事もないかのように私を押し退けて家の中に土足で入っていく。さぞ当たり前のように「ただいまー」と声を上げた。

 お母さんも驚きが隠せないようで、私達は互いに答えを求めるように目を合わせた。

「おい、酒だせ酒。もう三日も飲んでねぇんだよ」

「どうしてここに……」というお母さんの声が尻すぼみになっていく。

「いやー咲楽の元担任は良い人だよ。お金出したらどこに転校したのかすーぐ教えてくれた。えーと確か、吉野って言ったか、あいつ」

 背中を大量の虫が這いまわる。胃が収縮して、今にも吐きそうになった。

「先生は良い人なのに、どうしてお前らはこんなに駄目なんだ」

 足元のゴミ箱が蹴飛ばされた。悪意と敵意が丸出しで、隠す気も更々ない。

「俺に黙って引っ越しなんてしやがって。なぁ!」と義父はお母さんをグーで殴った。テーブルを巻き込んでひっくり返る。

「ったく」と俺はやりたくないけど仕方なくといった調子に義父が馬乗りになる。そこから躊躇いもなく、右、左、と交互に殴り出す。殴打、短い悲鳴が断続的に響く。

「俺は悲しかったよ。あんだけ金と時間を掛けたのに、またお前は俺を一人にするのか」

 怖かった。その場にいることが怖かった。息をしていることさえも咎められそうで怖かった。でも、今の生活が壊れる方がもっと怖かった。

「やめてっ!」

 私は義父を後ろから羽交い絞めにして、精一杯に引き剥がそうとした。だが、力の差は歴然としていた。義父の力には一切敵わず、簡単に振りほどかれてしまう。

 尻餅を着く。解かれた拍子に頬を殴られたようで、口の中に懐かしい鉄の味が広がった。思い出された感覚が全身を逆撫でる。全身が小刻みに震え出した。

 お母さんを殴ることを止めない義父。どうにかしないと……

 警察が頭に浮かんだ。携帯が入った巾着を探す。だが、どこにも見当たらない。その時、つま先が何かが当たった。陶器の花瓶だった。

 私は花瓶を手にすると、大きく持ち上げ、義父の頭目掛けて振り降ろした。

 瞬間、理性が邪魔をした。

 殴っていいの? 死ぬかもしれない。人殺しは駄目。もし殺したら私の将来はどうなるの? 誠君にもう会えなくなるんじゃ……

 瓶底ではなく、側面で殴ってしまった。陶器が割れ、水が飛び散る。義父の動きが止まった。ゆっくりと振り向く義父の額に血が流れた。

「いてぇじゃねぇか!」

 怒りに塗れた怒号は最早、人の言葉ではなかった。

 お母さんを踏みつけるように立ち上がった義父は私の胸倉を掴むと、容赦なく顔を殴った。顔の感覚が一瞬で無くなった。倒れる。視界が霞む。髪を掴まれ、無理矢理上体を起こされる。

 再び腕が勢いを付けようすると、お母さんが体当たりした。義父が壁にぶつかり、私も巻き添えをもらった。間髪入れず、血塗れのお母さんが義父抱えるように拘束した。

「早く逃げて!」

 悲痛な叫びだった。私は一心不乱に立ち上がり玄関へ向かう。

 直後、背後から人間の体から鳴ってはいけない音がした。骨が捻じ切れるような不愉快な音。肩越しに見ると、異様な痙攣を起こすお母さんの姿があった。

 死。

 かつて私が渇望した存在がそこにあった。けたたましい足音を鳴らし、私に迫って来ていた。でもそれは、私が望んだものではなかった。安息や安楽や逃避といったものとはかけ離れた、尊厳を無視した奪うだけの悪意の象徴だった。

 お母さんの死を実感する余裕もなく、一刻も早く逃げたいという衝動のまま体を動かす。

 玄関を開けた。夜の闇が部屋の中へ足を掛けてくる。

 背中が押された。突き飛ばされ、転落防止用の柵に思いっ切りぶつかる。体中が痛くて、指一つ満足に動かない。私の体に影が落ちた。ゆっくりと顔を上げる。義父が私を見下ろしてきていた。私にはそれが人の形をした殺意の塊に見えた。

