五章 また明日迎えに行くよ 4
休日。テスト勉強そっちのけに近所の図書館へと向かった。市役所に併設された図書館は中々に大きく綺麗な所だった。
通い慣れたそこで目当ての本を探していると、本棚と本棚の間に背表紙を眺める城嶋君の姿があった。見かけた瞬間、私は思わず棚の影へと隠れた。
何でここに!?
私はトイレに駆け込んで前髪を直した。
こんなことなら、もっと真面な恰好してくれば良かった。
妥協出来る域まで容姿を整え、ふぅと焦りを吐き出す。心の準備をすると、あたかも今思いがけず出くわしたというていで話し掛けた。
「あ、城嶋君、こんな所で会うなんて奇遇ね」
「おお、霜月……奇遇ねってそんな言葉遣いだったか?」変な所に突っ込むな。
「何か探し物ですか?」
「探し物っていうか、霜月がこないだ読んでた本、僕も読もうかと思って」
吊り上がりそうになる頬を抑える。
それから私は城嶋君にあの本はどうこう、この本がどうこうとレビューをしながら夢中で図書館を歩き回った。
気付くと日の色はオレンジ色に変わっていた。
「すみません、私、夢中になっちゃって……」と俯くと「霜月が楽しそうでなによりだよ」と城嶋君は笑った。
「今度また色々教えてよ」
「私何かで良ければ」
「じゃあ今度のテスト終わりとかどう?」
驚いた私は開いた口から言葉が出ず、首を縦に振ることしか出来なかった。
家に帰った私に、真澄さんはまた「何か良いことであったの?」と訊いてきた。その時ばかりは「ちょっとね」と返した。
カレンダーを見ると、テストまで後三日もあった。
テストを前日に控えた日、城嶋君が「今日ウチ親いないんだ」と言い出した。
私はすぐに、今日ウチ来いよ、の意味だと理解したが、あえて「へー、そうなんですか」と焦らすことにした。城嶋君は尚も「いや、だから今日ウチ親いないんだよ」と引く様子はなく、私は白を切ることで焦らされる城嶋君を楽しんだ。
中々折れず、このままじゃこの話しはお流れになる可能性があると思った私は、渋々と「じゃあ今日は城嶋君の家で勉強会をしましょうか」と根負けすることにした。
無論、男子の家に行くのは初めてだった。しかもその相手が城嶋君ということで、期待半分、緊張半分で冷静さを失いかけていた。
家に着くと、私と同じような二階建てのアパートだった。玄関に入ると、その家独特の匂いがした。私の緊張はより高まった。
廊下を真っ直ぐ行くと居間があり、廊下の途中にトイレとお風呂、その向かい側に城嶋君の部屋があった。
城嶋君の部屋に入ると、「飲み物持ってくるよ」とお茶かコーヒーかを訊かれた。
「お茶でお願いします」
一人部屋に残された私は、どこに座って、どこに荷物を置けばいいのか分からなかった。とりあえず荷物を持ったまま、部屋の物色することにした。
特に部屋を装飾する物品はなく、必要そうなものだけが棚に置かれているだけ。随分と質素だった。男の子の部屋ってこんななのかな、と思いながら、興味本位でタンスを開ける。中には無理やり詰め込まれたであろう品々が、休日の観光地のようにひしめき合っていた。
あ、これ見ちゃいけないやつだ、と扉を閉めた。それに合わせたかのようにタイミングよく城嶋君は二つのコップを持って部屋に帰って来た。
それからすぐに勉強会は始まった。城嶋君は勉強机に、私は机に隣接するベッドに腰付けた。
「この数式の解き方は、このページに書いてある公式を使って……」と私は教えながら、何を期待していたんだか、といつも通りの何もない展開に少しがっかりしていた。
城嶋君に「じゃあ、ここまでの問題解いてみて」と言うと暇を弄ぶことになった。
城嶋君を横目に、本棚を眺めることにした。週刊誌の漫画がズラリと並び、私は何気なく一冊を抜き取った。
これが有名な国民的ゴム漫画か……とパラパラ捲っていると、私は気付いてはいけないことに気が付いた。本一冊の長さに比べると、本棚の奥にはまだ空間があるようだった。おかしいな、と覗いてみる。そこには服を着ていない女性の背表紙が見えた。
「きゃっ!」
「どうした?」
「いやーこの漫画面白いなーと思って」
「今度貸そうか?」
「は、はい、あ、ありがとうございます」
何とか誤魔化せた。いやらしい本の存在は知っていたが、現物は初めて見た。心臓がドキドキと脈打ち、顔が熱くなるのを感じた。私はお茶を一気に飲み干すと、所定の位置に戻り、大人しくすることにした。
