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五章 また明日迎えに行くよ 2

 高校一年になると義父は無職になった。無職、無色、イロナシ、なんてね。つまんないか。

 どうやら会社が倒産したらしく、人並みに凹んでいて、ざまぁみろと思っていた。しかししばらくして、これは良くないのでは、と我に返った。

 義父は毎日家にいるようになり、朝から晩までお酒を飲んでいた。俺は偉い、頑張っているのに上手くいかないのは世間が悪いと怒鳴り散らし、暴力は過激さを増していった。

 高校は中学よりは平和だった。誰も私の過去を知らないというのは手放しで喜んでしまいそうなほどに。

 だけど、小中と友達がいなかった私は、人とのまともな会話の仕方さえも分からず、一人で空回りをし続けた。結局、最初の大型連休は真っ白なカレンダーのまま迎えることになった。

 期待通りにいかなかったとは言え、高校は私にとって避難所となった。休みだろうが、部活みたいに通学二時間の道を足げなく通い、締め出されるギリギリまで図書館に籠った。

 「おや、霜月さん、今日も図書館ですか。随分本が好きなんですね」

 休日、廊下で担任の吉野先生と遭遇した。

 礼儀正しく、生徒達からも人気のある先生だ。だが生憎、私は礼儀正しく人気のある先生というのは苦手なので、お辞儀だけを済ませると早足でその場を立ち去った。

 吉野先生はたまに変なことを言う。

 「もしこの世界が、自分のいるべき世界ではないのだとしたら、どうして私はいるべきではないこの世界にいるのでしょうか」

 この間の国語の授業ではそんなことを言っていた。

 世の中、自分の思った通りにはいかないことの隠喩だと思った。

 きっと誰でも感じているであろう感覚。

 世界とか壮大に言って、アニメや漫画みたいなことをよく現実で堂々言えるなと感心してしまう。悪い意味で。

 夢みたいなこと言ってないで、もっと現実と向き合えばいいのに、と思った所で、完全にブーメランだと自覚した。

 そんなことを思い出したせいで、その日読んだ本の内容は頭には入ってこなかった。

 帰り道、駅でバイトの情報誌が目に入った。

 バイトを始めてみるのもいいかもしれない。一部を手に取り、電車の中でパラパラと捲る。家に帰ると、前歯のない人がニタニタと笑っていた。

 「咲楽ちゃんおかえり。久しぶりだね、待ってたんだよ。あれ、その手に持ってるの、もしかしてバイトするの? なら丁度良かった。おじさん、とっても良い話を持ってきたんだ」

 嫌な予感がした。

 「い、いえ、大丈夫です」と部屋に逃げ込んだ。続きは聞いてはいけないと思った。

 私の名前を呼ぶ義父の怒鳴り声が聞こえた。

 「まぁまぁ落ち着いて。こういうのは無理矢理は駄目なんですよ。少しずつ距離を縮めて、妥協案で落ち着いてから深みに嵌めていくんです」

 家の壁の薄すさが、役立つとは思いもしなかった。

 

 高校一年が終わろうとした時、義父は遂に越えてはいけないラインを越えてしまった。

 酔った勢いで真澄さんの頭を酒瓶で殴ったのだ。瓶底に当たらなかったのが不幸中の幸いだった。一部始終を見ていた私は声も上げられず、唖然としていた。床に流れる赤い液体が、ワインなのか、血なのか分からなかった。