 あぁ、私ここで死ぬんだ。こんな死に方、少し嫌だな……

 贅沢をし過ぎたのかもしれない。幸せになり過ぎたのかもしれない。私みたいな人間が、人並みに幸福を味わい過ぎたのかもしれない。だからきっとこれは、神様の罰なのだ。

 怖かった。それ以外を感じる余裕さえなく、私を呑み込もうとする恐怖から逃れるように目を瞑った。

「……親父?」聴き慣れた声がした。その声に心が動かされるのは、これで何度目だろう。

 私を迎えに来たであろう彼が階段上に立っていた。彼は私と義父を交互に目をやった。数秒の沈黙。それは嵐の前の静けさ。誠君が俯く。

「あんたは一体……何やってるんだよ!」

 叫びと共に、誠君が義父に飛び掛かった。

「おめぇには関係ねぇ!」

「関係ねぇことあるかよ!」

 飛び交う怒号。私は見ているしか出来なかった。柵にぶつかり、壁にぶつかり、床に倒れる二人。胸倉を掴んで、顔を殴って、腹を蹴って。敵意剥き出しの二人の争いは獣のようだった。揉みくちゃになる二人が階段へと近寄っていく。

「危ないっ!」

 落ちる瞬間、咄嗟に声が出た。しかし、そんなもので二人が止まるはずがなかった。

 次の瞬間には二人は視界から消え、階段を転がり落ちる音がした。音が止むと、これまでの騒ぎが嘘だったかのような耳障りな静寂が訪れた。

 階段に這いより、下を覗く。絶句した。

 頭から血を流し、あらぬ方向へと手足を投げ出して動かなくなった義父がいた。誠君はその義父の上で息を切らしていた。

 手摺を使って、ぎこちなく階段を下りた。改めて義父を見ると、目を見開いたまま、夜空を見ていた。不気味だった。

 頭が真っ白で、どうすればいいか分からなかった。誠君も言葉を失っているようで、ただ義父を見つめていた。

 後ろからドアの開く音がした。

「何よ騒がしいわね」気怠そうな女性の声がした。振り向くと、部屋から出てきた中年の女性と目が合った。悲鳴が上がった。静寂を貫いた金切り声はよく響いた。

「ち、ちが、これは……」

 私は弁明しようとしたが、女性はドアの向こうへと消えてしまう。あの人は間違いなく警察を呼ぶだろう。誠君を見た。目が合った。

「浴衣、似合うよ」と誠君は私の目元を拭った。何で今、そんなことを言うのか分からなかった。取り乱す私には分からなかった。

「ねぇ、どうしよう……」

 数秒の沈黙。

「……逃げよう」

 誠君は靴を脱ぐと、私に差し出してきた。されるがままに履く。手を握られ、駆け出す。彼に連れられて足を動かすと、ぶかぶかの靴がぱかぱかとした。

 お祭り会場とは真逆に向かう私達。楽しそうにお祭り会場に向かう人達とすれ違う。彼らは一様に不思議そうに私達を見た。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。