私が変に想像するようなことはなく、それから勉強会は何事もなく進んだ。
「じゃあ最後、この問五が解けたら終わりにしましょう」と最後の指示を出す。城嶋君は「おっけい」とその問題に取り掛かった。
何かあるはずないよね、と私はベッドへと倒れ込んだ。
仄かに漂う城嶋君の匂いに、頭がふわふわし出す。そこで寝返りを打つ振りをして、枕へと顔を埋めた。心弾むその匂いは、中毒性を持った麻薬のようだった。いつまでも嗅いでいたい。
流石に息苦しさを感じ、首を横に向けた。
真面目な顔で問題を解く城嶋君の横顔。目を瞑った。
このまま寝た振りを続けたら、城嶋君はどうするのだろう。唐突にそんなことを思った。私は出来るだけ自然に寝息を立てる振りを始める。間もなくして城嶋君は「終わったよ」と言った。私は予定通りに狸寝入りを続けた。
さて、どうするのかな、と音と気配に意識を集中する。城嶋君は私の名前を小声で何度か呼んだ。自分の名前を呼ばれる度にくすぐったくなる。緩みそうになる頬を必死に抑えた。すると、音と気配が近くに来たような気がした。目を開ければ、目の前に彼がいるような気がする。心臓の音が彼に聞こえないか心配になる。
そして、それは一瞬だった。唇に柔らかな感触を感じた。驚いて目を開けそうになった。寝返りを打つ振りをして誤魔化す。彼に背を向けた私は縮こまり、高鳴る心臓を抑えつけた。こんなことがあっていいのだろうか、最早罪さえ感じてしまう。出来れば、もう一度したい。その至福の瞬間を求め、私は再び彼の方へと体を向けた。
結局、二度目はしてくれなかった。夕日が瞼の裏を赤く染めた時、名残惜しさを感じつつ、私は体を起こすことにした。
「家まで送るよ」と城嶋君は自転車の鍵を手に取った。日本人の礼儀として「そんな、大丈夫だよ」と私は一度断りを入れる。もちろん、送ってもらう気は満々だった。
念願の二人乗り。スカートが邪魔で横向きに座る。自転車の二人乗りは法律で駄目だと知っていたから、こんな小さな反則行為も私はドキドキとした。
ぎこぎこと、自転車が唸りを上げて、重たそうにペダルが回りだす。
「どっち?」と訊いてくる彼に、私は「右ー」と敢えて遠回りになる道を教えた。勉強を教えたのだ。これぐらいの我儘、罰は当たらないだろ。
土手に上がると、寄り添う二つの濃い影が、コンクリの上を滑った。
城嶋君は気分良さそうに、最近の流行り曲を口ずさんだ。私はそんな城嶋君を唐突に困らせたくなった。
「ねぇ」
「何?」
「何であの時キスしたの?」
海外中継のような間を起き、「え、ちょ、あのとき起きてたの!?」と城嶋君は私が見てきた中で一番顔を赤くして驚いた。それが夕日による見間違いかは分からない。
それがおかしくて、声を出して笑った。
「ほら、前向かないと危ないよ」と彼の頬を両手で挟む。
高架下を通り過ぎる時、私は再び彼の名前を呼んだ。
「ねぇ城嶋君」
「次はなんだよ」
電車が真上を駆け、あらゆる音を掻き消す。その瞬間、私は器からはみ出した想いを、「好きぃ!」という言葉にして叫んだ。
「何ぃ? 全然聞こえないよ!」
「何でもない!」
私の精一杯の気持ち。聞こえなくてもいい。ただ口にしたかった。抑えきれそうにないこの想いを一度でいいから、彼の前で口に出してみたかった。
「なんだよ、気になるじゃん!」
「しーらないっ!」
このまま永遠に、この道が続いていたらいいのに。
夕日に焼かれた水面が、キラキラと乱反射を繰り返していた。
翌日からのテストはボロボロだった。上の空というのは、ああいう状態のことを指すのだろう。何度も何度も昨日の出来事を思い出し、吊り上りそうになる頬。
テストが終わる度に、二人してテストの出来を嘆いた。あれだけ二人で勉強した数学さえも、酷いありさまだった。口を揃えて言った台詞は「文章問題の文章が頭に入ってこない」という言い訳だった。
テスト週間が終わり、三連休となった。その三連休の全てを私達は二人で過ごすことにした。
初めてのデート。少しでも城嶋君に気に入られようと、精一杯のオシャレをして、十五分前に待ち合わせ場所に向かった。向かっている間、目に付く窓ガラスを前に何度も前髪と麦わら帽子を微調整した。でも会った途端、そんなことどうでもよくなって、二人して時間前に集まったことに笑ってしまった。
数を増してきた蝉の鳴き声は、夏の始まりを予感させた。