 俺は悪くないと言わんばかりに義父は椅子にふんぞり返ると、また酒を飲み始めた。

 立ち込めるワインの独特の渋い臭い。

 「おい、片付けておけ」と義父は顎で散乱したガラスを指した。

 私は義父を無視し、真澄さんの元に駆け寄った。どうやら一瞬気絶していたようで、「あら、私どうして倒れているの?」と何が起こったのか理解をしていなかった。

 我慢の限界だった。

 「いい加減にしてよ!」と慣れない大声を上げた。怒っているのに、涙が溢れそうだった。

 しかし義父は「あ?」と慣れたように喉を唸らせ、酒瓶でテーブルをど突いた。威勢に気圧され、それ以上何か言うことは出来なかった。

 散らばったガラス片とワインを見てか、真澄さんがようやく理解したようだった。ふらつくのかテーブルに掴まりながら立つ。傷むのか顔を歪めて手で頭を抑えた。

 「……殴ったの?」

 「うっせぇよ! 俺に殴らせるお前がいけねぇんだろ!」

 真澄さんは何も言わず、家を飛び出していった。

 「……追い掛けないんですか?」

 ビール缶が飛んできた。中身が入っていたのか、ズシリとした痛みが脇腹に走った。

 「あ? 何様だお前?」

 私は真澄さんを追い掛けた。夜通し探したが、見つからなかった。

 数日が経った。義父が泥酔して寝ていて、私が高校に行く時間に真澄さんは帰ってきた。

 夜逃げすると真澄さんは言った。首を横に振る理由が、私にはなかった。

 義父にはバレないように転校の手続きを済ませ、春休みに入ったその日、私と真澄さんは義父の元を去った。

 「あの家にいればいつか殺されちゃう」と真澄さんは涙ながらに語り「あの家の貯金、全部持ってきちゃった」と真澄さんは笑いながら語った。

 真澄さんは義父と再婚する際に、実家に勘当されたので実家には帰れない。ならどこへ行くのだろう。幾つもの電車を乗り換え、いくつかの県を跨いだ。辿り着いたのは古臭いボロアパートだった。

 「今日からここに住むの」

 玄関のすぐ横に台所、仕切りを挟んで居間があるワンルームの小さな部屋だった。

 義父がいない、もう怒鳴られることも殴られることもないと思うと、涙が出てきた。ようやく終わった。何もかも、何もかも。

 それから真澄さんは寝る時間を削って朝から晩まで働き、仕事が終われば次の仕事といった具合に働き詰めた。だから家事は全部私がやった。

 近所のコンビニでバイトを始めた。高校生のコンビニバイトの時給なんて高が知れているが、少しでも生活の足しになればと考えてだ。

 真澄さんは私が家事をしている所を見ると「いつもありがとう」とお礼を言ってきた。狭いアパートの家事はすぐに終わるし、何よりお礼を言うのは私の方である。でも私はお礼を言い返したり労ったりすることが出来ずに「うん」とそっけなく返事をすることしか出来なかった。

 昔から私に土下座をするような真澄さんとの関係は既に親子や家族といった関係ではなく、居候という具合に冷め切ったものになっていた。会話なんてほとんどない。温かさを微塵も感じない居心地の悪い我が家だが、暴力の恐怖がないだけ、マシだった。

 春休みが終わり、高校二年の新学期から新しい高校に通い始めた。

 転校生ともあって、色んな人が声を掛けてくれた。

 だけど相変わらず人とまともな会話が出来ない私にはやっぱり友達は出来なかった。

 それでも良かった。穏やかに過ごせるなら、これ以上望むものは何もなかった。


 日々繰り返される同じ毎日。

 テレビで有名アーティストが「昨日と同じ日は来ない」と歌っていた。細部に違いはあれど、少なからず私には昨日と今日の区別はつかなかった。

 起きて、二人前の朝食を作り、学校で授業を受け、二十二時までバイトをし、帰宅して寝る。判を押したような代り映えのしない昨日と今日。きっと明日も同じだろう。

 そんなある日のことだった。

 毎日同じ惰性のように時間を食いつぶしてきただけに、正確な日付は覚えていない。でも確か、鯉のぼり準備をしている人達がいたから、四月の終わり頃だった気がする。

 進路希望調査票の提出をすっかり忘れていた私は放課後になっても教室で頭を抱えていた。

 大学へ進学したいが、そんなことを言える環境ではない。そうなると就職の一択になるのだが、就職するにしてもどこで働きたいかなんて希望はない。

 そうやって空欄と睨めっこを続けていると、夕闇が迫ってきていた。

 クラスには私以外にも一人、空欄と睨み合いを続けている生徒がいた。

 確か、城嶋君、って言ったかな?