 人の目を避け、駐車場の柵を乗り越え、サイレンから遠ざかるように私達は走り続けた。何を考えればいいのかも分からず、無我夢中で走り続けた。

 逃げ着いた果てに、私達は海に辿り着いた。

 薄雲の向こうで月が光っていた。磯の香りが肺を満たす。閉店した海の家が、寂しそうに潮の満ち引きを眺めていた。

「全然人いないね」誠君が浜辺へと歩いていく。

 解かれた手は、誰かの血でべたついていた。海で手を洗う。

「ごめんね、巻き込んで」

 事情を把握仕切っていない誠君は、「大丈夫だよ」と隣にしゃがんで手を洗った。罪悪感で押し潰されそうだった。

「いてっ」と誠君が顔を歪ませた。足が海に浸かっていた。

「あ、ごめん」

足が擦り切れて海水が染みるのかもしれない。急いで靴を脱ごうとすると、またしても誠君は「へーきへーき」と微笑んだ。

こんな状況でも私を気遣ってくれるその優しさが、寧ろ辛かった。責めてくれた方がずっと楽だった。

 建物に反響してか、花火の音が聞こえてきた。本当だったら、私達も今頃見上げているはずだったもの。

 ……どうしてこんなところにいるんだろう。

 私は立ち上がると、水平線の向こうを目指して歩いた。胸を騒がすのは、耳にこびり付いた悲鳴と怒鳴り声、かつての死への願望。

「咲楽?」

 浴衣が濡れて、足が重くなる。されど私は足を止めない。

「待ってよ」

 水面が太腿に触れた辺りで、誠君が私の手を掴んだ。私は振り向いて、彼の顔を見た。こんな時でも心が騒めいて、欲しくて、しょうがなくなる。

「……ねぇ、教えて、どうしてこんなことになったのかな」

 声を出すと、堪えていた涙が一文字ずつ一緒に溢れ出す。

「私がいけないのかな? 生まれてきたのがいけなかったのかな?」

 たくさん殴られた。たくさん泣いた。たくさん諦めた。たくさん奪われた。ようやく見つけた幸せも壊されて、居場所さえもなくなった。

 開きかけていた蓋が完全に開いた。底に吹き溜まっていた十年分の重みが、私を海の底へと引きずり込もうとする。

「咲楽は何も悪くないよ」

 月並みの言葉でも彼の口から発せられるそれに、私は簡単に救われそうになる。浮つきそうなる心に『死ねばもっと楽になるよ』と足枷が囁いた。

 お母さんが死んで、義父も死んだ。何でお前はまだ生きているの? 死ね、死ね、死ね。散々聞かされた同級生達の言葉が再生される。ノートに、机に、教科書に書かれた言葉が脳裏に過る。

 私は何で生きているんだろうと考えた。幾つもの夜をその悩み共に越してきた。生きる意味が見いだせないまま、結局私は生きている。私が死ぬことで喜ぶ人達は、私が死ぬことで悲しむ人達よりも沢山いるかもしれないのに。

「じゃあ何で、皆私に酷いことするの? 私がいけないからでしょ? 憎いからでしょ? 死んでほしいからでしょ? もう疲れたよ。他人に悪意を向けられるのはもうたくさんだよ」

 言葉を遮るように抱き締められた。これまでに感じたことのない感覚。

 優しくするためとか、慰めるためとか、その場繋ぎのためとか、同情したからとか、そんなそこら辺のカップルがするありきたりな抱擁じゃなかった。悪い所も良い所も全部ひっくるめて、受け入れてくれるような安心感が胸に広がる。でも私はこんな幸せを享受してはいけない。

「やめてよ……私のこと何にも知らない癖に……」

「うん、知らない。昔や、君を取り巻く環境も何も知らない。でも今の君なら知ってるよ。機械音痴で、人付き合いが苦手で、甘いものが好きで、笑いそうになるとそれを隠そうとして、流行りものに疎くて、根暗で。いつも見てたから知ってるよ。自分を責めるぐらい真面目なのも知ってる。でも、自分を責めなくていいんだよ。自分を責める必要なんてどこにもないんだから」

「私はズルい人間だよ。拒絶しても誠君ならきっとこの手を放してくれないと思って言ったんだよ。それが思い通りになって私は今、喜んでるんだよ」

「それを信じるっていうんだよ」

「そんなの屁理屈だよ」

「でも、事実だろ?」

 奇跡だと思った。好きな人が、醜い私をこんなにも受け止めてくれていることが、現実にあっていいのかと疑問にさえ思った。

「咲楽が今幸せなら、もしかしたらこの一瞬のためにこれまでの不幸があったのかもしれないよ?」

誠君がそう言えば、その通りのように思えた。そうすることで、これまで生きてきたことを肯定できるように感じることができた。

 そこで私はまた一つ、幸せを確かめたくて、ずっと思っていたことを口にした。

「私と一緒に、死んでくれますか?」

 誰かに「生きていていい」とずっと言われたかった。言われることで、この不安な気持ちを一時でも晴らしたかった。もし愛している人が「生きていてほしい」と言ってくれるのなら、死んでも悔いはない。

 彼は戸惑いの表情一つ見せず、口を開く。

「いいよ、君が笑ってくれるなら」

 私が望んでいた以上だった。この人を愛して、本当に良かった。心の底からそう思った。

 愛した人が私のために死んでもいいと言ってくれる。噓偽りを感じさせないその響きに、その表情に、私は身も心も全て彼に捧げていいとも思った。

 愛した人と一緒に最後を迎えられる。これほど嬉しいものが、この世にあっていいのだろうか。この世の最後に訪れる最後の瞬間だからこそ至高の幸福なのかもしれない。

 私は誠君の胸で目一杯に泣いた。子供みたいに声を出して、丸裸の感情を、誠君はずっと撫でていてくれた。

 生きることが正しいというのは生死を描いた物語に毒されたもの考えや、思考停止した固定概念でしかないと私は思う。私はそんな押し付けがましい囚われ方はしない、したくない。全てを失う救い、幸せの中で終わらせる喜び。

 泣き止む頃には、月が高く登っていた。照らされた水面が、夜の帳を揺らす。

 私と誠君は手を繋いで、水平線の向こうを目指して歩いた。

 この胸に満ち溢れる幸せを、永遠のものにするために。

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