 城嶋君はクラスでも中堅に値する人で、たまにクラス内で名前が出されるから名前だけは憶えていた。

 完全下校の五分前、彼は自分の席から離れず私に声を掛けてきた。

 「霜月さんは決まった?」

 突然だった。男子からあまり声を掛けられないことも重なり、何て返事をしていいのか分からなかった。たっぷりと時間を掛けて、真っ白な頭から捻り出されたのは「決まりません」という無愛想な台詞だった。

 言った直後にもっと気の利いた返事がたくさんあったでしょうがー、と後悔したが、城嶋君は気に留める様子もなく「だよねー」と伸びをした。

 「働きたくなくて安直に親の金で大学に進学する奴らが羨ましいよ」と城嶋君はプリントを折り始めた。

 もしかしたら城嶋君も進学したいけど、就職しないといけない現実とぶつかっているのだろうか。

 一人で勝手に親近感を覚えた私は、「それ進路希望調査票じゃないんですか? 折っていいんですか?」と自分から話題を振った。

 「駄目に決まってじゃん」と紙飛行機にしたプリントをゴミ箱に向かって飛ばした。

 「一年後の話を今考えてもしょうがないよ。それより不審者と遭遇して未来が潰されないように、早めに帰ることの方が賢明じゃない?」

 飛行機は綺麗に滑空し、壁にぶつかってそのままゴミ箱の中へと落下した。

 ガッツポーズした城嶋君が「ね?」とあざとく振り向いた。

 それもそうかもしれない。

 結局のところ、プリントに進学と書こうが、就職と書こうが、私の明日は変わらない。

 先生には明日、プリントをなくしましたと言えばいい。

 私はプリントをぐしゃぐしゃ丸めると、横の窓を開けて外へと投げた。

 捨てちゃいけないものを捨てるのは、気分が良かった。

 「いてっ! 誰だ!」

 あ。

 「やべっ教頭の声だ」と荷物をひったくるように掴んだ城嶋君が「早く逃げんぞ」と私の手を引っ張った。

 熱くて、力強いのに、これまで経験した中で一番優しい男子の手だった。

 憧れた漫画の一ページみたいだった。

 男子に手を引かれて、廊下を駆ける。悪いことをしたのに罪悪感もなく、寧ろドキドキしてしまっていた。

 泥棒みたいにコソコソと一階の窓から外に抜け出すなんて初めてだったし、上履きで外に出る感触も新鮮だった。靴を履き替えるために一目を気にして昇降口に入るのもおかしかった。

 裏門から抜け出すと、思わず私達は声を出して笑ってしまった。

 「焦ったー」と汗も出てないのに態とらしく額を拭う城嶋君。

 「そうには見えませんよ」と突っ込むと「あ、バレた?」とこれまたふざけた。

 「バレバレです」と笑ってしまう顔が恥ずかしくて、両手で口を隠した。

 「裏からの帰り方知らないでしょ? 送るよ。外も暗いし」

 断る理由が思いつかなかった。

 自転車通学だという城嶋君。

 「乗りなよ」と二人乗りを勧められたが、申し訳なさと恥ずかしさで断った。

 「じゃあ荷物貸して」と鞄をカゴに入れ、彼は私の歩幅に合わせるように自転車を押してくれた。

 「すみません、帰るの遅くなっちゃいますよね」

 「え、別に気にしてないよ。どうせ早く帰ったってやることないし」

 こうやって気を使われるのも、同い年の男子と並んで歩くのも初めてだった。

 その時の会話はほとんど覚えてない。ドキドキする心臓のせいで、どうにかなりそうだったから。

 寝る前に夕方のことを思い出す。くすぐられているようで頬がほころんでしまった。


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